70.虎口は脱したが憂鬱だった
エリツェの町、路上。
突然現れた危険過ぎる男の巨躯が迫る。
アリシアはローラを護るように抱き、アンヌマリーは硬っている。
彼女もド・ブラーク男爵襲撃事件の際には果敢に抗戦して敵の一角を崩した程の腕前だが、そんな彼女が唯だ竦んだ。
あの時の襲撃隊とは格が違う。
ラリサが立ち塞がり、獣人二人が左右に飛ぶ。
三方から同時に懸かる。
それに賭けた。
だが男は、瞬歩か縮地か知らぬが何かの秘術であろう、突如その体格からは到底想像もつかぬ神速でラリサの側を駆け抜けた。
「逃げて!」
ラリサが叫ぶ。
だが、男はアンヌマリーの両の手首をがっちり掴む。
「美しいお嬢さん、交際して下さい」
「へ?」
「逃げるのにゃ〜〜〜〜〜〜〜! その男は危険にゃ〜〜〜〜〜〜〜!
視線浴びただけで妊娠させられるのにゃ〜〜〜〜!」
「だっ・・誰?」
「名門トルンカ家のカス、二等文官マリウスだにゃっ。美徳を全部兄に吸い取られ残った色欲だけの愚弟。全身の毛穴から劣情が吹き出し続ける危険物にゃ」
「そ・そこまで言う?」
確かに危険すぎる男だった。
◇ ◇
同市内、公文書館。
『尊卑名鑑』を調べる。
「騎士・・マレ・・リ。ファルコーネ男爵家譜代家臣。んー・・六十年くらい前に嶺南州北部から西部へと転封して居りまするな。つまり、現存する屋敷それ自体はそれほどは古いものでは無さそう・・と・・」
「西部ならレミジオ修道士の出身と同じですよ」とカルヴァリ師が耳打ち。
「彼の出家時点の記録なら先日閲覧して参った。嶺南州西部ゾンネンシュテルンとヒッツラーの二箇村を領有権する騎士で御座った」
ギルベール師、興奮したのか口調が侍っぽく成っている。
「Soの巻も調べてみましょう」
読み進める三人の修道士。本の書体が古風で、レッドは速読に追いつけず焦る。
「あいや待たれよ。折角でござりまする。マッサ殿の項も見ては何如?」
言われて頁を捲るヴィレルミ師。
「ここか。ラファエッロ・ダ・マッサ男爵夫人ミレイユ。嫁す前の名はミラーイ・ディ・サバータ=ガルデッリ・・」
「サバータって嶺南侯の城代家老さんの家ですよね? クラウス卿の伯母さんって
・・こう繋がる訳か」
「"赤鬼"マッサの奥方様・・」
レッドとファッロ、顔を見合わせる。
「次はSoの巻、お願い奉りますーる」
「はーい」
また、なんか定食屋っぽいなーと感じるレッド。
◇ ◇
アグリッパの町、近郊。
フラックス商会の商標を大きく染め抜いた吹き流しを靡かせて走る馬車。
馭者の横に護衛の冒険者が座っている。
「やっぱり例の司祭さま、定期的に『息子』に会ってやんす・・ね」
「金も渡して・・いましたか」と、馭者。
「そりゃもう、たんまり」
「・・・」
「殺し屋が言うのも変でやんすがねぇ・・闇から闇に消しちまうなぁ下策。勝手に海にでも身を投げて頂くのが上策でやんす。だいたい公金持ち出して歩いてっ時に偶然強盗に遭うって、不自然だし」
馭者、無意識に自分の手を見る。
「手ぇは汚れなんぞ・・しゃあせんよ。私ゃ何も為ません。でも、いい若いもんが余計な金持ってたら碌な事ぁしねぇ。大きな騒ぎを起こした後に、甘やかし過ぎた実のお父つぁんが誰かって噂が何処からか流れやんす。それで終い」
馭者、大きな鍔広帽子を目深に被り直す。
「出家する前に妻子が居たって、そりゃ可いでやんすよね? でも、坊様が息子に便宜図ったり金渡したりしたら出家の戒律破り・・。その金どっから工面したの?
