270.蛇が怖くて憂鬱だった
聖コレーナ・ダストラ堂寺社領北部・山林。
寺社直営地と別に貴族から寄進された荘園があり、その荘園庁の管理区域からも外れた丘陵。周囲の低湿地から見ると、いちおう山である。
「ひと、住んでんのか此所」
聖コレーナ堂から距離的には大したこと無いが、巡礼の通るルートからは大きく逸れていて、人里離れた感じ。
辛うじて『道』と認識できる草木の生えていない細長い土地面が続いているので奥へと通れる。
ようやく、零細農の畑くらいの耕地を目にする。牛馬に牽かせる犂も無さそうな場所に山林の腐葉土を掻き出して畑にしている。
三十路半ばくらいに見える農夫が耕している。
その彼がアナたちを見付けて、なぜか駆け寄って来る。
◇ ◇
コリンナ代官所。
参審人ザンドブルグが報告している。
「ひどいもんだった。『置いて行ってくれ』と言って諦めた老人もいたが、捨てて行かれた姑とか・・育児放棄された子供まで残ってたぞ」
「俺、甘かったかな」と代官。
「大甘だよ、あたまが悪代官サマ」
「ざーさん、ひでぇ」
「ガリーナの救貧院プラン、やっぱり解決策あれしか無い感じだな。残ってる譜代下人を賃労働者身分に解放して、そこで働き口を与える」
「司祭さまのプランを合体させる訳か」
昔流の奴隷は消滅し、家庭を持って集落をなす体僕に変容したが、農村部では家内奴隷が譜代下人という名称で残っていたり、軽犯罪者を『親類お預け』とする慣習があったりで、領主の定める法律どおりには為っていない。農村には、領主も容易に踏み込めない農村の自治があるから、である。
「司祭さまといえば、なんか怖いこと言ってたな。宗教裁判所が何だとか」
「短足パトのやらかした結婚違法強要の余波だ。本人は既うあの世に行っちまってお気楽だが、婚姻法違反を平然と認めちゃってた教会の方に飛び火した。我らには対岸の火事だ」
「見物でいいのか」
「いいです。いいです」
トルンカ『司祭』ひょこっと現れる。
「二十年も前の話です。当の聖コレーナ堂さんは十数年前に、某男爵領を併合して寺社領がどぉんと大きくなった時に、代官以下上層部がほぼ総入替えになっている左右なので、今さら火傷する人も居ませんよ
「だと良いけどな」
◇ ◇
聖コレーナ寺社領北部・山林中の畑地。
農夫がアナたちに駆け寄って来る。
「オロデスさんのお身内の方ですか?」
「いや、違います。別口でコロンバスさんの安否を伺いに来ました」
「そう・・ですか。ですよね。ええ、少し早い」
「オロデスさんとは?」
「失礼しました。自分はテオドールという年季奉公人で、コロンバス爺さんの畑を耕してます。オロデスさんは、自分の雇い主です」
「つまり、あなたは雇われて此所に居る、と?」
「はい、正直きつい暮らしなんですが、年季が明けたなら良い土地を下さるというお言葉を心の支えにして来ました。珍しいお客人が見えたので、つい気がはやってしまって失礼しました」
「ここは人里離れて、確かに暮らしが大変そうですね」
「町まで遠いし、木を伐らないと直ぐ日当たり悪くなるし、働かないお爺さん文句多いし、正直辛いです。でも里に出て土地持ち身分になれば嫁も取れるかと思ってただ耐えてます」
「ご苦労されてるんですね」
「自業自得なんですよ。若造の頃に馬鹿やって、手首切断刑のうえ追放になる所をオロデスさんが保証人引受けて下さったお蔭で『二十一年間年季奉公』に減刑して貰えたんです」
「普通ならば、賠償金支払で実刑免除まで漕ぎ着けても、人権停止処分は免れないものですが」とジロラモ書記官。
「有力な騎士さまが保証人に立って下さったもので」
要するに有力者が彼を年季奉公人として買って、その代金を犯罪の賠償金として自治体に納めたのだろう。年季が明けたら自由民に戻れるという特典付きである。私設の懲役のような感じだ。
