4 眠る気はありません
「旦那様、お帰りなさいませ」
旦那様が帰ってきた気配がしたので、私はパタパタと走って玄関に駆けつけた。せーふ、間に合ったわ。
「……ただいま」
無表情な旦那様だが、とりあえず返事をしてくれた。私は待っていて良かったなぁと笑顔になる。
「はい!お疲れ様でした」
ニコニコとそう言うと、彼は私から目を逸らした。あれ……なんでだろう?
「俺の仕事は時間が不規則だ。夜遅いのに、待っていなくてもいい」
「あー……はい。起きている時だけにします」
これは遠回しに出迎えは鬱陶しいぞ、ってことかしら?
「ああ」
お食事をするようなので、私もそのままリビングについて行く。彼は不思議そうに私を見た。
「……まだ食べてなかったのか?」
「食べました」
じゃあなんでテーブルにいるのかって顔をされている。うゔっ……しかし、負けないわ。私は紅茶を淹れてもらえるように頼んだ。
「旦那様、今日のディナーは特にこれとこれがすっごく美味しかったんです」
「……そうか」
「そういえば、モーニングのオムレツもトロトロで美味しかったですね。あんなふわふわなの初めて食べたので感動しました」
「……そうか」
ありゃ、反応が薄い。彼は相槌だけは打ってくれるもののほとんど無言でパクパクと食べ進めていく。その所作はとても美しくて、見た目のワイルドさとその動作の繊細さのアンバランスさが不思議だった。しかし、とりあえずディナーが終わるまで話し続けよう。
「おやつにカップケーキをいただいたのですが、それがまた絶品で!」
そこまで話したところで、旦那様は「くくっ」と声を噛み殺したように笑った。私は何か面白いことを言ったかしら、と首を傾げた。
「君はずっと食べ物の話ばかりだな。腹が減っているなら俺のを食べろ」
そう言われて私は頬が真っ赤に染まった。確かにそうだけれど、私は美味しかった感動を旦那様に伝えたかっただけなのに。
「減っていません!そんな人を食いしん坊みたいに言わないでくださいませ」
私がムッと唇を尖らせると、旦那様はフッと僅かに笑った。
「それに……こんな時間に紅茶を飲んだら眠れなくなるぞ。おい!ハーブティーを用意してやれ」
旦那様の一言ですぐに給仕係が来て、紅茶からハーブティーに取り替えられた。いい香りだが、これはカモミール。安眠するためのお茶だ。
「飲みません」
「なぜだ?大人しく飲んで早く寝なさい」
「旦那様ったら、なんだかお父様みたいなことを仰るのね」
「……お父様」
旦那様は眉をぐっと吊り上げて、不機嫌そうにそう呟いた。だって今夜の旦那様はまるで保護者のように、早く寝るように促してくるんだもの。私はその優しさがなんだか悔しくて、彼をじっと見上げた。
「今夜は眠る気はありませんので。先に寝室でお待ちしていますわね」
ニッコリと笑って椅子から立ち上がった。すると旦那様は目を見開いたまま固まり、フォークとナイフを皿に落とした。ガチャガチャとした音が部屋中に鳴り響く。
おお……旦那様は多少なりとも動揺してくれたらしい。あれだけ品よく食べていた彼が、カトラリーを落とすなんて失態は普段ならしないはずだ。私はそれだけで少し満足して、くるりと体の向きを変えてそのままリビングを出て行った。
鼻歌を歌いながら、ミアに見繕ってもらった夜着に着替えて夫婦の寝室で待つことにした。
しかし旦那様が来ない。あれから食べ終わってお風呂に入ったとしても……遅すぎる。まさか来ない気なのだろうか。それならば哀しすぎる。
「もう触れる気はないのかしら」
私はベッドに行けば眠ってしまいそうなので、必死にソファーで恋愛小説を読んでいた。物語のヒロインとヒーローは甘い言葉を繰り返し、とても幸せそうだ。いつか私達もこんな夫婦になれるのだろうか……?
しかし眠たい時に本を読むべきではなかった。どんどん意識が薄れていく。少しだけ……とソファーの上に丸まって横になる。ああ、気持ちがいい。
「ヴィヴィ……ヴィヴィ……アンヌ……」
誰かが私を呼んでいるが、反応ができない。そのまま温かいものに包まれた。それがとても気持ちが良くてふわふわした気分になる。ああ、眠たい……温かい……このまま……ずっと。
カーテンから光が差し、眩しくて目が覚めた。重たい瞼がゆっくりと開いていく。
「……っ!?」
私の頭の中は、驚きと混乱でいっぱいだったがなんとか大声を上げる前に自分の口を塞ぐことができた。
今の私は信じがたい状況だ。何故ならばベッドで旦那様に抱きしめられながら寝ていたからだ。心臓がバクバクと煩い。な、な、なんで?昨日は確か小説を読んでいて……たぶんソファーで寝てしまったのだろう。しかしそれからがわからない。
夜着はちゃんと着ているし、身体のだるさもない。きっと二人の間には何もなかったはずだ。
それにしても、旦那様の身体すごく体温が高くてポカポカする。しかもなんか……いい匂い。少しスパイシーな感じのダンディな香り。以前にキスされた時は、余裕がなくて香りなんて気が付かなかった。
「そんなにじっと見るな。穴があく」
その言葉で、旦那様が起きているのだとわかった。身体の拘束が解かれたので、急いで距離を取る。
「お、お、お、おはようございます。その……どうしてこんなことに」
「君がソファーで寝ていたから、ベッドに運んだ。そしたら私のシャツを握って離さないから仕方なくそのまま寝たんだ」
旦那様はムスッと不機嫌そうにそう言った。なるほど、そういうことか。私はあんなに偉そうに言いながら、待ちきれずに寝てしまったのね。でも遅かったとはいえ、ちゃんと寝室に来てくださったのは素直に嬉しい。
「ご迷惑をおかけしました」
私が頭を下げると、ベッドサイドに置いてあったガウンを乱暴に掴み取りガバリと肩からかけてくれた。
「……着崩れている。気をつけろ」
彼にそう言われて初めて胸元のリボンが緩んでいることに気が付いた。私は恥ずかしくて頬が染まる。
しかしよく考えると、旦那様に見せるために着ていたのだから照れるのもおかしな話だ。
「旦那様!この夜着は最初のより似合ってますか?それともまただめですか!?」
私はガウンを開いて、期待を込めてそう質問をした。旦那様は信じられないという目でこちらを見た後、プイッと後ろを向いた。
――あーあ、まただめだったか。
私はしゅんとしょげてゆっくりとガウンを着直した。
「…… これも似合わないですか」
「似合っている……こ、この前のよりはな!」
旦那様はぶっきらぼうにそう言って、そのまま寝室を出て行った。私はその言葉が嬉しくて、ベッドにゴロゴロと転がりながら一人で喜びを噛み締めた。