219.水が滴って憂鬱だった
アグリッパの町、スールト侯爵のアパルトマン玄関さき。
小姓クラレンス、ちらちらと中の様子を窺いつつも手持ち無沙汰の様子。
と、階下から昇って来る人あり。
人と謂うか、誰ぞの云うた黒豹の魔獣が巨大化した物とか、左様いった何か。
「其方、此様な処で何を為てをる」
「いまホラッチョさん来てるの」
「左右であるか。ならば屋根の上にでも参るか」
二人、何処かへと去る。
入れ替わりに、司祭とアントン出て来て階下へと消える。
二人また現れて室内へ。
◇ ◇
居間。
某小姓の自称母、紹介する。
「これは我が甥で、愚息の義兄に当たる者でございます。当面の間は影から警護に当たらせますので、お見知り置き下さいませ」
「おお、重ね重ね有り難う存ずる。なんか続柄に無理を感じぬでも無いが・・」
「些事は兎も角、斯様に目立つ風貌ゆへ物陰に侍らせまする」
押し通した。
魔獣的な男、マティルダに跪き、指輪の手に接吻はせぬが額に押頂く。
目線が中々下にならず些か苦労した風情。
令嬢、頬ほんのり染める。
◇ ◇
アグリッパの町、夜道。
「司祭さま、この町って随分と治安が良いのですね」
「はは、まぁ先日良からぬ事件も有った矢先の事ですし、市庁の警備局さんも今は特に気合が入っている処なのですよ」
アントン、ちょっと複雑な心境。
「市民共同体の治安部だけでなく、民間団体で『退役傭兵共済会』さんと云うのも有りましてね。兵隊を辞められて一般市民として平穏に暮らしたい方々の再就職を斡旋したりしている団体です」
「退役傭兵?」
「なのですが彼ら、矢張り取り柄は腕っ節だという方が多いそうなのです。そんな方々に、城壁外の治安維持等をお願いしたら、また一層市民が安らげる町になって来ました。喜ばしいことです」
「・・(市民の皆さんは綺麗な部分だけ見ているんだろうなぁ)」
やっぱり複雑な気分。
煌々と灯りの点った酒亭から楽しそうな歌声が響いて来る。
「大君長やら行政官やらの振り翳す権力なんて、善良に暮らしている自分たちには決して降り掛かって来ないんだ。皆がそう思えるような政治が、いい政治なんだと思いますよ」
・・いいこと言う。
でも司祭さんも飲みに行きたいんだろうな、と思うアントン。
司祭さまを内郭の門近くまでお送りして別れ、そうだ、今夜の仕出しは先ほどの店にしよう、と思い立つ。
行くと、太鼓腹を叩いで歌っている小柄な老人がいたりする。
女将に五人分の料理を頼む某執事、ひとり増えているのを未だ知らない。
◇ ◇
帰ると、居間に誰の目にも剣呑な御武家様が居て驚く。然し彼、取立てて不平を言うでもなく、固辞するアントンを説き一人分を二人で分けて食す。
小姓クレア、分けてくれない。
後で「きみと彼が仲良くなれるかと思って」等と曰う。
◇ ◇
翌朝、ツァーデク城。
「なんだ? 面倒ごとか?」
伯爵朝から気が塞ぐ。
「面倒ごとと云うより奇ッ怪な事件です」と家臣。
大広間にパシュコー男爵家の騎士が二名。
「なに用であるか?」
「御恐れながら」と騎士。
「我ら、主君パシュコー男爵のお召しにより朝一番に居館を訪ねたが人影が無い。男爵と息子二人に兵士数名居た筈だが姿が無い。通いの下男下女らが近隣の家から朝の仕事にやって来て、主人がおらぬおらぬと右往左往しおる真っ最中。かような状況でございました」
「他に家中の者は?」
「近習一人に住み込みの下男一人、これらは呑気に寝ておって何も知らぬ存ぜぬと言う。まったく要領を得ませぬ」
「ふむ。これが何らかの不法行為だとして、訴え出る被害者は不在、訴える相手も不明か。さて困った」
「我らも困惑致しておる次第」
「パシュコー男爵、最近誰ぞと不和でなかったか?」
「いや此処だけの話、不和でない人の方が珍しいかと」
「いちばん最近揉めた相手は?」
