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桜前線

染井吉乃は笑わない


     *


 学級委員なんてなるもんじゃない。

 おれはそう考えながら春の校庭を歩いていた。

 ちょっとまだうすら寒い空気を肩で切って大きな染みがいくつも浮かんだコンクリートの校舎A棟とB棟にはさまれた陰を抜けるとそこはグラウンドだった。朝6時にはまだ部活の朝練もなく誰の姿も見当たらない。おれは野球場のバックネットから目をそらしたまま歩き、グラウンドの隅にある物置小屋から竹ぼうきを出すとグラウンドとその裏手にある土手を隔てているフェンスの扉をくぐった。

 おれたちの高校のすぐ後ろには蜂巣川が流れており、小高い土手が川とグラウンドを隔てている。少し登ると土手の上に出た。咲き始めの桜がなぜかもう大量に散って朝露を被った雑草の緑にわずかな桃色を加えていた。

 おれが目を上げると見渡す限り遠くまで続く土手とそこに並んで生えている桜並木が見えた。まだ満開には程遠いが、十一カ月地味な木肌をさらした桜が年に一度着飾る時期だ。おれはその華やかさにちょっと心和ませながらも土手を見渡した。人影はない。

「かー、おれだけかよ!」

 おれの高校では生徒全員が何らかの部活に所属しなければならない。それが免除されるのは(おれたちはそれを兵役免除とよんでいるが)、生徒会役員や学級委員などの役職についているものだけだ。帰宅部目指したおれは、一番負担の軽そうな園芸委員に立候補して首尾よくその地位をゲットした。そうしたら顧問が早朝奉仕活動とか言い出して、今日は朝早くから土手の落ち葉や雑草を掃除することになったのだ。確か各学年七クラスずつで二十一クラスあるから園芸委員も最低二十一人はいるはずだ。顧問を始め朝に弱いやつらなのか。おれは再び土手を進みながら見回したが、そよ風のほかには誰もいなかった。

 一瞬つん、と花の匂いがした。花弁をすりつぶした匂いだ。

 桜の香りを知っているだろうか。普通、桜には匂いがないと思われてるが実はかすかに香る。子供のころ桜の花びらを指の間ですりつぶして匂いを嗅ぐのが好きだった。正確には花の香り、というのとは違うかもしれないが、おれの匂いの記憶リストには登録されている。たった今春風に乗って漂ってきたのはその桜の香りだった。おれはしばらくその香りに誘われるようにして土手沿いに歩いた。桜のトンネルをくぐっているようだった。

 人影は突然現れた。

 桜の木の一本に隠れていたのか、おれが人一人に気づかないほど考え事に夢中になっていたのか、とにかくその少女は気づいたらおれの目の前に立っていた。やつれたように細い黒髪が肩の上で切りそろえられている。薄桃色のジャージの上下を着ている。ジャージの色が遠目には桜雲の中に紛れてしまいそうだ。おそらく、そのせいで近づくまで気づかなかったのだろう。

「あれ。きみも園芸委員?」

 おれが声をかけると少女は振り返った。おれは思わず息をのんだ。低血圧そうな真っ白の肌。墨色の眉、はっきりとした目鼻立ち。花びらのような唇。ティーンズ雑誌の表紙に載ってそうな少女だ。にこりともしない少女は鋭い視線でおれを一瞬見やると、すぐに目をそらした。

 おれがよくよく見ると、明らかにおれたちの高校のジャージとはデザインが違う。いや、ジャージと思ったが、薄い胸の前は着物のように合わせてあった。少女は桜の木の正面に立ち、少女と木の間には新しく土を埋め戻した跡があった。わずかな盛り土に折り取られた桜枝が一本刺してある。おれは推察したままを言った。

「死んじゃったんだ?」

 少女は桜の墓標を見たまま答えた。「うん」

「なにが」

「ピロ」

 おれは墓の前で黙とうした。ピロという犬(あるいは猫?)が昨夜死んで人目のない早朝にこのは埋葬に来たのだろう。動物墓地以外に犬を埋葬するのは県の条例違反だが、愛着のあったペットを景色のいい場所に葬ってやりたい、という気持ちはわかる。

「きみ、運がいいな。今朝は園芸委員の奉仕活動の日だったのに埋めるところを見つからなくて」おれはあたりを見回した。

「ここはけっして見つからない」少女は墓を見つめたまま言った。

「いや、たまたま運がよかっただけだよ。現におれに見つかっちゃったし」

 少女はおれに振り返った。まっすぐにおれを見つめる深い黒色の瞳には何の怖れも浮かんでない。おれはちょっとどきどきして自分の髪の毛を前から後ろになぜた。

「あなたは……なぜ入れたの?」唐突に少女が尋ねた。

「え……なぜって、普通にフェンスのドアを開けてきたぜ」

「埋めるところを見た?」

「いや、でもこれは墓標だろ」おれは桜枝を指さした。「盛り土がでかすぎるしな。挿し木をしたようには見えないぜ」

(だからか)

 少女はあきらめたような顔をしてつぶやくと桜枝を引き抜いてぽうんと放り捨てた。

「誰も知らないで場所でひっそりと眠るわけだ。あとで探せるかな、この場所」

「わたしは……覚えている」

「それならいいよな」

「あなた……だれ?」

「そっちこそ誰だよ。おれは琴吹慶次ことぶきけいじ。日本一めでたい名前の男だ!」

「おめでたい……やつ」

「いや、それだと意味変わるから」

 少女はなにも言わなかった。やりにくいな。普通くすっ、くらい反応があるだろう。

「きみはどこの生徒?」

「言えない」

「自分だけ聞くのか」

「うん」

 ストレートな返事だった。悪びれた様子もない。

「いやでもさ、おれも動物好きだし」

「そう」

「きみ、ここの生徒じゃないなら、どこかほかのガッコだろ。遠いの?」

「そう」

「遅刻すんじゃね」

「今日はさぼるから」

「あ、そうか。いや、おれもときどきさぼりたくなるよ。ガッコってうぜえよな。共感するぜ」

「阿鼻叫喚」

「いや、それ違うから。ぜんーっぜん違うから」

 おれのツッコミにも少女は無表情なままだった。受け狙いで言ってるんじゃなさそうだ。天然?

