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そのあとで、旅人は王子に呼ばれた。正式な謁見ではなくて寝室にではあったが、少女の姿はなかった。
いかにも鷹揚に椅子にふんぞり返って、王子が旅人に問う。
「私には取材はせぬのか」
「いえ、お伺いできるのならどのような話でも……物語の種になりますゆえ」
「そうか、では聞かせてやろう。これから起こる事件についてをな」
「事件でございますか?」
「隣国の皇女との婚約の式は来月、船上にて行われる」
「ほう、それは優雅ですね」
「さよう、その優雅な式をみて、人魚の娘は己の恋が叶わぬことを知り、海へと帰る……というのはどうだ?」
「海へ帰る?」
旅人がぎょっと身をすくめたのは、娘が暗い海に放り出されるという、最悪の事態を想像したからだ。
「まさか……一国の王子ともあらせられる方が、そんな無体はなさらないですよね」
「どんな無体だ?」
「あの娘は人魚じゃない、人間です。海へ帰るなど……」
「そこをうまく物語に仕立てるのがそなたの仕事だよ」
「それは十分に心得ておりますが……」
ここに来て旅人を惑わすものが在るとしたら、それはたった1輪のバラの花だ。
少女が満面の笑みで差し出したそれを受け取るときに、ついうっかりととげに引っ掛けて心のどこかを傷つけてしまったらしい。体の底にじくじくと膿むような痛みを感じる。
「お願いでございます、物語はきっちりとお望みの通りにおつくりいたしますゆえ、なにとぞあの娘の命を奪うことだけはご容赦いただけぬでしょうか」
「それはできぬな」
「よろしければ私があの娘の身元をお引き受けいたします。もちろんどのような娘であるかは口外いたしませぬ」
「ならぬ。あの娘を生かしておくことはできぬ」
「なぜです、私はあの娘を連れて旅をするでしょう、二度とこの国へは近づきませんし、近寄らせもしません。けっして皇女との結婚の邪魔にはなりませんよう、配慮いたします」
「無理だ。あの娘の腹の中には私の子供がいる。生きていられては困るのだよ」
「子供が……」
「私の子供を産むための女などいくらでも代わりはいるが、隣国との交渉に有利になる女は他に代わりなどいない。どちらを優先させるべきか、わかるだろう?」
王子は勝ち誇ったように顎をあげて続ける。
「それに、『この国へ近寄らせもしない』と言ったが、それは無理だろう。何しろあの娘は……」
そのとき、ドアが開いて娘が寝室へと駆け込んできた。その腕には色とりどりのバラが幾輪も、娘の細い腕からあふれそうなほど抱えられている。
「花か、そんなものをどうするつもりだ?」
凍りそうなほど冷たい王子の言葉にも温かい太陽のような笑顔を返して、娘はバラを王子のほうへと差し出した。良くみれば細い腕には無数の引っかき傷がうっすらと血をにじませて浮かび上がっており、バラのとげで傷ついたことなど明白だ。それでも娘の笑顔には翳りのひとつもない。
「これはそういう娘だ。私が私の幸せのために自ら海に身を投げよと命じれば、きっとそれに応えるであろうよ」
王子の非常な言葉の意味がわからぬほどバカではないだろうに、娘はまるでバカのようにただ笑っていた。
だから旅人は知ってしまった。あのバラの一輪は王子に捧げる無数の愛の、ほんのひとかけらに過ぎなかったのだと。
それが悲しくて、旅人は奇声を上げた。そのまま王子の部屋を飛び出し、自分が与えられた客間へと飛び込んだ。羊皮紙を引き寄せ、ペンを持てば言葉は勝手にあふれる。
涙の代わりに文字を紙の上の叩きつけて……旅人は一心不乱に物語を書いた。
旅人はただ、娘の人生が美しくて幸せであることを願うしかできない。だからこそ不自由なく育った美しい人魚の姫なのだと、幸福なだけの過去をしたためた。
(あの王子は……)
無数のバラをもらいながら、そのとげの一本さえ、彼のどこかに傷を残すことなどないのだろう。ただ冷たく笑って、みずみずしい花びらをゴミであるかのように握りつぶす瞬間も、きっと凍り付いたように笑っていられることだろう。
たった一本のバラをもらっただけで、抜けないほど深い心の奥にとげを埋め込まれてしまった自分が愚かなのだ。旅人は自分の気持ちが取り返しのきかないほどに乱れきっているのを感じていた。
そんな逡巡などお構いなしに筆は進む。当たり前である、それは旅人が娘へ捧げる、この世で最も悲しい形でのラブレターなのだから。
(どうか、彼女の最期は安らかでありますように。あの美しい魂だけは王子の……いや、誰の手にもつかまることなく、大気に溶けるように……)
その物語を一気に書き上げた後、旅人は自分の思いのありったけをこめて羊皮紙に口付けを落とした。それっきり、飛び出すようにして城を出たのだから、この物語の結末を旅人は知らぬのである。
ただ、今でも旅路の途中で空を見上げて思う。
あの物語が語り継がれる限り、あの娘の魂は汚されることも、悲しむこともなく、この大気の中に存在しているのだと。
こんな天気の日には……特に。