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 籠之鳥 たちの 際会 

 



 : その眼は色を知らず、

   その耳は音を通さず、

   ────あぁ、なんて、『 閉 塞 的 』? :




   【 籠之鳥 たちの 際会 】


 女は静止した。男は硬直した。

 お互いが、お互いを見ていた。

 お互いが、お互いを認めていた。

 その存在を、その呼吸を。


 女は微動だにしない。男も眉一つ動かない。

 しばしの邂逅。


「……っ」

 先に我に返ったのは男だった。“……見られた!”、そう、思った。一人焦り、思考回路をパンク寸前まで男は高速回転させる。けれど。

 片や女はのんびりとしていた。顔色を失った男に、大丈夫かとさえ考えていた。


 男は、シャツに付いた染みに気が気じゃない。女の一言も指摘しないところが、更に恐怖を煽る。女は、男の手が無意識にシャツを手繰り寄せるのを見て、あぁ、と思った。……汚したのかと。

 黒い絵の具が(・・・・・・)男のシャツには(・・・・・・・)付いていたから(・・・・・・・)

 きっと、外で何か在って、ペンキでも付いたのかと。それで恥ずかしいと(・・・・・・・・・)思ってるの(・・・・・)かもしれない(・・・・・・)。男はお洒落に気を遣うことを、女は何となく知っていたから。


 男は、最後居た堪れなくなった。逃げるように自分の部屋のドアへ────女が前に立つ扉の、隣へ。

 鍵を差し込む最中、女が口を開いた。男は見ないようにしていたけれど、目が動いて、その女の口元を見遣ってしまった。


「……こんばんは」

 女は、そう言ったようだった。小さな口の動き。だけども男は耳の聴こえなくなった(・・・・・・・・・・)数箇月の間で(・・・・・・)、それだけの動きにも反応し読み取ることが出来るようになっていたから、わかった。やはり頭が正常ではないのかもしれない。

 焦燥に駆られるまま急ぐ中、男も小さく吐息と紛う程度の声で、「こんばんは……」と返していた。男の部屋の鍵が開くまでの、数秒の出来事だった。


 男には酷く長い、数秒。女には、酷く短い数秒。瞬きの間だった。その刹那の間に。

 男は膝が笑う程の恐怖を味わい。

 女はちょっと胸が躍るのを感じていた。

 まったく違う種の感情。


 後に絡まることなど。

 二人を搦めることなど。

 そしてもう一つの“点”に作用することなど。

 今や、誰が知ろうか。




 自室に戻った女は椅子に腰掛け、ぼうっとくうを見詰めていた。時折、先の出来事を思い浮かべ、笑みを口に乗せるだけ。ヒトリの部屋、物音は誰も起こさない。


 白と黒と濃淡が支配する世界は、本当に音も無いと古いフィルムのようだった。と言っても、女には新しいムービーと昔の活動写真の違いなど、わかろうはずも無い。色を判別し難い己の視神経を網膜を、何度恨んだことだろう。他人と違うことが苦痛だったのは、成長過程までだった。成人の今、そんなことさえ、そんな考えさえ莫迦莫迦しくて。


 女は「……」眉を寄せた。不意に過った不快な過去に苛立ちを覚えたからだ。

 けれども。


「────」

 タイミングの、何と良いことか。女は、壁へ目を向けた。意識を誘われて注視した。

 そしてその壁に静かに、本当に息を潜めて、歩み寄ると。

 耳を、宛てた。

「……」

 息を殺して。


 古い慣習が濃く残る家の、結婚適齢期からすれば時期の少し過ぎた現在。女には楽しみなんて無かった。空虚と退屈と怠惰だけが緩やかに、退廃的に自分を廃れさせて風化させて逝くだけで。

 楽しみなんて、これっぽっちも無かった。

「……」

 壁に、そっと頬も唇も耳と指に添わせる。まるで愛しい人の胸に、顔を寄せるように。

 女以外の無機物も、呼吸を隠しているかのような空間。それでも微かに。

 ────……。

 聴こえて来る。女は微笑んだ。

 ギターの、旋律。


 とても普通に生活していれば、聞き逃してしまうような細やかな音で、激しく曲を編んでいた。

 隣の部屋で。

 あの、通路で出くわした男の住む、隣の、部屋で。




「……」

 女がしばし玄関に立ち、少々余韻に浸ってから部屋に入ったころ。先に自身の部屋に入っていた男は、焦っていた。玄関に始め立ち尽くし、次いで頭を抱えた。

 額に宛てた手は、前髪を毟るように掴み頭を押さえている。ぶるぶる震える手からは、そうとうな力が拮抗していることを知る。男は額から片方手を動かすと、口を覆った。その様は吐き気を抑えるみたいだった。顔色の悪さを考えれば、強ち間違いでも無いかもしれない。


