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 バラの咲く庭園を並んで歩きながら、少女は終始笑顔であった。

 ただの笑顔ではない、野に咲く小さな花のように健康的な、楚々とした笑顔。それは妖艶な衣を幾重にも重ねて傲慢に咲き乱れるバラの中にあってさえ、埋もれることも隠されることもない生命の強さを感じさせて美しい。

(ああ、この子はきっと、幸せな育ちをした子に違いない)

 そう思った旅人は、何気ない気持ちでたずねる。

「君のお家は、大臣か豪商かい?」

 少女は両手を振って、それから地面を耕す仕草を見せる。

「ああ、農家なんだね」

 農家だってピンからキリまである。特に温かくて土の肥えた地域であれば、貴族のような暮らしができるほど裕福な家だってあるのだ。

「南の、アルシェかカバマあたりの出身かい?」

 少女は首を横に振って否定する。両腕を体に巻きつけて、身は大きく震わせて、何かを身振りで伝えようとしている。

「ああ、『寒い』と言いたいんだね。寒い地方……キムカヌ辺りかい?」

 少女はまたも首を振り、『寒い』のポーズを解こうとはしなかった。

「う~ん、もっと寒い地方かい、ムチクレとか、クーピュイ辺りかなあ。寒いけれど果樹園で有名な、豊かな土地だよね」

 少女は……さらに大きく首を振った。花のような笑顔がほんの一瞬だけ曇った。

「もっと北っていうと、ヤカムトゥ半島の出身かい? でも、あそこは……」

 そこは大地さえも凍る極寒の地――むしろ漁港として有名であり、男であれば誰もが漁に出て妻子を養う。

 畑を耕すのは女の仕事だが、それだって雪が降るまでの短い季節のこと。冬に向けての備蓄食になる芋だのウリだのをつくるのがせいぜいだ。

「あそこは、とても……」

 旅人は口から出しかけた言葉を飲み込んだ。少女の笑い顔がしおれてしまったかのように見えたからだ。

 確かに口元は薄く持ち上げて柔らかい弓の形を描いている。しかしそれこそがムリをしてのことなのではないだろうか。その証拠に眉間には薄い皺がよっているし、小鼻は泣くのをガマンしているみたいに小さく膨らんでいる。

 落ち着いて考えてみれば、かの地で農業を営むということ自体が、すでに過酷な生活の代名詞である。

冬の海へ船を漕ぎ出すような漁師の仕事は危険も多く、海に飲まれる者だっている。そうして不随になったり、死んだりした夫の代わりに家計を助けるべくして、女は土を耕すのだ。

 あまりの不憫に、旅人は目頭を押さえた。

「そうか、君は……」

 そうした家の娘が売られるというのは珍しい話ではなく、それを非道だと責めることさえできない。そうまでして糊口を凌がねばならぬような貧しい暮らしが、この世界には確かにあるのだ。

 王子を魅了するほどの美しい女だ、きっといい値段で売れたに違いない。人買いが娘の親にいくばくかの金貨を手渡す様子が、その枚数まで数えられるのではないかというほどにありありと目に浮かぶ。

 だからといって贅沢をするわけではない。その金貨が使われるのは幼い弟妹達の食べるものと最低限の衣服のため、あとはいざというときのたくわえに、暖炉の裏にでも隠されたのだろう。

――たったそれだけの物のために、この娘は『人魚』になった。

 それがたまらなく悲しいことのように思えて、旅人は言葉もなく立ち尽くす。少女はこれをひどく心配したらしく、ますます表情を曇らせて旅人の腕をさすった。

「大丈夫だ、そんなに心配しなくても大丈夫……ただ、ちょっとめまいがしただけだよ」

 賢いこの少女には、そんなウソなどお見通しだろう。だが、これが彼女に対する『同情』なのだと気取らせるのも忍びない。

 旅人は目頭から指を離し、にっこりと笑って見せる。

「ほらね、大丈夫だろう?」

 少女はそれにふわりと笑い返す。野の花でありながら庭園いっぱいに咲き誇るバラにも負けぬほど美しい、大輪咲きの笑みを。

 それからバラの一枝に手を伸ばし、一輪を手折る。

「おいおい、それをどうするんだい」

 それは静かに、旅人へと差し出された。美しい笑顔と共に。

 しかし旅人は、、その笑顔にバラのとげに刺されたような小さな傷を感じた。よくよく見なければ、また、この旅人のように鋭い洞察力がなければ気づかないであろう小さな傷。

「ああ、君は本当に優しい子だね」

 瞳の奥にだけ涙の色をたたえた美しい笑顔の頬を優しくなでてやりながら、旅人は自分の目頭から温かい滴が一筋、流れ落ちたことに気がついていた。

「そうか、いつもそうやって、誰かのために笑って生きてきたんだね、君は」

 そう、少女はいま、旅人を心配させまいと笑っているのだ。心は故郷を思ってわびしかろうに、それを隠してたおやかに笑っている。

 だから、それがなおさら悲しかった。きっとこの娘は、自分が金貨と引き換えにされる瞬間も、こうして笑っていたに違いない。

 とめどなく涙を流しながら、旅人はバラの花を受け取る。

「ありがとう……君のために最高の物語を作るよ、この世で最高の……何百年立っても色あせないような物語を」


 それが自分の捧げられる精一杯の愛なのだと……それさえもが旅人にとっては悲しいことであった。


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