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 翌朝 

 



   【 翌朝 】


 男は悪夢を見たと思った。女は恵まれた奇遇に感謝した。

 お互い、部屋の扉の、前。

 昨夜と似たような状態で、二人は、いた。


「お早う、ございます」

 女が言った。少々掠れて、でも風鈴の音みたいな声で。俯き加減の恥ずかしそうな表情は男が、はっとする程愛らしく美しいけれど、男は男で一瞬魅入られて離れた己を手繰り寄せる。が、男はどうして良いのか悩んだ。手にはゴミ袋。外からは見えないが、中には昨夜投げ捨てたシャツが入っている。


 加えて白状すると、実は聞こえていなかった、正確には、見えていなかったのだ。見逃した。

 女が、玻璃が、口にしたことを。


 いったい、先程何と言ったのだろう。困ったけれど、聞き返すなんて、どうなのだろうか。そう思う。自分たちは初対面だから。

 聞き返すのはもっと親しい間柄での行為じゃないのかとか、そんな風に『傍若無人』と評される自分らしくもなく、柄にも無く考えてしまったのだ。一方玻璃と言えば、男の身なりに評価をしていた。曰く、────“格好良い”と。


 今日の男の服装と言えば、簡単に言えば革の上下だ。手にはライダーグローブ、サングラスも掛けている。朝から出掛ける用事でも在るのか、びしっと着込んでいた。倫臣の柔らかで穏やかな印象の格好も好きだけれど……言ったことは無いけれど、玻璃はこう言う格好も見るのが好きだった。

 見ながら思う。“色は、果たしてどんな色だろう”、と。


 実際には上下とも黒だったのだが、玻璃には男に訊く以外知る術が無い。けれど会話も昨日初めてしたような玻璃と男は、当然男が考えたように親密な関係では無いので、それを尋ねることは気安く感じて出来なかった。


 互いが違うことで、同じことを悩み、噤んでいた。場はそのせいで静寂を守っている。最上階の外通路、鳥の囀りと遠くの喧噪だけが、BGMだった。

 困った。互いにそう、同時に考えていた。


「ええ、と」

 先に黙々とした場を割いたのは、男だった。

「あの……お早う、ございます」

 男は、考えることを放棄した末そう告げた。時刻は朝。この挨拶でも間違いないと思う。玻璃が何を口にしたのか定かじゃないが、別段おかしいと思うことは無い。玻璃は。

「はい。……『サカグチ』さん?」


 玻璃の口元を読んで、男────『阪口さかぐち大輝だいき』は、大きく目を見開いた。

 驚いたのだ。玻璃が、自身の名を呼んだから。だがすぐに、あぁ、と、玄関の表札を見て合点が行った。表札には英文字で、己の名字が掘られている。隣に住む玻璃が口にしても、おかしくなかった。そこで阪口は玻璃の表札に目を動かす。そこは白紙だった。


「……おたくの名前は?」


 なぜ、そう口にしたのだろう。そう思ったときには“時既に遅し”。玻璃が微笑んで、玻璃にしたら、そう、しない飛びっ切りの微笑みで。阪口に返していた。

「玻璃、です」

 玻璃のモノクロの視界には、目を瞠った色の無いままの阪口が、鮮明に映っていた。




 玻璃は胸が躍るのを感じていた。一人の部屋はとても、しん、として。どこか懴悔室に似た静謐さは変わらずだったけれど、今日の玻璃には気にならなかった。朝から、良いことが在った。ゴミを捨てに行って良かった。玻璃は、喜色に頬を染めていた。


 隣の人。昨日も会った。倫臣を下まで見送って、その帰りに。今日は、ゴミ捨ての帰りにだ。玻璃はよろこんだ。うれしかった。

 隣の人。この、重たく音を成さない、孤独の満ち満ちた空間を引き裂いてくれる、あのギターの主。数箇月前。


 玻璃は、限界だと思った。倫臣のことだけではない。

 すべて、が、だった。


 数箇月前の、ある日。親が、あの母親が来た。しかもただ来ただけではない。中学時代の、お節介な級友だった女まで連れて、だ。女が玻璃の実家を尋ねたのは、近くまで用が在ったからだと言う。