 そのとき、おれは妙なことに気づいた。彼女の薄桃色の服の胸についているもの。

「血?……がついている」おれは赤色を指さした。

 彼女はちらりと目をやるとこともなげに言った。

「返り血」

「返り血?」

「とどめを刺したから」

 おれは自分の笑顔が不自然になるのを禁じえなかった。

「とどめって……ピロはまだ生きていたの?」

「うん」

「まじかよ」

「まじ」

「ひどいじゃないか。まだ生きてたのに」

「ひどい?」

 少女は心底不思議そうな顔をした。

「そうだよ。犬だって猫だって命のあるものを簡単に殺すのはよくないよ」

「長く苦しむよりいい」

 おれは彼女の言葉を好意的に解釈しようとした。ピロという犬はガンにかかって、あるいは交通事故で重傷を負って、痛みが激しく……、いやそれでも普通獣医に連れてって薬殺するでしょ。自分でとどめって……。

「これが作法」

「なんの作法だよ」

「わたしたちの」

「わたしたちって誰だよ」つい口調がきつくなってゆく。

「言えない」

「言えないのか」

「うん」

 取り付く島もなかった。彼女は現れた時と同様になぞはなぞのままだった。

 おれは仕方なく墓と彼女とを交互に見つめた。

 突然、彼女は振り返って見上げた。

「行かなきゃ」

「どこへ」

「……」

「言えないのか」

「うん」

 仕方なかった。おれは立ち去る彼女の後姿を見ていた。急に彼女は振り返っておれを見つめた。なにか言いたそうにしている。

「なんだ」

「わたし……」


「染井……吉乃そめい……よしの

 少女が言うにつれ、なぜかその言葉の漢字が宙に現れた。その文字は空中の見えない紙に墨書をしたためたように黒かった。おれはそれで彼女の名前をどうつづるのか瞬時に理解した。その漢字はゆらゆらとはためくと徐々に薄くなり、最後には川に流したように消え去った。

「いまの……なんだ」

 おれの問いには答えず、染井吉乃と名乗った少女は無言で立ち上がり歩み去った。おれは追おうとしたが、彼女はみるみる遠ざかった。

 桜の香りは再び強くなった。おれは彼女の後姿をながめながら、だんだんと視界が真っ白になるのを感じた。


     *


 おれが土手から降りてフェンスをくぐり、グラウンドにもどるとばらばらと園芸委員たちが物置小屋から出てくるところだった。

「おい、琴吹!」

 顧問の佐藤先生だった。日本で一番多い苗字の人間だ。ちょっと減らす対象にされそうな。

「琴吹。どこで油売ってたんだ。もう奉仕活動は終わったぞ」

「え、蜂巣川土手ですよね?」

「そうだよ。お前だけ遅刻だ」

「そんな! おれ一人で来てたのに。あと染井っていう女子が一人と」

「どこをほっつき歩いていたんだ。染井なんて名の女子は園芸委員にいないぞ」

 佐藤先生は名簿を見ながら言った。

「今度からちゃんと集合時刻に間に合うようにきなさい」

 おれは全然腑に落ちず、ぶつぶつ言いながら教室に入った。


 教室ではみんなが三々五々集まってホームルーム前のおしゃべりに興じていた。おれは入っていくなり「おっす」とあいさつしたが、だれも返事しなかった。代わりに学級委員長の女の子が近づいてきた。ひっつめ三つ編みのおさげに引っ張られたような細い釣り目をしている。ええとこの子の名前はなんだったかな。

「琴吹くん。あなた先週からの提出物がまだ出ていません。保護者の印を押してもらって出して。早く」

「わるいわるい。ちょっと事情がございまして」

「怒られてるのに、あんた、なんでそんなに無駄に陽気なの」

 おれは胸にこぶしをあててポーズを作り、決めセリフを言った。

「それはおれが琴吹慶次。日本一めでたい名前の男だからです」

 学級委員長はまったく受けた様子もなく、馬鹿にしたようにふん、と鼻を鳴らすと後ろを振り向きざま言った。

「じゃあ早くしてね」

 おれの決めセリフにまともにつきあってくれる人は誰もいない。そう考えておれはちょっとため息をつきたくなったが、みんなのいる前で暗いところを見せたくはなかったので努めて息を強く吐いた。

「はあっ」

 すぐそばにいた女子二人がさっと引いた顔つきをした。クラスが一瞬押し黙る。おれが怒鳴りだすかと考えたらしい。おれはにかっと笑った、つもりだったが日本人にはこの笑い方は似合わないようだ。だれも笑顔を返してはくれなかった。一瞬の沈黙が終わると、何事もなかったように教室は再び雑談の音で満たされた。

 おれは一つだけぽつんと離れた場所に置いてあるおれの机から椅子を引き出し、学生かばんを右手でかけようとしてちょっと固まり、がばんを左手に持ち替えて机の左袖にかけた。

 一息ついたら近くのひそひそ話が聞こえてしまった。

(琴吹ってマジやばいらしいよ)

(根は良さそうな子に見えるけど)

(あのカッコじゃん)

(人は見かけによるんだ)

(入学早々、暴力事件を起こしたんだって)

(えーじゃあなんで退学にならないの)

(裏で組織とつながってるらしいよ)

(マジ!)

