233.がんがん来られて憂鬱だった
アグリッパ、侯爵のアパルトマン。
寝室隣りの使用人控え室。
クレアとエルダ、向かい合いってぺたんと床に座る。
改まった口調。
「侯爵夫妻の希望は一日も早い御継嗣の誕生です。祝別下さる大司教さまの日程をホラティウス司祭さまが、最速で押さえて下さる手筈なので、あらばち一発轟沈を狙って行きたいと思います」
「サムエル・フッド卿の故事でございますね」
「そこでエルダ隊員、きみの任務はわかるかね?」
「はい、隊長! 食による前線支援であります」
なぜか隊長に成っているクレア。
「善哉。輜重輸卒よと補給を軽んずるは愚将也。各所にて各員一層奮励努力せよ」
「侯国の興廃が懸かってるもんね」
「その意気だよ」
エルダの手を執る。
「その日、伯爵家の乙女が夫のベッドに入り侯爵家の女が出て来ます。いつの日か死が二人をわかつ時、残るのが伯爵家の女でなく侯爵の母でありますように、我が部隊は具体的に奮励しちゃいますよ」
「唯々さ」
「ん?」・・ふたり声を揃えて物陰に目を遣る。
「気のせい?」
「そうみたいなのさ」
侯爵家の夜は更けゆく。
◇ ◇
コリンナ代官所、真っ暗な部屋。
「あの村を家探しさせた。とても瞭然だった」
代官の低い声が響く。
「貧しい者の家は貧しかった。金目の物が無かった」
手鎖かけられた近習、なんだか意味がわからない。当たり前すぎて。
「わからんか」
そう言われても分からない。そもそも元々自分は頭が良くないと思っている。
「貧い者は、いの一番に盗みを働くと思わんか」
「さあ・・わかりません」
「なぜ分からん?」
「飢えてなければ盗まないかも知れないし、盗もうと思う前に、捕まったら怖いと思うかも知れないし・・」
しどろもどろだ。
「男爵邸から持ち去った盗品を隠し持っていたのは家持ちの自由人ばかりだった。彼らは飢えていたか? 兵士たちが村の墻壁の外を歩いているだけで、踏み込んで来る素振りも無い時に、慌てて窓を閉じたり顔を伏せたりしていた彼らは、怖いと思っていなかったか?」
「きっと盗んだから怖かったんです」
「飢えていなければ盗まないか?」
「盗みます」
「屋敷の主人たちは帰って来ないと囁き合った者ども、小作人や寒人共には教えて遣らなかったのだ。自分たちの狩場に入れてやるまいとな」
「囁き合うほど親しく無かっただけじゃないですか?」
「ま、そうかも知らん」
「お前は、今の暮らしから逃げたくて盗んだんだろう? だが、奴らは盗んだのに今までの暮らしを続けられると思っていたんだ」
「いや・・ぼくは貰ったお給金やご褒美を持って逃げたけど、盗みはしてません。お蔵とか、もう空っぽだったんです」
「なら、なんで逃げた?」
「なんだか・・ぼくも略奪されそうな気がして来て・・」
「・・(あ、それ有るかもな)」
◇ ◇
朝。
ヨードル川河口。向こう岸にアルトデルフトの港。
西岸は河口堆積物で砂嘴が形成され、デルタ部に喫水の浅い船用の潟港が幾つか散在している。
多くは漁村だ。
耕地は少なく、もっぱら船で行き来する村々は長閑な田舎である。
と或る寡婦の家に、蘇生した土左衛門が混濁した意識のまま寝ている事を、同じ村の衆も余り知らない。
脛に傷もつ者かも知れぬが、物理的には尻に傷持つ男である。
だから腹臥位で寝ている。
「あの男、まだ下向いて寝てんのかい」と近所の主婦。
「お尻の怪我が化膿してるからねえ」
仰臥位だったら適宜利用されていたかも知れない。
男、睡眠中なにか魘されている。
「覚えていやがれ、でございますよ」
◇ ◇
オックルウィックの村。
在家の堂守しか居なくなって久しい教会に、修道士が三人訪れている。正確にはふたりだが。
実は、ひとりは頭巾を深々と被った例の近習である。フラミニウス助祭が説教と謂う名の勧誘をしている間、近習がそれとなく指した人の名を、書記役が人々から巧みに聞き出し、密かに書き留めている。