 それで母親が、この女を連れてアパートメントへやって来た。玻璃は、いい迷惑だ。はっきり言って、女の名前も名字すらも、思い出せないのに。


 母親は、他人向けの営業スマイルを浮かべていた。玻璃だけなら、毛嫌いする視線しか寄越さないくせに。

 倫臣にも、そう、だった。女への営業スマイルは、倫臣に向ける笑顔といっしょだった。倫臣が昔こっそり“この人は苦手だ”と教えてくれたけれど、玻璃は『苦手』なんてそんなに、易しくないと思った。


 滑稽な、社交性。気位だけが高い女。こんな女から産まれたなんて、考えて、ぞっとする。その母親の本性には感知しない元お節介な級友は、キッチンに消えた母親を「素敵なお母様」と誉め称えた。

「……」

 嗤えた。


 確かに母親は外見だけなら、上品且つ年齢から程遠い美貌で、素敵に見えるかもしれない。だけどもその皮は、一枚剥げば醜くどす黒い[何か]でびっしり、覆われているに違いなかった。つくづく、この女は何もわからないのだな、と思った。

 玻璃の冷たい視線に笑ってられるのだから、それぐらい鈍感なのかもしれない。玻璃は納得した。どうでも良かった。願うことはただ一つ。“早く帰ってくれ”だった。


 その玻璃の願いに片や鈍さで、片や無視で、気遣う様子はまったく無かった。何だか玻璃からすれば、本当に生き地獄としか思えない時間を二人は展開した。勝手に元級友の女は思い出話に花を咲かせ、母親はその元級友に気付けばめずらしく含みの見当たらない笑顔でいて、たまに矛先を玻璃に向けた。玻璃は元級友の矛には、気怠そうな相槌の盾で返した。


 どれくらい時が無意味に流れたのか。

「あ、もう帰らなくちゃ」

 元級友が腰を上げた。母親も、「まぁまぁ。そうですか? 大したお構いもしませんで」立ち上がる。母親の態度に、大仰ながら億劫そうなところが隠れていないことを見て、玻璃は元級友が気に入られたのだと感じていた。


 二人が玄関に向かい、玻璃も一応付いて行き、元級友が扉を開け放したままお辞儀して、閉める寸前で背を向けた。玻璃も無表情だったが一応手を振った。母親も、玻璃には後ろ姿だが、多分笑っているのだろうと思う。


 ドアが閉まって、玻璃が奥に戻ろうとしたときだった。母親が、口を開いた。常に玻璃に対して使われる、淡々とした口調で。


「……あんな明るいお嬢さんみたいな娘が欲しかった」


 玻璃に言ったのでは無いのかもしれない。独り言の、呟きだったのかもしれない。だけど。

 知っていた。玻璃は[異物]だった。家にいるのは禁忌のモノだった。家だけじゃない。他の場所だって、玻璃のいられるところなんて無かった。身に染みる程、染みて落ちないくらいに、わかっていたのに。

「……」


 何が、ショックだったと、言うのだろう。今更に。玻璃が何も返さないのを、返せないのを意にも介さない母親は、さっさと身支度をして帰ってしまった。今日に限って倫臣は仕事で来ない。アレが、今日、最後の来客。


 最悪だった。倫臣のほうがまだ良い。苛付いても、ムカ付いても、倫臣は玻璃を無下にしない。それが倫臣自身の利益のためでも、打算で在ってもだ。

 あの母親や、顔を合わせれば上辺だけで溺愛して目線では蔑んで来る父親よりずっと、倫臣はマシだった。玻璃は頭を抱えて、やがて。

「無理」

 一人の部屋でそう一言零した。限界だった。倫臣には悪いが、もう付き合ってられない、そう思った。


「あんな娘が欲しかった」と、言うけれど、なら、あの女は何をしてくれたのだろう。娘ならここにいるだろうに。あんな娘になれる訳が無いだろう。鏡を見る。

 間違いなく自分はあの女の、子で、あの父親の男の面影を宿していて。その自分が、あの両親の子供である自分が、あんな娘になれるはずが無い。


 血なら濃く受け継いでる。昔は自己を責めたが今なら違う。この欠陥は、この色を亡くした『世界』は、あの両親のせいなのだ。あの二人が、黒いからだ。

 希望に溢れた『世界』は、それこそ、色もきっと鮮やかなんだろう。こんなにも重苦しい『世界』じゃ、あんなにも褪せて鬱屈した両親から生まれたんじゃ、色なんて、痛いだけだ。