(まじまじ)

 ばかばかしい。

 人間って確かめもせずいいかげんなこと言うよな。反論する気も失せておれは腕組みをし目を閉じた。

 ふう。

 久々の早起きで今頃になって眠気が襲ってくる。おれは雑談の声をバックグラウンドに聞きながら知らないうちに眠り込んでいた。

 誰も起こさなかった。


 おれはマウンドに立っていた。

 かっせ、かっせ、と敵スタンドから声援が聞こえる。

 おれは右手で帽子のつばをちょっとなで、キャッチャーの目を見た。相棒はだまってうなずく。

 敵バッターの焦りがここまで伝わってくる。

 カウントはツースリー。

 おれは大きく振りかぶって、スライダーぎみの剛速球をストライクゾーンのど真ん中に投げ込んだ。ストライク、アウト!

 その途端、世界が崩壊した。

 おれの周りの世界がピクセルとなって分解してゆく。

 たちまちのうちに景色は消え、虚無のみが残る。

 おれは逃げようとしたが、おれの右腕が分解し始めた。

 消える消える。

 うわあー。おれは叫んだがおれの身体の分解は止まることなく、おれはそのままゆっくりと消滅した。


「おい、琴吹」

 声で目が覚めた。がば、と身を起こすとおれの前に腕組みをした数学教師が立っており、クラスの全員がおれを見ている。おれは事態をさとると手を頭の上に乗せ「けへっ」と笑顔で言って見せたがだれも笑わなかった。微笑む者すらただの一人もいなかった。

「琴吹。授業中だ」

「すみません」

「お前、せめて授業だけは真面目に受けろ」

「わかりました」

 おれは殊勝にうなずいた。数学教師はそれ以上はなにも言わず後ろを向いて去って行った。

 おれは真面目に授業を受けようと努力したが、頭の中ではおれの決めセリフにただ一人答えてくれた少女のことを考えていた。


     *


 夕方、おれは忘れ物を取りに再び学校にいた。教室から出てきて校門の方へ向かう途中、再びあの香りをかいだ。

 桜の匂い。

 もう日没だ。あと数分でみるみる暗くなってゆく。おれはしばらく逡巡したが、もう一度土手へ行ってみることにした。

 グラウンドを横切り、フェンスの扉を開けるとあの匂いはさらに強くなった。なんとなく焦燥に駆られ、土手を駆け上った。学校正面の土手はきれいに掃き清められており、園芸委員が今朝奉仕活動したというのは嘘ではなかったようだ。

 土手の上についたとたん、丁度日が暮れた。遠目をこらすと、桜の木の根元にぼんやりと白い影が立っている。

 おれが近づくとそれは薄桃色のセーラー服を着たほっそりとした姿だった。

「おい、染井か?」

 白い姿は振り返った。それは今朝がた見た少女の白い顔だった。

「また」染井はいぶかしげだった。「入ってきた。どうやって?」

「おせっかいで悪いけどな。女の子の一人歩きはやめた方がいい時間だぜ」

「なぜ?」

「なぜって。たまに危ないときもあるからな」

「それは」染井はうなづいた。「知ってる」

「知ってるのにふらふら出歩いてるんだ」

「そう」

「知らないぜ。危ない目にあっても。いくらここが田舎とはいっても夜は昼間とは違う顔を見せるんだ」

「そう。夜は危険」

 おれはちょっと腹が立った。

「わかってるなら……」

 急に染井はきっと固い表情でおれの背後を見つめた。おいおい、アカデミー演技賞ものだぜ。

「来て……しまった」染井はあきらめたように目を閉じた。長いまつげが黒々と翻った。

 染井の様子があまりにも真剣なので、ふと後ろを振り返ったおれはそこにありえないものを見た。


     *


 黒い影の化け物。

 そう言う以外に「それ」をなんと表現したらよいのかわからない。その影は身長三メートルほど。全身が真っ黒というより闇のようだ。吸い込まれそうに色がない。手足が異常に長く、動物ともまた違っていた。異星人だと言われても信じてしまいそうだ。ただし、その怪物には知性も親しみも全く感じられなかった。

 黒い影は口を開けた。呆然としていたおれを染井がわきに突き飛ばしたと同時に化け物が「カッ」と唾を吐いた。おれと染井は反対側に分かれて倒れ、その間を化け物の唾が飛んで落ちる。

 ジュッ

 怪物の唾が落ちた場所が黒焦げになった。そのあとでむせるほど酸っぱい香りが漂ってくる。強い酸かなにかなのだろうか。

「わわわわわ! こいつなんだ」

 おれは尻もちをついたままあとずさった。素早くあたりを見回して逃げ道を探す。夕闇の中、どこを向いても道らしきものは見当たらない。走れば逃げおおせるだろうか。こいつは鈍重そうだから。でも足はけっこう長いな。おれは素早く思考した。

 立ち上がる前におれの前に染井が立ちはだかった。

「おい。やめとけ! 逃げろ!」

 おれは叫んだ。見上げるような巨大な化け物の前では染井の姿はあまりにも細く、弱弱しく見えた。しかし染井は一歩も引かなかった。

「攘夷」腰を低く構え、怪物をにらみつけて発した声。

『MAD DONG』怪物がどこからか言葉を発した。

「意味のないあわれな文字よ。形を失い、くうに還れ!」

 そう叫んだ染井は両手を胸の前で組み合わせ、口の中でなにかを唱えた。

(臨兵闘者皆陣列前行)