・・パシュコー男爵ってば、糞親父の足元見てヨードル川沿いの領地買い叩いた奴だったな。って、いちばん最近揉めた相手って、俺じゃないか。
「申し上げにくいが、伯爵さまでは?」
「ソウデスヨネー」
「そもそも相続人は誰だ?」
「本人は男寡夫、息子二人は独り身で、親兄弟は聞いたこと有りません」
「誰も訴えないんなら、判官としても出来る事ないな」
「家臣としても主家の相続に口出す立場でありませんし」
「生死不明で行方不明じゃ、相続も開始しとるまい。それならば上級君主に当たる侯爵さまの御判断だ。臣従義務懈怠にて爵位剥奪とかの御沙汰になれば、貴殿らも新しい主君に推薦して貰えるだろう」
「どんな主君でも多分あれより良いから、そうなれば嬉しう御座る」
ずいぶん評判良くない様だ。
「兎も角、参審人らを実況検分に遣わした上で、侯へは我由り言上致す」
騎士二名、一礼して辞去。
◇ ◇
アルトデルフトの港。粗方は正常化したが海面には雑多な浮遊物が多数。
港湾の職員や手の空いた水夫らが片付けに追われる。
「なんだこりゃ」
膨らんだ麻袋を棹や手鉤で岸に寄せる。
「膨らんだ土左衛門にゃ下手に触るなよ。破裂したら目も当てらんねぇ」
「ぶはっ」
生身の人間が出てくる。
「死ぬかと思ったぜ」
天網恢々疎にして漏れる。
◇ ◇
ツァーデク城。
参審人ザンドブルグ、ザイテック騎兵伍長と次席執事ヘンドリクを伴って出発。
行き先は割りと近い。
川筋に沿って南、暫くして西に分岐する街道を辿ると、直きにパシュコー男爵の居館が見える。
「人の姿が見えませんな」
「近習と住み込みの下男が残っているとの話であります」
「厩舎の戸が開け放しになってます」
「ん!」
不審に思った参審人、先に厩舎を覗くと馬もいない。
気色ばんで表玄関に走り、絶句。
「こりゃ非道いわ」とヘンリック呆れる。
荒らし尽くされていた。
「まるで暴徒が略奪した跡のようであります」
「金めのもの漁り尽くされて、一見して『すっからかん』って感じですね」
「近習とかは何処へ行ったのでしょう?」
ヘンドリク、自分に聞かれた訳でもないが途方に暮れる身振り。
「これは・・早急に部隊を出動させ現状保存を図ることを具申します」
「うむ! 伍長、ひと走りお願いします」
「だいぶ、もう遅いっぽいですね」
◇ ◇
伯爵自ら現場に出る。
「いま言っても遅いが、あの騎士たちに直ぐ見張って貰う可きだったな」
「住民ら『河原の流民どもが襲ってきて略奪』と口裏合わせておりますが、だいぶ金品を隠し持っておる模様。当の流民らは無一物です。普通に考えて流民の犯行は有り得ません」
参審人、短時間でよく調べた。
「これは難しいな。村ぐるみの犯行を処罰しては農地で働く者が全滅しかねん」
冗談のようで冗談でない状況になって始末った。
「領主の不徳が招いた禍でしょう」と参審人。
その不徳、さもしい男に領地を売った亡父の不徳も加算済みで、伯爵ほんとうに頭痛がする。
◇ ◇
アルトデルフトの修道院。
イザベル・ヘルシング、本日は修道尼の装いでマギステルのベルンハルト司祭を訪ねている。
「ヘルシンク卿の御息女も大きう成られたものじゃ。艶やかさが墨染の衣で隠せて居りませぬぞ」
「父はもう一介の市民、わたくしは在家の信女で御座いますわ」
「拙僧ら俗世の身分には関心ござらぬ。我ら猪武者ばかりの所帯に調略の専門家を派遣くださる有難い支援者として感謝するばかりです」
「本日は些少の寄進をお持ちしましたが、通常の寄進ではございません。下の港の水害をお聞きあそばされたと存じますが、お持ちした金員を院長さまのお名前にて海運ギルドに見舞金として下賜くだされませぬでしょうか」
「ご自身らの善行を教会に託されまするのか」
「修道会への感謝の声が高まれば幸いに存じますゆえ」
「なんと殊勝なことを仰いますやら。心底より感激いたしましたぞ」
悪魔に見えた人もいた同じ女である。
明日は通院のため更新お休みします。