 だから。

 だから。

「……私に『いろ』なんて、無いんだ……」


 透明な硝子細工のように。

 質素な硝子のコップみたいに。

「私は、────」────独りの部屋で煮詰まって、玻璃が髪の中に爪を立てて、考えたとき。


「……」

 隣から、音が聴こえた。

 布を裂くような、甲高い音。硬いものを切り刻むような、工具用のエンジンみたいな。


 音。一度じゃなくて何度も、何度も。

 玻璃の思考を、掻き乱して、消すように。

 リセットさせる、みたいに。

 音は。


 止めてくれる者のいない部屋で奔流する、玻璃の中で張り詰めた昏い思惟を、その流れをぶちぶちと断つように。……。


 それからだ。

「……」

 隣に通じる壁を、玻璃は、撫でる。

 玻璃が、隣の存在を気にし出したのは。隣の音に耳聡くなっているのは。




 玻璃と別れてから、ゴミを出した阪口は外にいた。所属事務所に用が在ったからだ。「……」いや、本当ならその用は既に無くなっている(・・・・・・・・・)のだが、阪口はそれをわかっていても、ここへ来なくては、ならなかった。


「……今日はどうしたんですか?」

 忙しなく人の行き交う事務所。あっちこっちで電話が囂しく鳴っていた。その内の、電話が今し方終わったらしい人間に阪口は声を掛ける。その人物は阪口を見て、ほっと息を付いた。

「何だ。阪口じゃないか」

どうしたんすか(・・・・・・・)この状況は(・・・・・)桃生ものうさん」


 阪口が、無表情で詰まらなさそうに、再度訊いた。勿論、これは装っているのだ。

 阪口は知っている。『桃生』と自分が呼んだ男以外にも、事務所の人間が慌ただしくなっている、理由を。

 白々しく、けれど尋ねなければ己はいけない。


 なぜなら、自分は何も知らない(・・・・・・・・・)のだから。こんな阪口の胸の内など悟ることが無い桃生は、外見からして善良そうな顔を疲労に染めて、溜め息を吐いた。

「……社長が……」

「社長が?」

 口にしながら内心、阪口は反吐が出そうだった。何て猿芝居だろう。びくびくしながら、役者には向かない自身の芝居がバレないことを祈っていた。その反面、付き合いの長いこの桃生を騙すことに苦しさも覚えていたが。


 当の桃生は阪口の耳のことを思い出したのか、机の上のメモを取ると胸ポケットのペンを手にして記し出す。書き終えて、とんとんと指で示した。

“社長が亡くなったんだ”

 沈痛な面持ちで文を書いた桃生は、酷く憔悴していた。阪口は思う。いつ(・・)どれくらいで(・・・・・・)あの女(・・・)の死体が見付かったか(・・・・・・・・・・)知らないが(・・・・・)、きっとそれから大変だったのだろうと。


 警察でも来たのだろうか。その対応にだって追われただろう。って言うか、『あの女』────社長の死は、マスコミが食い付きそうだ、と思った。

 何せ一ミュージシャンからヒットメーカーで有名なプロデューサーを経て、今や押しも押されぬ芸能事務所の創業者に転身したカリスマ社長だ。警察だけじゃなく、マスコミの応対もしていたと言うのなら確かに大変だろう。


 他人事の如く考えながら、もう一つ冷めた思い付きが浮かぶ。“その社長を殺したのが、俺って言うミュージシャンだとわかったら、もっと凄いことになるんだろうな”と。


 昨夜はあんなにも焦って、渦中に飲まれていたと言うのに、今日はとても落ち着いていた。冷静そのものだった。もしかしたら、時間が経って夜が明けて、現実味を失ったからかもしれない。元より、あのときもリアリティに欠けてはいたけども。

 手の感触も薄れていた。肉を突き破る感覚が、もう無い。不思議だった。悔恨に囚われている人間は、一生消えないものだと語っているのに。あんな話は嘘なのだろうか? いや、そんなことは無いだろう。

 だって、自分だって直後はこびり着く生々しさに、何回も手を拭った。それなら、時を経て平常でいる自分が、違うのか。


 考えて“あぁ、そうか”と阪口は、急転直下で飲み込んだ。罪悪感なんて、そう言えば無かった、気がした。当時だって保身だけ、考えていた。“あんな女のために捕まりたくない”と。