 怪物が再び唾を吐く瞬間、おれたちの前になにやら文字が現れた。


盾盾盾盾盾盾盾盾盾盾盾盾盾盾盾盾盾盾盾盾盾盾盾盾盾盾盾盾盾盾盾盾


「カッ!」

 突然現れた文字に唾があたり、酸性の唾はおれたちの体に届く前に「盾」の文字に阻まれた。「盾」の文字が焦げ、いびつに穴が開く。

『MAD DONG』

 怪物が前に進み出た。不器用な歩き方だ。真っ黒なもやもやとした身体の顔のような部分が割れ、歯が見える。染井は一歩も引かない。

 もう一歩進み出た怪物が叫んだ。

『AINP!』

 見るといつの間にか地面にはいくつもの文字が散らばっている。


罠 罠 罠 罠 罠 罠 罠 罠 罠 罠 罠罠罠罠罠罠

 罠 罠 罠 罠 罠 罠 罠 罠 罠 罠 罠罠罠罠罠罠


 「罠」と書かれた文字に怪物は足をからめとられてもがいた。足にくっついた「罠」の字が激しく揺れるが、怪物を自由にはしない。

「言葉よ。意味から解き放たれ、虚無へ還れ」

 そう言うと染井は再び別の文言を唱え始めた。


   牙牙牙  牙牙 牙牙  牙牙牙牙    牙牙

    牙牙  牙   牙  牙  牙   牙

     牙 牙     牙 牙   牙 牙

      牙       牙     牙


 「牙」という文字がギザギザの形を作り、怪物のとらわれている空間の上下に現れた。そのまま「牙」という文字は上下から噛み合わさり怪物の体をゆっくりとかみちぎった。怪物の体から鮮血がほとばしり、怪物は金属爪で黒板をひっかいたような叫びをあげた。血は光のように輝くと怪物の身体は爆裂四散した。


 目が慣れるとあとにはなにもなかった。怪物のいた場所は草が刈り取ったように短くなっているが、草刈りかまで刈ったのとなんら変わりはない。強烈な酸で焦げた場所だけが、あれが幻ではないことを物語っていた。

「お、おい。今のなんだ?」おれは尻もちをついたままたずねた。

 染井はしばらくだまっていたが、やがてぽつりと言った。

夷敵いてき

「夷敵?」

「この時期にはよく来る。あれは「はぐれ」だから一匹だけだった。「黒船」が来たらこんなものではすまない」

「すまん。なにを言ってるのか全く分からねえ。あんなやつがまだまだいるのか?」

「いる」

「いや、目で見ても信じられねえ。大体あんなのが現れたら大騒ぎになってニュースとかネットで広まるだろ?」

「この中は普通の人間には見えない」

「この中?」

「桜結界」

 染井はおれにまっすぐ向き直るとおれを見つめた。なにか言いたそうに、考えている。しかし結局口をつぐんだ。

「結界。そうか結界か。ははは。おれ、結界の中に入っちゃったんだ……て、認められねえ。あの化け物を見ても、脳が認めるのを拒否ってる。信じられねえよ」

 おれはヒステリックに笑い出した。夢なら覚めてくれ。こんな異常なところからおれを出してくれ。やだよ、もう。

 混乱するおれの視界に白い足が入った。彼女が近づいたのだ。目を上げると染井の視線があった。

「あなた……面白い」

「面白がるとこ? そこ」

「わたしは……わからないから」

「なにが」

「そんなに怒鳴ったり叫んだり……」

「いや混乱してんだよ。きみは怖くないのか、あれ」

「こわい……」

「あんな怪物を見たら胃がきゅーって縮んで痛くなるだろ」

「いえ」

「平気なんだ」おれはふーと息を吐いた。「とにかく助かった」

「あ」染井はなにかを感じたかのように胸をおさえた。「その感じ」

「どうした」

「あなたの今感じてる気持ち。いい」

「安堵?」

「そう。あなた言葉が上手」

「はあ、普通だろ」

「普通……そう。それが普通」

「?」

「普通の人間の気持ち」

 染井は目を開いた。大きな瞳がおれの胸を射た。

「わたしも……あなたみたいになりたい」

 まったく変な少女だった。だが可愛いからすべて許す。

「あのさ。もう少し聞いてもいい?」

「なに」

「さっき漢字が宙に飛んでたろ。あれなに?」

言霊ことだま

「言霊?」

「そう」

「あれ、きみが出したの?」

「そう」

「きみって何者? 魔女かなんか?」

「ソメイヨシノ」

「きみの名は昨日聞いた」

「いえ……そうじゃなくて」

 染井は困ったような顔をした。

「不便」

「なにが?」

「あなたには……漢字がわからない」

「???」おれはもっとわけが分からなかった。

 染井は立ち去りながら一度だけ振り向いた。

「もうここへ来てはだめ」

「なんでだよ」

「危険。そろそろ桜前線が始まるから」

「はあっ? なにが始まるって? おれにわかるように説明してくれ」

「桜前線」

 再び染井の前で「桜前線」という文字が宙に現れた。文字はおれの前をたゆたうとゆっくりと消えた。

「これじゃわかんねえよ」

 しかし染井はおれが言霊に気を取られているうちに去った。桜の匂いが薄まって消えると、夜に呑まれた染井がどこに行ったのか見えなくなった。


     *


 おれは交番を目指して走っていた。信じてもらえるか甚だ疑問だったが、とりあえず土手の周辺をパトロール強化してもらって、いや、あんな化け物が出たら警察もどうすんだ。警察って人間の犯罪者相手の組織だよな。じゃあ、化け物相手なら動物園か猟友会みたいなところなのか。いや、自衛隊くらい出てこないと無理でしょ、あの化け物相手じゃ。