 どうしようどうしようと、男の脳はそれだけを、男に迫っていた。男は頭を振る。どうしろって言うのだ、と。

 見られてしまった。この姿を、この時間帯に、見られてしまったのだ。

 隣の女に。


 隣。他の住民と同じに特に関心は無かった。情報を探るが記憶も乏しい。会ったことなど在っただろうか、今日以外で。男は頭の中をフル回転させるが上手く回らない。酔っているかのように。


 男は女を思い出す。以前の記憶でではない。さっきのこと。艶やかな、女だった。着物と、その上のショールが似合う、美しい女だった。古風な、眉の辺で切り揃えられた前髪と肩上までの後ろ髪が、白い肌に映えて色っぽい。

 派手でもケバくもないのに、一際鮮やかな女。こんな日でなければ、今日でなければ、少しお近付きになりたくなる、そんな。


 あぁ、だと言うのに。

 何で、こんな日に。男は唇を噛んだ。ふと、その瞬間玄関に設置していた姿見が、目に入る。白いシャツと黒いロングパンツ。シャツにはところどころ赤茶けた黒い染みが。


あの女(・・・)を刺したときの(・・・・・・・)、『あの女(・・・)の血液が(・・・・)


「────!」

 慌てて、男は部屋へ上がった。上がりながら、シャツを破り捨てるように脱ぐ。ボタンが散ったか、床で硬い弾けた音がする。男は気付かない、それどころではない。

 廊下の右に在る、キッチンへ入るとゴミ箱へ足早に歩み寄り、力一杯投げ込む。息遣い荒くシャツを手放した男は、その中途半端にシャツの端が食み出したゴミ箱を見詰めていた。が、しばらくして、その場でずるずる壁に背を付け崩れ落ちる。


 上半身の素肌を晒したまま、座り込んで膝を抱えた。

 どうすれば良かったのだろう、と。

 男以外音の出さない世界は、男を闇に墜落させる。どうしようもなく昏く深い、這い上がることをゆるさない[闇]へと。


 唐突に「……」男は立ち上がった。勢いの良かった動作は何かを倒したが、男は脇目も振らない。倒れたときかなり大きな音がした。もし、そのまま耳にすれば(・・・・・・・・・)足を止めたかもしれない。

 けれど男からしたら遠く、僅かなものでしかなかったから。キッチンとは反対に在る部屋の、壁の向こうに住むあの隣の女にも聞こえなかっただろう。

 もっとも隣の女────玻璃は、そのときは脱いだショールを仕舞うのに男の部屋と面した壁からは随分離れた位置にいて、気付かなかっただけだが。


 だとしても、そんな瑣事を男が察する訳が無い。その前に、構ってもいられなかった。男は必死だったのだ。一刻も早く闇を振り払おうと。


 自分の仕事道具たる音楽機器が犇めく部屋へ飛び込むと、立て掛けてあるギターの一つを手に取り機械をオンにして、ヘッドフォンを装着した。音量は最大に設定してある。

 試しに一回鳴らしてみた。音洩れして部屋の中、普通にヘッドフォンをしていない第三者の耳にも届くくらいの、大きさだった。これでも、男にはごく小さな音にしかならなかったけども。


 ヘッドフォンを着けて、しかも最大音量の音楽を聴くなんて、男の耳には自殺行為だった。医者にはこんなことは絶対するなときつく言われた。余計に病むから、と。医者の言うことは確かだった。病状が悪化しているのを男も理解していた。けれどやめられなかった。

 音の無い生活は男には考えられなかったから。


 くぐもった音しか聴こえず、塞がれたかの如くなった耳。突発性の難聴と、診断された。

 ストレスが原因の心因性とも、言われた。最初はそんな状態でも何とか聴こえていたのに。悪化した症状は、この大音量の中でも微かにしか聴こえない。わかっている。自分が蒔いた種だ。


 自業自得なのだと。

『あの女』のことも。


「……」

 隣の女に、玻璃に、搗ち合ったことも。


「……っ」

 男は己を引き摺り落とそうとする思量を消すため、一心不乱にギターを掻き鳴らし、弾いていた。



 

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