 混乱に襲われる自身を宥めて慰めた。とても自分勝手に。

 隣の女に見付かったときも。

「……」

『ハリ』とか言う、あの隣の女に見られたときも、“何で俺がこんな目に”と思っていた。その上こんなときじゃなかったら、『ハリ』を口説いたかも、とも。


 最低振りに自嘲が洩れた。桃生の前だと言うのにだ。だが桃生は自嘲と気付かなかったらしい。それどころか勘違いしていた。

「……お前、社長と仲良かったもんな」

“仲が良かった”。そう思われていてもおかしくない。

「────」

 唇から読み取れたその一言に、違和感を覚える程内情はどうあれ、社長と阪口はよく二人でいた。それもそのはずで、阪口をプロにしたのは外ならぬ社長であったからだ。


 昔プロデューサーをしていた社長が、阪口の音楽センスに惚れ込み、自らスカウトして育てて来た。そうして数年培われた付き合いは当然、社長とミュージシャンの関係だった。しかし何と言っても良い年の男女である。体の関係も在った。それも、一度や二度じゃないことは否定出来ないくらいに。

 ここ数箇月は、険悪だったけれど。阪口の耳が、原因で。


 揚げ句、若い新人に寝取られて解雇ですよ……、そこまで思考がぐうるりと回ったところで、もう一つ違和感が見えた。桃生のこの態度だ。もしや知らないのだろうか? 阪口の、解雇を。

 桃生だけではなかった。阪口がここにいることを疑う人間が、一人としていないようだった。もし、阪口の解雇の話を耳にしていれば誰かしら阪口を見た時点で、社長の死んだ今何しに来たのかと訝しんでも良いものだ。


 でも、そんな様子は無い。受付でも玄関前のロビーでも当たり前のように、以前と変わらず顔パスで通された。少し付き合いの在る受付嬢からは笑顔で、「お早うございます、阪口さん」と言われた……と思う、口の動きから。「こんなときに何しに来られたんですか?」と言う疑問を投げ掛けられた感じでは無かった。“あぁ、そう言えばあの受付嬢の顔色もあまり良くなかったな”と今気が付いた程。


 変化が無い。社長が死んで、それだけで、自分に対する変化が無い。事態が事態だ。阪口の状況に疑惑の目が、向いても良いものなのに。

 通常通りの、日常。それが、ビデオのように垂れ流されている。

 違いと言えば社長の死。

 だけ?


「……俺、今日社長に呼ばれてたんだけど」

 ……そうだ。阪口は思う。今日、この日、正式に解雇になるはずだった。自分はそれを何とか思い止どまってほしかった。

 だけれど。

“フザけたこと抜かしてんじゃないわよ”

 蘇る、あのときの。あのとき阪口は、喋る気配に顔を上げた。意図せず落ちた声だったのだろう。仰ぐ目に映ったのは、社長の般若顔に、微かに乗る自己嫌悪の色。記憶を辿り開閉する阪口の、眼裏で掠めるみたいに、蒸発した。


 今にしてみれば、こう言ったのか。社長のことだしと思いはすれど、阪口の推測からもう出ることは、無い。

 あの日、あのとき。

“あんたに幾ら金使ったと思ってんのよ”

“私はあんたにそれだけ賭けたのに”

“大損よ”

“今じゃ出て行くほうが上”

“収入よりあんたを養うほうが支出でかいわ”

 紙面に綴られた罵詈雑言。あの女の、社長の、声が聴こえた気がした。冷えた脳の、奥で、響いた。


“スタジオ借りても一曲も出来ないで終わるじゃないの”

“もう万策尽きたんじゃない?”

“アイディアにしろネタにしろさ”

“おまけに、曲が作れないばかりか耳がおかしいなんて。そんなんじゃ歌うだけのことも出来ないじゃない”

 実際には零れた一言以外、筆談だった。思い出すと、書き出された文字まで、脳裏で回りそうだった。


 マンションの一室。社長はこの日新しい男と、現在売り出し中と言っていた男と、豪華な私室で秘密の一夜を過ごす予定だった……と阪口は踏んでいた。恋人と過ごす予定が控えているときの、女の上機嫌な様を阪口は知っている。