 そう考えながら夜道を走っていくと、ちょうど目の前に制服を着た姿が現れた。

「あっ、ちょうどよかった。お巡りさん」

「なんだね。こんな夜更けに。きみは高校生?」その警察官はにこにこしながら言った。「夜歩き回るのはよくないな。危険があるよ」

 まだそんな遅い時間ではないが。

「ええと、蜂須川土手の方で不審者が」

 あの怪物を不審者と呼ぶのはだいぶん語弊があるが、誤解を避けるには適当な表現だろう。そのお巡りさんはまったく驚いた様子なく続けた。

「そうか。どんな奴だった?」

「ええと、その……」おれは言いよどんだ。本当に見たままを話すべきか。いや、それありえないでしょ。

「どんな姿をしていたんだい?」

「あのですね。不審者というか、野獣というか……」迷ったおれは歯切れ悪くなった。

「真っ黒で身長三メートルくらいの手足の長い」

「ああ、はい。そうです」

 言ってしまってから、おれは警察官の顔をまじまじと見た。この人、なんでそんなことを知ってるんだろう。

「それは「夷敵」と言うんだ。諸外国から我が国の「気」の流れを乱すためにやってくる敵だ」

 おれは押し黙った。警察官は瞳が見えないくらい目を細めてにこにこしたままだ。それがかえってものすごく不気味だった。

「あんた……だれ?」おれはやっとのことで言葉をしぼりだした。口の中が乾いていた。

「私はケイサツ官だよ」

「警察官?」

刹那夷敵警戒機動部隊せつないてきけいかいきどうぶたい。略して警異刹ケイサツだ」

「ケイサツ」おれは馬鹿のように繰り返した。さっきの少女といい、この男といい、どこかずれてるというか、ドッキリですとかコスプレイベントですとか言われた方がしっくりくる。あの怪物を見た後でなければ、だが。

 おれの混乱に構わず、ケイサツ官は続けた。

「我が国には古来より国体を保つため気の集合体がある。これを大和魂と言う。しかし夷国はこれを乱し、日本ひのもとを自分たちの流れに加えるために障害となる大和魂を滅ぼそうとたびたび襲来してきた。日本で一年の気の流れが決まるのが二十四節気の清明せいめいから穀雨こくう、ちょうど今の時期だ。この時期に来襲する夷敵どもから大和魂を守るために戦いが行われる。この防衛線を桜前線という」

 桜前線って、桜の咲く状態を現した全国地図じゃなかったんだ。おれはようやく染井吉乃の残した言葉の意味を理解した。

「敵は日付偏向線のすきをついて桜結界に侵入する。侵入した夷敵の動向は刻々と気瘴庁きしょうちょうによって報告され、我々警異刹が掃討戦を行う」

 おれはもうただぼんやりと聞くだけだった。

「夷敵との戦いには通常の武器ではかなわない。大和魂を力に変える言霊ことだまを使う必要がある」

「言霊」

「そう。普通、日本人は相手の「けいじ」という名前を聞いてけいじの「けい」はどういう漢字ですか、と聞き返すだろ。でも先ほどわたしが言った「警異刹」や「気瘴庁」という言葉の文字をきみはただちに理解しただろう。それはわたしが言霊によって音声のみの言葉を具現化したからだ。言霊が文字になって読めたはずだ。ただ、わたし程度の言霊力では夷敵たちと戦うことはできないがね」

 ケイサツ官は言葉をついだ。

「そこで、大和魂を強く具現化する言霊の達人が必要だ。その中で女性たちは大和撫子と呼ばれる。我々の組織に属する女性戦闘員は全員、この大和撫子にして、日本ひのもとを夷敵から守る言霊使いなのだよ」

 おれは黙ったままだった。ここ笑うとこ? しかしその男から伝わる狂気のような真剣さを感じて笑うことができなかった。そんなおれにケイサツ官は優し気に微笑んだ。その笑顔が気持ち悪かった。

「きみはソメイヨシノに会ったんだね」

「ソメイヨシノ」じゃなくて「染井吉乃」です」おれには言霊だの言葉を墨書した半紙を宙に飛ばすような技は使えなかったが、ケイサツ官が宙に飛ばしたカタカナの言葉を訂正した。

「同じことだよ」ケイサツ官はまったく表情を変えずに答えた。「個にして集団、集団にして個、それがソメイヨシノだ。しかしきみは変わっているなあ」

 ケイサツ官はおれの顔をまじまじと見た。

「一般人だ。特にこれといって優良種というわけでもない。どちらかというと不良。なぜ桜結界に侵入できたのかな。きみはなにかそのう……特別な能力といったものを持っているのか」

 それはおれも聞きたいことだった。染井もそんなことを言っていた。その桜結界とやらに入らなければおれは夷敵とかいう化け物に襲われることも、この気持ちの悪いケイサツ官に職質を受けることもなかったんだ。

 そして染井に会うことも。

「知りませんね」おれはふてくされて言った。

「おいおい。態度が悪いなあ。くれぐれもわたしが今話したことや結界で見聞きしたことは他の人に教えてはだめだよ」

「いや。これを秘密にしとくって無理でしょ。大体こんな大変なことが起こっているのに、世間に隠しておくだなんて」

「重大なことだから隠しておくのだよ。今は馬鹿な連中が自分の見聞きしたことをすぐに携帯端末で撮って公衆回線に流すものだから、こちらの動きも軍事機密も夷国に筒抜けだ。きみがそんな愚かな連中の一人でないことを願うよ」

「警察に届けます」

「我々がケイサツだ。警視庁や警察庁は人間の犯罪にしか対応しない」

 黙ってにらむおれを見て、ケイサツ官はやれやれという表情をした。

「わたしがこれらを説明したのは、きみが軽率にもこれまでのことを触れ回って世間を騒がせることのないようにとの優しい配慮だよ。もしきみが世間にこのことを報せようとしても、誰も信じないだろう。そしてもし、誰か信じる者が現れたら……」

 おれはなにか胸が苦しくなり目を上げた。

「きみは日本で毎年、何人の行方不明者がいるか知ってるかね。我々は大和魂を守らなければならない。遊びではない、戦いなのだ。子供は下がっていなさい。そして……」

 ケイサツ官は駄目押しのように言った。

「ソメイヨシノのことも忘れるんだ」

 それは誘拐されるか殺されるとほのめかされるよりも衝撃だった。

「おれは……」

「いい、ね」

 そう言うとケイサツ官は白い自転車に乗って去って行った。おれはその姿が去った夜道を見つめていた。ふと、怒りがむらむらと沸いてきた。あいつ、何様のつもりだ。べらべらとしゃべってから秘密を漏らすと殺すぞ、みたいに脅しやがって。

