富士山
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信太には不思議にも壁に描いたクマコが立体的に見える。何とリアルな映画だなと思っていると銀幕が裂けるような不気味な音がして、クマコのからだが勢いよく飛び出して来る。思わず信太はロバートの横顔を見るが、彼の顔にも驚いたような表情が見て取れる。観客は何事もないかのようにスクリーンを見据えたままだが、これらクマコが前席にいる観客に飛び掛かったように見えた時、「痛い!」という悲痛な声があちこちから聞こえ始める。すると、恐怖が前列から後列へと次第に伝わり、泣き叫ぶ声も激しさを増し、館内は阿鼻叫喚の巷と化す。観客は押し合いへし合い、館内の通路を壁伝いに出口に向かおうとするが、中には席から席を跨いで後席に向かう人もいる。信太もロバートも人の波に逆らえず気づいた時には既に館外であったが、真ん前に見える西日の太陽がやけに大きく、白くて眩しい。又、映画館の正面には先ほどなかったはずの途轍もない大きな広場が横たわっており中央に佇む一人の女が光りに包まれてこちらを窺っている。
「もし、お客様、」と信太の耳元で女性の声がする。
彼は全く状況を把握しないまま、呆然としていると、「ご気分がお悪いのかと思い、頭上のお客様用のランプをお点け致しました。」
信太は屈み込んで彼に話し掛けているスチュワーデスを見る。暫く彼は返答に窮していたが、「いや、どうも悪い夢を見ていたようです。」とため息混じりに応える。
「それなら宜しいのですが、うなされていたようにお見受け致しましたので、お声をお掛けしました。」
「済みません。」
信太は航空機内にいた。彼はリスボンでロバートと別れた後、ヒッチハイクでスペインのバルセロナに立ち寄り、フランスの町々を訪れ、スイスの山々をもう一度見たいという欲求に駆られジュネーブまでやってきて、今まさにチューリッヒからスイス航空で日本に帰国する途中だったのである。
ここは地球から見てカシオペヤ座の方角、およそ一万光年離れた宇宙空間を浮遊するブラックスペース・デヴィル、その船内である。
「我らがマザー、信太のことでご報告に参りました。」と黒い影は女帝マザーに歩み寄り告げる。
「申せ。」とマザー。
「信太はスイスに戻り、今、帰国中の航空機内でまもなく東京へ到着致します。」
「帰国とな。ならば捨て置け。信太という者、他国ならいざ知らず母国はぬるま湯に浸かっているも同然。我が力に抗して歯向かうことも当分なかろうて。時宜を得てその後の足取りを伝えよ。」
「御意。」
「わが子よ、信太の遺伝子とやら、琴座からの飛来と申していたの?」
「そのように申し上げました。」
「すぐさま琴座に参る。」
「琴座と申しても広うございます。」
「案ずるまでもなかろう。遺伝子の構成要素、成分などを大量に生成する宇宙空間を特定化するのに月日は要せぬ。知的高度科学技術惑星が存在しておるものならば我が支配下に置くのみ。」
「御意にござります。」
信太は東京の羽田空港に降り立つ。風に運ばれる日本特有の香りに懐かしさが込み上げ、空港内でも建物の匂いに魅せられる。
先ず、スイスで旅を共にした和に約束通り電話をする。
「もしもし、和?」
「はい、そうです。」
「信太ですけど、今、羽田空港に着いたばかり。」
「信太?久し振り!今から下宿に来る?」と和は即座に提案する。
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