184回用蘊蓄
蘊蓄回です
<184本文1>
「でも、そう言やぁ有ったな。家族と偽ってこっそりプロ雇った事件とか」
「それは如何なった?」
「露見れて敗訴。プロは偽証したから腕切断」
<本文ここまで>
決闘は命と名誉と財産をかけて本人が戦うものだが、被告の息子や婚約者が代って戦うこともある。
Sachsenspiegelの場合、法廷の許可を得て職業的な決闘人を立てることが許されている。ハンディキャップ・マッチが命じられる場合もある。
上記は十三世紀イングランドの例がモデルで、そこでは当事者に代わって決闘する者は血縁のいかんに関わらず、当事者の正当性を証言する者と同じに扱われている。金を払って偽証する者を雇ったのと同じで、訴訟は敗訴、偽証者には刑事罰という因果応報の結末である。
実例では足を切断する刑を受けた。
<184本文2>
「成る程。力で解決するとは結局左様そういう事だろう。いにしへの『神は正しき者に力を貸す』という信仰が喪なわれ、権謀術数を尽くしてでも悪意が正義に克つ様になったのが現代の決闘ではあるまいか。知略あっての武力なのだから」
このひと、やっぱり現状肯定派だな。
<本文ここまで>
ランゴバルド王リウトプランドLiutprand(在位712年 - 744年)は早くも八世紀前半に、法典を整備し決闘裁判を「神の判定が不確実」(ホンネ:それ、人間による自力救済じゃん)と神判から除外している。
ローマを支配下に置いたランゴバルド王国ではローマ文化の浸透が早く、北方民族的伝統からの逸脱も早かったのだろう。
まぁイーリアスもアキレウスvsヘクトールの勝敗を神の贔屓度の差みたいに描いているが。
関係ないが、神が自分の意思で人間に干渉すると考える教会の主流派と、アリストテレス的必然に傾倒した若い世代の神学者は、のちに対立することになる。




