飛行機 ー プロペラ機
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横浜港から出発する信太は今や、ソ連船の艦上の人である。百室ぐらいの乗客船でさほど大きな船ではないが、彼は期待に胸を弾ませ夢は膨らむ一方である。甲板から下を覗き込むと見送る人が一塊にいて旅立つ人と紙テープで結ばれている。風に吹かれて波打つ幾つものテープの間にふと自分を注視しいる人がいるような感覚に襲われて、再び埠頭に佇む大勢の人たちを見遣った。ともかく、初めての長い船旅である。横浜から津軽海峡を通過してソ連のナホトカという港町に至る航路だ。
当船には十数人の信太とほぼ同年齢の若者が乗船している。各人、目的は違っていても、彼らも又、夢を描いての海外渡航であろう。「どこに行くの」「どのように行くのか」「どこまで」という平凡な言葉を交わすのだが、心中、深い思いを込めたものと彼は察して頼もしくも思えるのだった。津軽海峡を越える時、当時の大概の人は船で北海道へ行くしかなかったが、祖父もこの海峡を渡ったのだと思うと胸が高鳴った。
津軽海峡を過ぎると、この小さな船は揺れに揺れ船酔いは増すばかりである。やっと遅い時間にナホトカという小さな港に着いた。この港町は信太が生まれて初めて足を踏み入れた外国の地であり、好奇心も手伝って一時、村とも言えそうな小さな町を散策する。町の終わりに着くや、後ろから同じ歩調で付いてくるものを感じ取り、後ろを振り向くと同時にきびすを返すものがいる。
「なんだろう」と信太は一瞬の恐怖心を抱く。急いで先ほど通った町の中心部まで戻り、後を付いて来たと思われる者が信太から遠ざかったのを見ると不安は次第に消え失せていった。
列車に揺られて、五、六時間後、ハバロフスクに着き、その後、レストランで食事だ。指定のレストラン以外では食べられない。集団の食事だが、そこで驚いたことに大きな四十歳代のソ連人のおばさんが食事前に入って来て、曰く、「ここでは、写真は一切ダメ、指示するまでレストランから外に出てはダメ」と凄い剣幕でテーブルに着いていた外人ツーリストを前にして説明する。この時、信太は囚人のような感じがした。レストランと言えば、給仕係りが客を丁寧にもてなしてくれると思っていた信太には信じられない光景である。
その後、一群の日本人の若者と別れなければならなかった。彼らはシベリア鉄道を利用して一週間ほどかけ、モスクワ入りを計画していたからだ。「さようなら」と慌ただしく声を掛け合う。信太は別ルートでモスクワ行きのため、数人の日本人と空港に向かった。これら二つのルートは決まっていて、外国人ツーリストが勝手に国内を動き回れるものではない。ソ連はブレジネフ政権下にあった。
信太は初めてアエロフロートのプロペラ機に乗った。自由主義国ではアエロフロートは世界で一番危なっかしいということで有名だ。といっても、彼にはなんてことはない、飛行機というものに乗るのは初めてだったからだ。彼には飛行機に乗ること自体がとてつもない冒険だ。乱気流によって、数回、飛行機は急に一メートルか二メートル下降するが、その度に乗客は、「ワッ!」と声を一斉に放つ。
ところは海底で自分は泳いでいる。周りは沈黙の世界だ。ふと前方に奇妙な魚が自分を見つめているのに気づくが、こんな珍妙な魚を見たのは生まれて初めてだ。上半身は人間。下半身はというと魚のようであるが、うろこがない。むしろ、人間の肌のようだと夢見心地でいると、先ほどの機内のざわめきが徐々に聞こえてきた。
飛行機は乱気流を抜け出したのか、急な下降はしなくなった。途中、機上から地表を眺めると、いつも同じ景色で、たいそううんざりさせられるが、それもそのはずで飛行の緯度がずっと同じで時は二月。白雪の丘陵、森林地帯、白い木々があちこちに見えるが、白樺だろうか。数時間後、モスクワ空港に滑り降りた時、乗客、みんなが拍手喝采をする。アメリカ人は自分の気持ちを素直に表現しストレートに伝えると聞いていたので、アメリカ人が偶然に多く搭乗していて目的地到着を手放しに喜んだのだろうと思う。信太も喜んで無事のモスクワ着に喝采した。
飛行機 ー プロぺラ機