 おれは拾った石をケイサツ官の去っていった闇にむかって投げつけた。びゅっと小石が空気を切る音とその後にアスファルトにあたってこつんという音が聞こえた。


     *


 翌朝、一睡もできずに早朝家を出たおれはふらふらと歩いているうちに再び学校のグラウンドを横切っていた。今朝は桜の匂いはしなかった。フェンスの扉をくぐり、蜂須川土手に登ったが、咲き始めた桜並木が視界の限りを薄桃色にしている他はなにも見当たらなかった。おれは染井が作った墓とおぼしきところへ行ってみたが、どうしても新しい盛り土の跡は見つからなかった。

 おれはそんな風にして始業時間のチャイムが聞こえてくるまで土手をうろうろと歩き回っていた。そのまま教室に入ったが、なにか自分だけ一人ぼっちのような気がした。胸が痛かった。なにか熱に浮かされたようになってなにに対しても身が入らなかった。誰も話しかけないのはいつも通りだったが、休み時間中の周りのおしゃべりも授業中の教師の声も心を素通りした。そんな風にして一日が過ぎた。


 ちょうど下校前のホームルームの時間だった。おれは窓の外の裏庭を見るともなく見つめていた。教師がなにか話していたが、おれには聞こえなかった。机の上にプリントが配られたが、文字は目に入らなかった。

 一陣のそよ風が吹いてきた。


 桜の匂い。


 おれはがば、と立ち上がった。教室のみんながおれを注視している。担任の先生がなにか言いたそうにしているのを置き去りにして、おれは教室を飛び出した。そのまま走ってグラウンドを横切った。教室からクラスのみんなの視線が背中に当たるのを感じたが、振り返らなかった。フェンスを潜り抜け、昨日染井に会った場所に行ったが、誰もいなかった。匂いはもっと先の方から漂ってきて。

 おれは狩猟犬のように桜の匂いだけを追跡して走った。土手の小道に沿って走ると桜のトンネルを抜けるようなビジョンを感じた。天井も壁も薄桃色に覆われているような気がした。そうして走ってゆくと出口の光が見え、ついにはまぶしい光の中に飛び出した。確かにトンネルを抜けきった感覚があった。

 おれはあたりを見回した。ここは?

 おれは後ろを振り返った。たった今まで駆けてきた蜂須川の土手がなかった。薄桃色の空が見渡す限り続いており、ときおり見事な桜の木が屹立しており、その枝は桜の花弁をこぼれ落ちそうに満々とたたえていた。どうやら「桜結界」とやらに再び入ることができたようだった。

 再度正面を向いたおれは見渡す限りの地平線を見た。自分がどこにいるのか、どうやってもといた場所に戻ればいいのかわからなかった。

 迷子になったのは小学生以来だったが、不思議と不安は感じなかった。桜の木と吹くそよ風が優しいからかもしれなかった。おれはしばしそよ風に身を任せてたたずんだ。静かだ。そよ風の合間に桜の枝から芽吹く音がぷつっと聞こえてきそうに。

 おれは一番手近な桜の木に歩み寄った。ちょうどおれの頭の高さまで枝がしだれてすぐ目の前に白か薄桃かわからないくらいの花弁が盛られている。おれはそのアーチをくぐると木肌に手を触れた。それはあたたかだった。

 ぷちっ

 触れたところからおれの心の中に何か言葉のようなものが流れ込んできた。おれは最初音が聞こえたと思って空いた方の手で耳をすませたが、何も聞こえてはいなかった。言葉はおれの手を通じて直接心に流れ込んでくるのだった。意味は分からないがいくつか小学生で習った漢字のようにも思えた。しかしその流れはおれに力強い励ましを与え、おれがここにいることを肯定してくれるような気がした。おれは手から心に流れ込む心地よいエネルギーとそよ風の香りを楽しみながら目を閉じてくつろいでいた。

 これが大和魂なのか。

 おれはずっと見続けている悪夢や誰も友達がいないことなどをしばし忘れ去った。


 そんなおれの気分を壊したのは別の匂いだった。

 鉄の匂い。いや溶鉱炉の鉄の焼ける臭いだ。

 突然ディキシーランドジャズの音が鳴り響いた。その音は空から響いてきた。広告の飛行船かな。見上げると薄桃色の空に黒い渦が巻き起こってきた。ちょうどテレビの天気予報で見る台風の衛星写真みたいだが真っ黒だ。黒い渦はだんだん大きくなり、そうして中心部が熟したように色が赤く変わるとそこが開いた。