犯罪者を収監したり再教育したりするのが面倒で皆んな死刑にしてしまうような社会である。部分的にそれらを代行する民間資本があっても一応おかしくは無い。
このテオドールの場合など、三十代半ばで一端の土地所有者として一家の主人に成れるなら、平均的な自由人として十分社会復帰できたと言えよう。
「それで、あなたがコロンバス老人の生活全般を見ていて、あなたの雇い主にして保証人がオロデスさんということは、つまり結局オロデスさんがコロンバス老人の世話をしてるってこと?」
「まぁ最低限の・・ですが」
「なんで爺いの世話なんぞしてんだい?」
「さぁ? なんか『二十一年後に爺さん殺したい人が来るまで生かしとかないと』みたいなこと言ってたような気もするけど、なにせ昔の事なんで」
何故だか『蛇の一族』という単語がアナの脳裏を過ぎるが、あまりに一瞬だったので直ぐ忘れる。
「それで、コロンバス老人の健康状態は?」
「殺さなければ死なないと思います。自分が罷めて遠くに行ったら翌週終わりには干からびているでしょうけど」
「それじゃ、安否確認はこれにて終了で」
一同頷く。
◇ ◇
アグリッパ、侯爵邸台所。
伯爵家の兄弟と執事と女中が床に座り込んで和やかにお茶している。
正確には、お茶のように何か煮出した嗜好品の飲料だが、それが何だか既に誰も気にしない。この兄弟も知らぬ裡に変なくすりとかを体内に溜め込んでいるのでは無いか、とアントン少々疑うほどに、この姉妹に入れ込んでいる。
座り込む・・
台所の床が、それ自体ひとつの食器の上のように美しく磨き上げられていたので自然と左様なったが、当然それは普通でない。台所を預かっている姉妹がちょっと異常なのである。
ヘスラー兄弟が日参しているうちに異世界に迷い込んだ、と表現しても良いかも知れない。
世の中全般で言うと、女中というのは主人の性的なお相手を仕事にしていて特に不思議でないが、主人の身分が上に行けば行くほど不思議になる。
主人の身分が高ければ高いほど、確率的には女中の中にも身分の上の方な女達が増えるからである。
それと知らず権臣の娘を弄んで下剋上喰らう殿様とか、よくある。羽振りの良い家臣がメイドにご無体行為とかしたら、殿様のお気に入りに大当たりで左遷の末に詰め腹切らされる話も聞く。
それは、市井で傲慢な振る舞いをした馬鹿者が、虐げた者の中にお忍びで見えた高位者がいて破滅する確率より、たぶん高い。
どこか異世界で、雇われ店長がパート主婦を虐ったら本社の偉い人の奥様だった確率とかよりも、多分高い。
いま台所でごろごろしている四人の内訳は、伯爵の息子の騎士が二名と、騎士の娘で近々伯爵の後妻に収まる子の妹が一名。あとは代々男爵家の執事をしている家出身の若い執事である。
伯爵の息子が頻りに求婚しているが、それも遠からず実現しそうな気がしているアントンであった。
◇ ◇
代官所へ帰投する途上のアナ一行。
「みんな、もう薄々察しが付いてると思うけど・・」
「そうね。多分そんな気がします」とディジが応じる。
「ゴドウィンソン家が『奪回』する仕掛けを作った人だよね、きっとオロデスって騎士が」
「でも、商売にしちゃ相当お金かけてません?」
「あのテオドールさんの年恰好から見て、当時わたしらより些少年下くらいです。手首ちょん切られて永久追放になるとこを人命金に色付けて減刑させるとか、彼の実家が相当お金積んだかも知れないわ。彼の言葉遣い、聞いてたでしょ? お育ち悪くなさそうだったもの」
「そうね。オロデス氏の自腹じゃ無いかもね」
「もし『コロンバス司祭を失脚させたうえ、ガルフレダ・ゴドウィンソンの子供が成人するまで生き餌として飼っとく』なんて計画立てる人がいたら・・」
アナ、続ける。
「まぢ怖いわ・・」
続きは明晩UPします。




