ウィリアム・テル
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ここ、アルトドルフのマルクト広場には群衆が一塊になって各々、雑談に余念がない。信太を含め四人が人々に近づいた時、一人の男が衛兵に囲まれて重々しい建物の正門に姿を現す。彼らはその男を連行し広場中央まで来ると立ち止まる。少し経って、いかめしい顔つきの男が護衛を従えてやってくる。男というのは悪名高い代官、ゲスラーである。彼は群集の前まで来るとやにわに声を荒げて告げる。
「ここにいる逮捕者は弓の名手と聞き及んでおる。先に見える子どものりんごを矢で射抜けば釈放の余地は残されよう。外れれば牢獄に繋ぎ止める。」
逮捕者というのはウィリアム・テルである。矢は所持していないが、クロスボウを携えている。ゲスラーが先の子どもと言うので見遣ると数十メールはあろうか、一人の子どもの頭の上にりんごが乗せられている。
「このクロスボウは使い慣れていないので、一矢を天空に向けて放ちたい。弓の張り具合を知りたいのだ。」とテルはゲスラーに許しを請う。
テルのクロスボーは取り上げられてしまい、その代わりに、一人の衛兵のが与えられていたのだ。
「よかろう。」と応えて、側近に一矢を与えることを促す。テルはその一矢を受け取りクロスボウに番え天空に放つ。
「それでは、次の一矢を以って、我が最愛の息子の頭上にあるりんごを射抜き落とさん。」とゲスラーに確信をもって言う。
反対に、ゲスラーは至近距離でもない、又、テルのクロスボウでもない、幾ら弓の名手と言えども、子どもの頭に乗せたりんごを射抜くことはできないと信じて疑わない。
「衛兵!次の一矢を与えろ。」とゲスラーは命じる。
テルは矢を受け取り、番えて、一息吐き、おもむろにクロスボウを構えて的を絞るや否や、一矢を放つ。放たれた矢は見事に、りんごを射抜いて子どもの後方に転がり落ちる。
周りを取り囲んでいた群衆からは驚嘆の声が放たれる。
この瞬間、ゲスラーは自分の名誉を痛く傷つけられたらしく顔面を硬直させ、きびすを返してそそくさと建物の奥に消え去った。
衛兵はテルを急き立てて建物の後ろに連れ去って行く。
「これからテルをどこへ連れて行こうというのだ。りんごを射抜いたのだから、すぐに釈放するのが当たり前と思う。」と一部始終をかたずをのんで見ていた信太は女ボスに訴えかける。
「これが真相なのよ。歴史の事実よ。」と女ボスは応える。
「史実が少し違っていても後世にはさほど影響がないみたいね。この伝説はスイスの人々に勇気と希望を与えるのは確かだわ。」と可愛いちゃんは信太に諭す。彼はその時、疑問がふと浮かんだ。地球の歴史探訪を彼女らはゲームと言っているが、真偽を確かめることは興味深いかも知れない。しかし、わざわざ地球外の遠いところからやってきて、ただ単にゲームを楽しむだけであろうか。
「もう時間が来たわ。そろそろ帰らなくっちゃ。行きましょう。」とハイジが信太を急がせる。
先ほどの疑問が頭に引っかかってはいたが、彼はとうとう言い出せないまま、四人は元来た道を戻り壁際に辿り着く。
「さあ、信太、あなたから先よ。戻ったら直ぐに部屋で休んでね。」とハイジが言う。
「うん」と彼は頷いて壁に近づき暗闇の中で電気のスイッチを探し求める人のように両腕を前方に伸ばして壁に向かう。直後、彼は貯蔵室にいた。彼を覆っていた深緑色の液体は跡形もなくからだから消え失せている。脱ぎ捨てていた自分の服を拾い上げ着込んで部屋に急いで戻ると一気に疲労感が押し寄せ、ベッドにからだを放り込んだ途端、睡魔が襲って来て深い眠りに就いてしまった。
隣の部屋に人が戻って来る音に信太ははっとして目が覚める。何か彼は夢を見ていたようだが、何であったかは思い出せない。時計を見るともう朝の四時だ。ひそひそ声が少しの間聞こえたが物音も止んで周りは深閑とし始めたところで、彼は再び深い眠りに落ちる。
朝、信太は起き上がって廊下で女ボスに出会うが、真夜中の出来事は何も話題に上らない。昼前、彼が流し台にやってくると他の二人の女性コックは何事もなかったように調理に勤しんでいる。彼は彼で疑念を振り払うかのように皿や釜を無心に洗い続けている。
人生とは旅のようなものであると言った人がいるが、信太のように旅を続けていると働くのは旅を続けるためであって、それ以外の何ものでもなく、皿洗いの仕事も舞台上で演技をする役者のように彼には思えるのだった。
アルトドルフのマルクト広場にあるウィリアム・テル記念碑の顔部分