・・て、御咎め為りゃいい。破戒僧唐傘一本持たせて追い出したってなぁ教会の醜聞ってより逆に、清潔さの宣伝になりゃしゃせんか?」
「・・・」
馬車は進む。
◇ ◇
再びエリツェの町、路上。
「その手を離すのにゃ! この歩く生殖器野郎!」
「イヤお前・・そこまで言わんでも・・」
その時のっそりと、いかにも素人じゃ無さそうな大男が店から出て来る。
「お兄さんよぉ。真っ昼間、街ナカの路上で若いご婦人にご無体なすったうえ他の通行人とか殴ったら、さぞ御主君や御実家の顔に泥を厚ぅく塗り捲りだろうなぁ」
「塗り捲りだにゃっ」
「いや、市民殴ったりする積もりも更々無いし、ただ偶然好みのタイプど真ん中の美人に巡り会って、だな・・」
危険な男、しどろもどろ。
「さぁ、無礼な口を利く市民なんぞ早々と無礼討ちになすったらどうだ。ご立派な公証人の旦那。真夜中に無法者を斬り伏せたときも、さぞや愉快でいらっしゃっただろ?」
「まさかお前、あの時の・・」
「さっ、この隙にずらかるにゃんっ! かたじけにゃいぜ大男の兄さん!」
「行くわよっ!」とラリサ嬢のひと声で、弾かれた様に逃げ出す一同。
◇ ◇
再び市内、公文書館。
「Soの巻、お待ちー」
美女が気の抜けた声で大型本を持って来る。
「ゾンネンシュテルン・・ゾンネンシュテルン・・有りましたぞ」
「この家も六十年くらい前に嶺南州北部から西部へと転封して来てますね」
レッド、必死で修道士たちの速読力に喰らい付く。
「果たして偶然で御座りまするかな・・」
「それほど深い意味はありませんわよ。あそこ辺りは内戦で反対派が族滅になった地域でね、勝った方の家臣団が一斉に移住して来てるの。はい、お菓子」
館長が戻って来た。
・・『族滅』って怖過ぎだな。南部人って「敵は殺せる時に殺しとけ」っていう土地柄だとは聞いてたけど・・
「御家断絶してますな。まぁ・・本人が出家してるから当然そうですけど。封地は返上、世襲地は自由売却してゼードルフ元男爵という人が購入」
今度はカル師が読み進める。
読み書きの勉強が足りないとか言ってたけど謙遜か。
「ゼードルフって!」とフィン少年が驚きの声。
「多分あのゼードルフだな」
「ご存知の方でござりまするか?」
「いやぁ顔は知りませんが、"英雄"コンラッドと言ったら北海州で知らぬ人のない冒険者です。引退して暖かい南国に行ったという話でしたが」
「然し封地返上で新しい領主が来ていないと言うのは少々珍しう御座りまするな」
「左様言えば、マレリ家の領地は如何なったのでござりましょう?」
「マレリさん? 長患いなさってったジョセッペさんがつい先日亡くなって女婿の勲爵士ジャンニ・ロンバルディ卿が新領主になったわ。わたくし婚礼に行って来たもの」
「じゃ、マレリ家というのは?」
「形の上では御家断絶だけど、変な男のお妾同然にされていたお嬢さんが目出度く恋愛結婚してハッピーエンドね」
「・・(呪いが解けた?)」
「今はロンバルディ領で御座りまするか」
「最近なんで『名鑑』には未だ載って無いわよ。詳しい事は世話人のヴェルチェリ副伯に聞けばいいわ」
「ヴェルチェリ様にお目に掛かるには如何したら?」
「あら、昨夜会ってるわよ。エッちゃんがヴェルチェリの奥方」
「エッちゃん?」
「女医のエステルちゃん」
「世間狭ぇな」と呟くブリン。
◇ ◇
「あれー、みち・・わかんなくなっちゃった」
なんとか逃げてきた女子組、ロストしている。
「はぁはぁ・・あたしとした事がアセッたわ。妊娠してないかしら」
「あっ、足首に血がっ!」
「膝擦りむいちゃった」
「アンヌマリーさん、人前でスカート捲ったら危いですわ」
「治安が良いって聞いてたのに、昼間から変態が出るとは」
初対面の女性の手首を握るなど言語道断で、足首なら強姦罪で告発され得る世界なのだから、アリシアの言葉は過剰反応ではない。
「あの変態、名門の次男坊で若くて金も地位もあるし強豪だし、高等文官としても有能にゃんだけど、とにかく女にモテない男にゃん」
「わかる」と女子一同。
「顔も悪く無いのにね」
「あなた、顔の良し悪し見てる余裕がよくありましたね。身体張って護ろうとして損した気がしますわ」
「あそこ! おいしゃさまの、かんばん」
確かにフラスコを描いた看板が有る。
「よかった。妊娠検査してもらおう」
膝の止血じゃないのか。
「すいませぇん」
扉を開けると、若い女医が女冒険者を手当している。
「あれぇ。昨日のお医者さん?」
続きは明晩UPします。