 阪口が尋ねたとき、男は未だ来ておらず、社長は一人だった。社長は笑顔でインターホンのモニターに出たのだろうが、阪口を見て落胆し表情を変えただろう。

“あの女のことだ、あの甘ったるい昔は扇情的と謳われたセクシーボイスで、上機嫌に出たのだろうに”と、阪口は皮肉に想像した。そして“俺が出てさぞ面白くなかっただろうに”とも。


 終わった今なら、そう嘲ることが出来た。でも、あのときの阪口には余裕が無かった。

 あのとき、阪口は何でもしようと決めていた。決死の覚悟だった。だから社長の顔色をずっと窺っていた。玄関から部屋に上がった阪口は必死に訴え、らしくなく土下座までしたのだ。


 なのに自他共にプライドが高いと認める阪口の行動を、社長は冷淡に見据え、その上苛々とした所作で吐き捨てるように走り書きさせた紙を。

「……」

 投げ付けて来た。

 ヒステリックに喚こうとも阪口には届かないと知っている女が、目の前で散らばせた殴り書き。それらはひとつひとつ拾い上げて確認した阪口を、幾度も傷付けた。床に、頭を擦り付けてまで温情を請いに来た阪口を、そのプライドを。


 そのあとの、トドメ。

 囁いた。昔、阪口を誉め称えた唇で、扇情的なあのセクシーボイスで、きっと。

“……能無しのポンコツになっちゃって。使えやしない”

 これも、紙に無かった。書かれたものじゃ、なかった。聴こえてもいなかった、のに。


 一枚の紙に書かれたのは阪口が驚くくらい多くて、予め準備されたかのような文章ばかりで。字は酷く乱れていたが、さすが、ソングライター上がりなのかもしれないと感心した。……今。


 そう、今なら、こんなにも平然としていられるのに。なぜあのときは切れてしまったのだろう。切羽詰まっていたからか。悩んで、とうとう馘を言い渡されたあとだったから。焼き焦げてしまっていたのかもしれない。脳を働かせる機能、と言うものが。


 溶けて、焼き付いて、焦げて、切れてしまった。そうして。

 手が、新しい男のために用意されたのだろうフルーツの中に、入った。フルーツが盛り付られた籠の中に、一つ、異様に突き出した細いを見付けたからだ。棒は、刃物の柄だった。果物ナイフの、柄だったのだ。

 吸い込まれるようにフルーツの盛り付けからナイフを掴んだ手が抜け出て、次いで記憶された映像はスローモーションだった。そう言えば、スローの映像を流すときはどうして無音なのだろうと思う。こう言った意味では、確かにスローモーションなのだ。この、記憶は。


 阪口の耳は、現在大半の音を逃してしまう。音楽を扱うアーティストとしては、間違いなく役立たずのポンコツだった。


 だけども認められただろうか。散々自分を奉っておいて。業界とはそう言うモノだと、わかっていたが。理解していた、つもりだっただけなのかもしれない。

 結局、本当は甘く見ていたのだ。あれ程信頼していた人に、あんな風に言われるとは考えていなかった。社長の態度は、社長を手に掛けた現時点でも忘れられない。


 豹変、と言う言葉がこの世に存在していて、それを目の当たりにするとは、こう言うことなのだと。阪口は血の味が口の中で拡がるくらいに、自身で思い知った。

 今なら作曲は無理でも、作詞ぐらい出来そうだと、本気で思う。それ程に、阪口は変に奥深い経験をしたと。何の衒いも無く思った。


 閉口した阪口をどう思ったのか、桃生が考え込んでしまった。首を捻りながら、桃生は手近でばたばたしていたスタッフを呼び付ける。桃生の声にスタッフが反応した。顔を見ると事務員の女性だった。阪口とも、たまに他愛ない世間話をする程度には知り合いの子だ。

 相手は事務員だ。冷静に阪口は思う。書類作成は大概、事務の子がやっている。


 とすれば、この子は阪口の解雇を知ってるのかもしれない。いつもは笑顔の可愛い、タレントにも負けないルックスも今日は表情が硬く、疲労が濃い。桃生と何やらしばし話し込み、桃生が手を振ると事務員は去った。彼女がどこかへ行ってすぐ桃生はメモ帳に何かを書く。


 終えて、また人差し指でとんとんと叩いた。見ろ、と示していた。おとなしく従って阪口も見る。

“今確認させてるから”