運命のリストである。
「罰する人の名をでなく、赦す人の名を記すのです。功徳ですよ」
そう助祭は軽く言っていたが、実際は両方が書かれていく。
その何人かは、ぶら下がる。
功徳でない。
神に欠片も興味の無いガリーナ嬢、畢ぞ姿を見せないのでリストに載らない。
◇ ◇
アグリッパ、侯爵の住まいの玄関先。
誰か階段を駆け上がって来る足音。
執事アントン気配を窺うに、踊り場辺で息が切れた様子。そこから大股に歩いて来る。
扉前で息を整えているのは二人ぶんの気配。
察してアントン扉を開くと、随分と上背のある老人たちだった。
「おう」と侯爵。
ふたり居間を覗き込んで、侯の隣りにちんまり座るマティルダ嬢を見、溜め息を漏らす。
「なんと可愛い別嬪さんだ」
「この子がグスタヴォの孫娘か」
彼女の前で膝をつき、手を伸ばして来る。
「こらお前ら、触るな儂のじゃ」
「大殿・・犯罪者!」
ふたり声を揃えて言う。
「ペルシアの白林檎のようじゃ」
「ひと目で確信いたした。スヴェンの血を引いとらぬ」
「おおあたりですわ。へスラー様にウンブリオ様ですわね。お話しは予々」
「お前ら内緒じゃぞ」
「数日うちに実父をご紹介できると思います」
「それ・・我らに言うて仕舞うて宜しいのか?」
「旦那さまの、そして祖父の義兄弟さまがたですもの。なんの隠し立て致すことが有りましょう」
「・・(僕たちも聴いちゃってますけどぉ)」と惟うアントン、葡萄酒の瑠璃盃を差し出す。
「おお! よく冷えておる。氷室が有るのか」
「当家の料理人がウルカンタから参った者で、その伝で氷塊を仕入れております」
「その伝、へスラーにも紹介して貰えんかのう」
老人ふたり床に座り込んで了って、昼間から酒宴の様相を呈し始める。
「なに、昔は幕舎でこんな感じであったなぁ」と侯。
と、其処へホラティウス司祭。
「あら皆さまお集まりで。座下におかれましては明後日以降なら何時でもとの事でござりまする。遠方よりお見えになる方の都合は如何?」
すると背後からクレアの母と称する婦人が現れる。
「当方既に市内に到着致してをります。何時なりと」
あっさり決まりそうな気配。
◇ ◇
コリンナ代官所。
「網に懸からんか」
代官のオスカー・ド・ブールデル渋い顔。
「とんと魚信ありませんな」と参審人ザンドブルク。
きんきん女のことである。
「誰かが余計な知恵つける前に静かに退場して欲しいもんだが・・」
「オスカー、まさか騎士団の連中、裏切らんよな?」
「大丈夫、あいつら結婚せんから」
「自分で結婚しなくたって、何処からか誰か適当な独身男を引っ張って来るくらい簡単なことじゃ無いのか?」
「そう言われると心配になって来るな」
「きんきんの母が先代男爵の後妻として籍を入れてたなんて丁稚あげ文書作りなぞ坊主連中にゃ造作も無かろう。あとは手駒んなる男ひとり居れば良い」
「おい、やめてくれ。不安になるだろっ」
そう言いつつも代官、首を振る。
「否、修道騎士団がそんな算段したところで、手駒男が男爵になったら本性現して知らん顔決め込むかも知れん。
態々生得身分だけ貴族の文無し男にお膳立てしてやってタダ働きとか、連中そんなリスクは冒すめぇ」
代官それなりに優秀な男だが、俗人の常識が必ずしも信者には通じない可能性に思い至らない。
◇ ◇
主人不在な村長の自宅。
容姿は中の下下と言われたガリーナ・ガンター、おめかしをしている。
部屋に男が居るが昼間だし、扉も開け放たれている。下女も同じ室内に居る。
男の顔はよく見えないが、振る舞いは紳士的なようだ。
彼女の異名は『きんきん女』だが、近日中に『ガンガン女』になる可能性は未だ秘められている。
続きは明晩UPします。