 開いた穴からたくさんの黒い塊が降ってきた。どすん。どすん。どすん。

 黒い塊は地面につきささると、ゆっくりとほころびを解くようにひろがり、立ち上がった。

 夷敵。

 昨日見た手足の長い化け物だった。

 夷敵の塊は隕石のように次から次へと地面に突き刺さり、あたりはみるみるうちに起き上がってゆっくりと伸びをする夷敵の群れだらけになった。

 おれは後ろを見、周りを見回した。

 囲まれた。

 あいつらは口から酸性の唾を吐くんだ。そしておれにはやつらを倒すすべはない。

 数体の夷敵がおれを認めたようにゆっくりと近づいてきた。

『GANEVITE』

『HEADT』

 なにか言っている。

 おれは桜の木を背にしていたが、夷敵の口の部分が開くのを見てとっさにわきへ転がった。

 カアッ

 酸の唾はおれではなく、桜の木にかかった。たちまちびきびきと音を立て桜の枝が煙を噴出させて委縮する。

「なにしやがる!」

 おれは叫んだが、夷敵たちの目的はおれではないようだった。桜の木を囲んだ夷敵たちは次々と酸を桜の木にかけた。木が焦げて叫び声をあげたような気がした。

 おれは手近な夷敵にとびかかり、こぶしで黒い身体を殴りつけたが、それは紙のように手ごたえがなく、たわむだけだった。

 おれは今にも唾を吐こうとする夷敵の後ろに回って飛びつくと、両肩をつかんで別の夷敵に向けた。

 カアッ

 酸の唾は隣の夷敵にかかり、そいつはアルミホイルを畳むようにくしゃくしゃになってつぶれた。物理的な攻撃が効かないわけではないらしい。

 仲間の一体を失って初めて夷敵どもはおれに興味を持ったようだった。おれの方をにらむように頭のような部位を前に屈めて一体が近づく。

 おれはフェイントをかけてから突然走り出した。しかし夷敵の一体が手をするすると伸ばしてきた。歩く動作はのろいのに、手を伸ばすのは信じられないくらい速い。

 おれはかろうじてその手をかわしたが、腕は関節がないかのように途中で曲がり、ありえない角度でおれを追撃してきた。

 その手に気を取られたおれは別の方向から伸びてきた手にからめとられた。

「うわわ、放せ! 放せ、ちくしょう!」

 おれはもがいたが夷敵の手から逃れることはできない。五本指だが、親指にあたるものがなく、すべてが同じ方向に曲がって巻きつくようにおれの身体をからめとっている。

「放せ。このやろう」おれは夷敵の手を殴りつけたがびくともしなかった。夷敵の手はおれを持ち上げて顔の前にかかげた。そのまま顔とおぼしき場所にぱっくりと口が開く。きれいに並んだ黒い歯の間に真っ赤な口の中が広がっている。

「う、わあああああああ」

 おれは目をおおった。もうだめだ。喰われるか酸性の唾をかけられて殺される。


 斬


 天から巨大ななにかが振り下ろされ、おれは夷敵の腕につかまれたまま地面に転がった。見るとおれをつかんだまま夷敵の腕が切り落とされ、地面に落ちていた。おれは上を見上げた。


 さわさわさわ

 さわさわさわ


 桜吹雪が遠くから吹き寄せてくる。やがておれのいる場所にも届いた。遠くから桜雲のような集団が走ってくる。ときおりそこから墨書の文字が飛んできて夷敵にぶつかった。


 斬

 夷敵の首が切れて飛んだ。


 破 破 破

 夷敵の一体が爆裂した。


 壊

 夷敵が崩れて砂のように地面の上に崩れ落ちた。


 攘夷

 攘夷

 攘夷

 攘夷

 裂帛の掛け声が地を揺るがせる。

 気が付くと染井のような背格好の少女たちが多数走りこんできて、それぞれ夷敵たちと戦っていた。少女たちはみな、身体にぴったりとした薄桃色のレオタードを着ており、頭と口はスカーフでおおっている。いや、レオタードに見えるが胸元は着物のように重ねている。いわゆる忍者服のようだ。夷敵の吐く唾や突然伸びてくる腕などをかわし、様々な言霊を放つ。文字が夷敵に当たるたびに夷敵は倒れていった。

「大丈夫?」

 声に顔をあげると染井がいた。染井は昨日と同じ無表情で、おれに手を差し伸べていたが服装はほかの少女たちと同じ薄桃色の忍者服だ。ただし頭と口はおおわずに露出している。

「おう」おれは照れくさくてその手にはつかまらず、自分で立ち上がった。ズボンをはたく。

「大丈夫。おれは、日本で一番縁起の良い名前の男だ」

 突然、ものも言わずに染井がおれを突き飛ばし、再びおれは地面に転がった。同時におれのいた場所に爪の生えた黒い手が伸びてきた。


 斬

 染井がひときわ大きな言霊を放ち、その文字が触れると夷敵の手が切断されて落ちた。


 殴 殴 殴 殴 殴 殴 殴 殴 殴 殴

 夷敵が連続する言霊でぶちのめされて後ずさった。おれは痛快さに思わず「オラオラオラオラ」と掛け声をかけていた。


 潰 潰

 夷敵の両側に文字が現れ、夷敵の身体を挟み込むとゆっくりと押しつぶした。夷敵は両腕を「潰」の文字にからませて引いたが、文字はびくともしなかった。夷敵の胴体の部分から徐々に肋骨が飛び出し、交差した。夷敵はもがいていたが、最後に気味の悪い叫び声をあげて爆裂四散した。

「これで危ないところを突き飛ばされたのは二度目だな。ありがとう」

「夷敵は恐ろしい怪物。油断したら殺される」染井は残心の構えでおれに目を向けないまま言った。

 再び別の夷敵二体がせまり、わずかなずれで爪のある両腕を伸ばしてきた。距離があるのに、ボクサーのパンチ並みに速い。染井はそれを紙一重でかわし、「斬」の一字を放った。

 染井の後ろまで伸びていった夷敵の腕が急激な角度で曲がり、染井の後ろから襲ってきた。

「あぶねえ!」

 おれが叫ぶのと染井が宙に跳ぶのと同時だった。見ると「跳」という文字が空中にいくつも出現し、その字を踏むようにして染井は空中ジャンプを繰り返している。

 もう一体の夷敵の腕が伸び、空中にいる染井をとらえようとしたのを華麗な後転でかわしたが、そのまま染井の身体は足場を失い落ちてきた。

 危ない!

 つばめのように黒い影が飛んできて、回転して足から降りる染井の靴の下に入った。「飛」という文字だ。そのまま「飛」の文字に乗って染井は円弧を描いて周囲を滑空し、「弾」を連続して放った。「弾」という字は叩きつけるように夷敵の身体にめり込み、二体の夷敵は電気で撃たれたように体をけいれんさせると全身から赤い光を噴出させて爆裂した。

 おれはその華麗な技をただ見ているだけだった。


 あたりを見回すと、戦闘は終わりつつあった。地平線を満たすほどいた夷敵たちはほとんど殺戮され、機械音のような断末魔の絶叫を上げると爆裂四散して消えていった。

 おれのかたわらに立った染井はその様子をやはり無表情のまま見守った。

 あれ。

 他の仲間たちが走り回っているのに、染井だけはおれのかたわらに立っている。

 これってもしかしておれを守っている?