 短く、無駄の無い説明だった。どうも事務員も知らなかったらしい。阪口は少しだけ胸を撫で下ろした。


 無論、これで窮地を乗り切れたとは考えていない。きっと彼女は秘書に訊きに行ったのだろうし、さすがに秘書は知っているはずだろう。むしろここまでノーマークでいるのが、不可思議なくらいだ。


 だが、予想に反して秘書も、阪口の解雇を聞いていなかった。結果社長の死んだ今、阪口の社長を殺す動機を知るのは阪口のみとなってしまった。


 これは僥倖かもしれない。千載一遇のチャンスとも言える。黙っていれば、自分は事無きを得るのではないかと。

 甘い考えだが、強ち不可能でも無い気がしていた。複雑だが己を棄てた社長の、あの女のために、捕まる気は阪口にさらさら無かった。ただ、一つ心苦しいとすれば桃生に対してだけだ。


 誰も社長と阪口の間のことを知らない。埒も明かないと狂言を言い、帰ると言う阪口のために、桃生が呼んでくれたタクシーが到着した。内で堂々巡りする葛藤に嘖まれながら阪口は、外まで出て来てくれた桃生の見送りに手を振って、とうとう事務所を後にすることになった。


 桃生は今の阪口が自分で車を運転することを好まない。今日、そう言えば阪口も図ったように行きはタクシーだった。無意識にそのことを、桃生のことを覚えていたのだろうか。そこでまた再び胸を痛め、振り切り、阪口は車内に乗り込んだ。


 帰る車中で阪口は考えていた。今後のことだ。どうするべきなのかを。

 桃生が阪口の犯行を感付いていたら、阪口は間違いなく自首させられるだろう。阪口の納得させられた上で。阪口の知る桃生はそう言う人柄だった。昔いっしょにラジオで出演して、お世話になった俳優を思い出す。


 その俳優は、阪口より古くから桃生と付き合いが在る桃生の友人で、薬物使用で前科が在った。このときにはもう執行猶予も明けて薬物撲滅キャンペーンにも積極的に参加している状態だった。この俳優を更生させたのも、桃生なのだ。

 俳優からこの話を聞いた当時、誇らしく阪口は思った。家族を誉められた幼い少年のように、得意げな気分になった。


 この時期、桃生は阪口のマネージャーだったのだ。担当が代わってしまった今も、何かと相談に乗ってもらっている間柄で耳に関しても、社長の次に告白したのが桃生だった。桃生には恩が多分に在って、感謝してもし足りない。

 そんな桃生に嘘を付くのが、阪口には申し訳無かった。けれど、自白をするなんて阪口にはどうしても冗談じゃなかった。

 社長を、あの女を思うと。


 あの女を殺したせいで、桃生にはひどく迷惑を掛けてしまって、これは良い気分ではなかったのだけども。付きは阪口を完全には見放していないのだ。桃生も事務員も秘書も、阪口を疑っていない。大丈夫だ、黙っていれば……狡いのかもしれない。


 桃生たちが阪口を毛の先程も疑わないのは、偏に社長自体が阪口を庇っていたからだ。ついこの前まで。曲の作れなくなった阪口だが容貌も良かったから、何とでもなると言ってくれて────これこそが、もしかしたら最終通告だったのだろうか。


 でも阪口は、音楽以外の仕事を、断り続けた。プライドが高いから、と言う理由だけではない。阪口は音楽がしたかった。

 だから耳が狂ったとき、真意に自殺を考えたのだ。ここまで張り詰めた阪口を止めたのは、社長だったのに。


 こうなって考えてみれば、ただの保身だったのかもしれない。それを情だと思い違いしてしまったのか。数日後、新しい男が出来て棄てられると言うのに。このときの阪口と来たら、おめでたいものだと自分でも呆れる。


 すべては愚かで思い上がった自身のせい。自覚していた。……自覚しているが。

 不敵に不適に、阪口は嘲笑した。昨日だって上手く行ったんだ、心配ない────そこまで半ば強引に言い聞かせて。このこっそりとした笑みは、……誰に向けたのだろうか? はたと。

「……っ……」

 阪口は今一度肝を冷やした。


『ハリ』。その顔が浮かんだ。昨日の阪口の、唯一の目撃者。……そうだ、『ハリ』に見られたのだと。あの艶やかで鮮やかな麗しい女。隣に住む。

『ハリ』────隣の美しき目撃者。彼女に喋られたら。

 唇を歯が噛み締める。

 阪口は、一巻の終わりだった。



 

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