ルッツェルンのカぺル橋
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信太の部屋は彼女らの隣りだが、時折り、彼女らはどこへ行ったのか、朝早く帰ることがある。彼は物音で目が覚めるのだが、数分も経たないうちに再び、深い眠りに落ちるのが常だ。彼女らは夜遅く帰ってくると、昼の遅い時間から夜の仕事の直前まで睡眠を取るのが日課になっている。今朝も三人のコックは寝不足であることが一目で分かる。
その数日後、夜の十時ごろ、彼の部屋をノックするものがいる。
「イエス。」と信太。
「わたし。」とドアの後ろからハイジの声がする。
仕事はもうとっくに終わったのに急用だろうかと彼は思いながら、ドアを開けるとそこに、髪の毛を束ねたいつもの仕事着のハイジではなく普段着で髪の毛を肩まで下ろした姿がある。その変貌振りに彼はどぎまぎしてしまう。
「お話ししたいことがあるのだけど、、、入ってもいい?」とハイジ。
珍客である。彼には断る理由も見つからない。
「どうぞ。」
信太は何もないところではあるけれどもというジェスチャーをするのだが、後方に下がることもなく同じ場所で両手が振られているだけだ。これではハイジのところから部屋の中が見えないだけでなく入れない。傍から見ると彼の接待の仕方は滑稽であるが、彼は気が動転しているのであろう。彼女は部屋を覗き込み、どこに座ろうかと思案するが、彼が何も勧めないので、近くにあるベッドに歩み寄り、その端に軽く腰を下ろす。彼は机の傍にある椅子に急いで座る。ドアは開いたままだ。
「どう、仕事、慣れてきた?」とハイジは尋ねる。
「皿洗いはフィンランドでしたことがあるんだ。」と信太。
「ええ?どこ?」と聞き返す。
「フィンランドだよ。」
信太には懐かしいこの国名も彼女にはスイスのどこの町であろうかと記憶を呼び起こしているようだ。彼女は彼がスイスに出稼ぎのために来たのだと信じ込んでいる。
「ほら、スウェーデンとか、ノルウェーってあるだろ、その横の国。」
「そんな遠いところまで行ったの?」
「この皿洗いの仕事が終わったら、アフリカを旅行しようと思うんだ。」
「アフリカ、、、」とハイジは繰り返して言う。
彼は次の言葉を待つが、何も彼女から出てこない。
「今、ここで働いているのは、その旅行のための資金稼ぎなんだよ。」
「そう。」とハイジは頷く。
「それで、このホテルは一ヶ月の働き口。」
彼がそう言うと彼女の顔が一瞬、曇ったように見えた。丁度、その時、ホテルのルームキーパーが通り掛かりに開いたドアの向こうから、
「お休み。」と笑みを浮かべて挨拶をする。
「お休み。」と二人は声を揃えて返事する。
足音は遠ざかり廊下の突き当たりにある彼女の部屋のドアを開け閉めする音がする。彼女は年を取っているが、とても元気な婦人だ。
「彼女は子どもがいなくて、今でも独身なのよ。」とハイジが彼女の身の上話をする。
「へえ。」と彼は独身とは信じられないといった声の調子で応える。
「婦人と言うと気を悪くするので、お嬢さんと私たちは呼んでるの。」
「マドモワゼルだね。」
「そう」とハイジは言って、「次の機会にでも信太の旅の話の続きを聞きたいわ。これから私たち、外出するの。もう行かなくっちゃ。」とたどたどしい英語で一気に言い終える。
「オッケー。」
束の間の来訪であったが、信太にはこの短い会話でハイジと打ち解け合った感じがしたのであった。
ルッツェルンのカぺル橋