 おれの顔がかっと熱くなった。

 大和撫子。すごい力だ。そしておれはただの高校生。この事態になにもできない。それでも抱きしめたら骨が折れそうに線の細い少女に守ってもらったことにおれのプライドは傷ついた。

 夷敵の最後の一体が爆裂するとあたりは静かになった。空のうずは消え元に戻った。徐々に鉄の焼ける臭いが消えてゆく。あとには染井と同じ薄桃色の服を着た少女たちが点々と立っているだけだった。

 空にテロップのような字が表示され流れた。

 〇月〇日、関東方面第四区、サクラサク。桜前線異常ナシ。

 そのテロップに改めて桜の木を見ると、先ほど夷敵たちに酸をかけられ、焼けただれた桜の木の木肌が割れ、中から新しい枝が芽吹いている。どうやら木の本体は無事らしい。

「吉乃」

 近づいてきた少女が染井に声をかけた。その顔を見ておれは息を呑んだ。

 染井!

 顔が染井と全く同じだ。違うところと言えば、髪型か。最初に会った染井吉乃はボブだが、この女性は腰までのロングだ。いや、ていうかこの人はずっと大人びて見える。

 よく見ると戦闘が終わり周りを歩き回っている少女たちは口をおおうスカーフを首まで引き下げていたが全員同じ顔、同じ背格好だった。あれも染井、これも染井。

 ロングヘアの染井そっくりの少女は続けた。

「チャオが」

「え」染井がわずかに目をしばたたかせる。

「呼んでる。行ってあげて」

 それを聞くと染井吉乃は走って行った。

 後に残った染井そっくりの女性はおれを見た。おれは混乱してたずねた。

「あなたは……だれですか?」

「わたしは美野よしの」その女性が言うと同時に墨書文字が宙を流れ、それでおれは吉乃と同音意義の名前が分かった」

「あなたは染井の双子の姉妹なんですか?」

「わたしたちはみんな姉妹なのよ」

 顔は染井そっくりだ。だが、この人には表情がある。

「ほら」美野さんが手を振るとおれの周りに集まった染井の分身少女たちは口々に言った。

「わたしは吉野」「芳の」「葭の」「葦の」「嘉の」「愛乃」「佳乃」「由乃」「与志の」「四糸乃」「淑の」「余市の」「喜乃」「艶の」「祥乃」「由野」「良之」「辰の」「善乃」「慈乃」宙を墨書の文字が桜吹雪のように舞った。

 同じ顔をした少女たちの合唱が頭の中で反響しておれは車酔いしたような気分になった。これはなにかの悪夢かもしれない。だがよく物語であるように自分のほっぺたをつねったりはしなかった。おれはこれが全くの現実であることがわかっていた。そしてこの美野さんを含めた同じ顔の少女たちが、よく見ると微妙に異なっているのを感じた。

 おれは頭だけ美野さんを振り返るとたずねた。

「染井は……あの、さっきの吉乃はどこへ行ったんですか」

「仲の良かった友達が傷を負ったから」

「そうですか」

「運の悪い子。昨日はピロ。今日はチャオまで」

 おれは頭をバットで殴られたような気がした。

「昨日はピロ!? ピロって人間だったのか」

 その美野はおれを見てしばらく沈黙してから話した。「人間? そう。わたしたちの姉妹」

 おれはがば、と立ち上がり、染井吉乃の走り去った方角へ走って行った。すべてが薄桃色のもやに囲まれているような世界で、そこだけ地面がはっきりと土色をしていた。地面に仰向けに横たわる少女とそのそばにひざまずく染井。横たわる少女も染井と全く同じ顔をしていた。その周りをやはり同じ顔をした少女たちが数十名、遠巻きに囲んでいる。

 おれは近くに歩み寄った。横たわる少女。おそらくこれがチャオだろう。ひざまずく染井吉乃はチャオの手を握りしめている。おれはもう少し近くによってのぞき込んでみた。

 思わず目を背けた。

 夷敵のかぎづめにやられたのかチャオという子の腹が無残に割かれ、そこから内臓がはみ出ている。身体の下に黒々とした血の染みが広がっている。もはや助からないのは明白だった。

「チャオ」染井が呼び掛けた。チャオはうっすらと目を開けた。

「チャオ。ごめんね。ごめんね」なにをあやまっているのかわからないが染井はあやまり続けている。

 チャオは口を開いた。

「終わったら、一緒に、ソフト、クリーム、食べに、行きたかった」

「うん」染井はうなずく。

「それから……」突然がぼ、とチャオの口から血があふれ出た。

 染井は首に巻いていたスカーフを取りはずしチャオの口をぬぐった。

 スカーフについた自らの血をながめていたチャオはしばらく黙っていたが、やがてか細い声で言った。

「とどめを……お願い」

 おれは動こうとしたが、ふと誰かがおれの肩に手を置いた。振り向くと先ほど美野と名乗った少女が黙ったままゆっくりとかぶりを振った。

 染井はチャオの手を離し、素早く印を結ぶと宙に右手を差し伸べた。空中に「刀」という字が実体化し、みるみる長く変形して刀のようになった。染井はそれを逆手に持つとためらいなくチャオの首へ振り下ろした。

 しゅっ

 血しぶきが染井の顔にかかった。おれは呆然とそれを眺めていた。そんなこと、ありかよ。人間だぜ。命があったのに。たった今まで話していたのに。

 ぽたっ

 なにかが染井のあごからしたたり落ちていた。おれはチャオの遺体から目を上げて染井の顔を見た。染井の目から涙が後から後から流れ落ちていた。涙がほおについた血しぶきを洗い落とし、あたかも血の涙のように滴り落ちていた。

 周りを囲んでいるヨシノたちはそれを無表情で見つめていた。


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