ベルリンの壁 ー ドイツ
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砂浜に近づくと何かが前の風景とは違う。砂浜が前のように横に長く開いたような地形ではなく、むしろ、こじんまりとした砂浜、入り江、浦なのだ。おかしいと思いながら脚を引きずるように仲間がいる方角へ向かうが、どこにも彼らの姿が見当たらない。余りにも長い間泳いでいたので彼一人を残して立ち去ったのか。それにしても一人おいてゆくことはないだろう。目の前の海岸沿いに目を遣ると泳ぐ前に見た建物はもはやなく、その代わり木々が茂ってるのだ。今どこにいるのか、なぜこんなに周りの情景が変わったのか。タイムトラベルをしたのか。条件さえ揃えば海であろうが山であろうが高速で他の環境に人が移動すると聞いたことがある。
ふと我に返って残した持ち物のところまで戻ってくると、ヒッチハイクでペルピニャンの市内まで帰ることに思いを巡らせる。彼は一週間シャワーにも風呂にも入っていないので、海をその代わりにしようと思ってここに泳ぎに来たのだ。この海岸からペルピニャン市まで数キロしか離れていない。当市まで車で帰る人が多いので午後の四時ごろというのは簡単にヒッチハイクができる。彼はこの海水浴場に来たのと同じようにヒッチハイクでペルピニャンの市街地へと戻るのだった。
ここ南フランスの地中海に面したペルピニャン市近郊では、九月から恒例のぶどう狩りが始まる。信太はそれを待つ間、ユースホステルに一泊ぐらいはできたが、それ以上宿泊費に充てる金銭的余裕がなく、むしろ財布の紐を締めなければならなかった。夜はホステル近くの川の橋の下に寝床を敷いてぶどう狩りを待つことにした。
翌日、信太は一人の若い旅行者に出会う。
「どこで寝ているんだい?」
「橋の下だ。風雨を妨げられるんだよ。」
この旅行者は信太のように金銭的に窮していたのだろう。
「俺もそこで寝るとしようかな。」
二日目の夜は二人。日ごとに人数は増えて数日後には十数人にもなる。人も多くなって川原で寝るのは狭苦しくなり、土手を上がったところの野原で寝ようということになる。そうすると益々人は増え三十数人の大所帯を抱えるようになってしまった。こうなるとペルピニャンの住人から訝しがる声が警察に届けられたのか、ある日の夕方、二人の警官が野原を横切ってやって来る。野宿の一人は警官がやってくると耳打ちされたのか、杖を付いて足を引きずらせながら、急いで警官が来る反対方向に逃げ去り始めた。信太の横を通り過ぎる際、「この川を杖で一人横切るのは一苦労だ。肩を貸してくれないか?」と信太に頼み込む。
警察から逃げ出すような彼を不審に思うが、警官から今、信太のいるところが見えない。別段川を渡るのは大したことでもないと思って、向こう岸に行くために手助けした。渡り終わってさっきまでいた岸に目をやると警官どころか向こう岸が見えないほど川幅は広くなっており、大河のように滔々と流れている。
「どうしたんだ!」と信太は叫び声を上げてしまう。
そうすると、杖を付いた彼が穏やかに尋ねる。
「君は東西ドイツの壁を知っているか?」
「えっ、聞いて知っているけど、ベルリンには行ったことがない。」
「一ヶ月ほど前、俺はその壁を乗り越える際に、この有様さ。」と彼は信太に足を見せながら言う。
信太には彼が犯罪者に見えたに違いない。それを察してのことか、彼は疑いを晴らすかのように、「今からその場に連れて行ってあげよう」と言葉を継ぐ。
「でも、遠いんだろ?」
「すぐその先さ。でも、壁に近づいたら大きな声で喋らないでくれ給え。国境警備隊に聞こえたら怪しまれる。」
信太には歴史的なことは分からない。ただ単なる壁としか映じないのだ。しかし、この壁が造られて1989年に壊されるまで、二十八年の歴史を刻む。それまでに幾多の人が嘆き苦しんだことであろうか。それもイデオロギーの違いで。ある乙女は国境を越えて叔母の家に三日間手伝いに行ったのだが、壁が造られていようとは思いもしなかった。帰ろうとしたら、壁が立ちはだかっていて、以後、二十八年間、両親とも恋人とも離ればなれになってしまった。
壁から十メーターほど離れたところまで来る。
「実を言うと、もう一人の相棒がいたのだが、相棒は俺が壁を上るのに肩を貸してくれた。俺が壁の上に飛び乗るや否や、番犬の吠え声が聞こえ俺は壁の上で彼の手を引き上げようとしている時、番犬に不幸にも追いつかれてしまった。友の手は俺の手から滑り落ちて、その拍子に俺は反対側の壁際に落ちた。それがお陰でくるぶしを捻挫し、今も松葉杖を付きながらの逃避行さ。」
彼は壁際に近づいて黒ずんだ箇所を指差す。
「ほら、この壁から落ちるときにひっかいた俺の爪痕と指を擦り剥いた時の血痕だよ。」
今でも、友の安否が気遣われるのであろう。彼の顔は歪んで引き攣っているように見える。黒ずんだ血痕と彼の暗い顔は夕闇に溶けて行く。
「もう戻らなくっちゃ。暗くなったら足元が見えないよ。」と信太は言って、その場を急いで去った。
ベルリンの壁 ー ドイツ




