ギター YEAH!
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世の中は刻一刻と移ろいゆく。いつの間にか時が過ぎ去り、ある日突然、時代の変化と兆しに驚きの目を向ける。
信太の青春時代は二十世紀を半ば過ぎた頃だった。当時、通信・航空技術の発展に伴って世界の距離はますます縮まりつつあった。
1968年、パリ大学に端を発した学生運動は世界に飛び火し、日本も例外ではなく大学紛争が吹き荒れた。又、その頃のファッション界ではミニスカートが大ヒット、音楽界ではグループサウンズなるバンドが目白押しで、特筆すべきは若者の台頭である。彼らは「われもわれも」と自分もひのき舞台に上れると思い、夢を抱く時代であった。
信太はこの時、十六歳であり、こういった華やかな時代が続くものと信じて疑わない。又、これが当たり前という感覚である。そして、日本は高度経済成長時代を迎えていたので、当時の首相であった福田氏も「昭和元禄」と言う始末であった。海外も羨ましがる程の成長率で、企業も目白押しに海外進出に狙いを定めていた。
この時代を迎え、日本人は海外への持ち出し金額が一人五百ドルであったのが三千ドルとなったものだから、海外渡航を決意する若者も少なくない。
信太は高校生であるが、この日、同級生の五木がある話を持ちかけてくる。
「おまえ、ギターを弾けるんやろ。」
信太は駆け出しのギター弾きであるが、否、物まねと言ってよい。それでも幾らか弾ける。
「うん」と反射的に応える。
「同級生がギターのグループを作ろうと言っているのだけど、お前も入らないか?」
「オッケー」と信太は時間を持て余してたこともあって、即答する。
このグループで音楽活動を始めた時、リーダー格が欧米のニューサウンズを随分知っていて、これを機縁に英語で歌うことを学ぶ。当時、誰でも一度はビートルズの名前を耳にしたことがあったが、信太のグループのレパートリーにも彼らの曲目の幾つかが加えられた。
そうこうしているうちに、このバンド仲間からあるラジオ番組の話があって「オーディションを受けよう」となる。いつの時代でも若者は新鮮な感覚で新しいものを受け入れるものだ。その番組とは落語家、桂三枝司会の「ヤングタウン」というものだった。夜中のラジオ放送で、当時、関西の若者には大変人気があった。このオーディションは公開で50人程の観客の前での演奏。曲目は「ストップ・ザ・ミュージック」で、2、3年前に世界中でヒットした曲だ。見事に受かって意気揚々と建物から出ると数人の女性が信太達を待っていて駆け寄ってきた。
「先ほどの曲は誰が歌っていたのか教えてくれませんか?」
「ザ・ヒットメーカーズと言ってデンマークのバンド。」
「歌詞の内容を知ることができるかしら?」
「レコード盤が発売されているから歌詞が付いているよ。」
信太達と話すきっかけを作る口実の質問を受けて、何か有名人になった気分であり嬉しく思うのは信太だけではなくバンド仲間も同じであった。
これら一連の出来事が後押しになって信太はかのラジオ放送を聴くのに熱狂的になるが、ある日、意外な放送内容に出くわす。それは「海外を無銭旅行で」というテーマで「片道切符でソ連(当時)を経由し北欧に至りヨーロッパ各地で皿洗いなどをして稼いだお金で陸地沿いに中近東、インド経由で東南アジアに至り日本に帰国」という三人の青年の体験談だった。信太は驚き、抑えようもない旅への興奮に駆られるのだった。
ギター YEAH!