07 アマランサス
誰もいない家。
誰もいない寝室。
宙に漂う塵芥が、窓から差し込む真夏日を浴びて、仄かな輝きを帯びていた。
本来の持ち主を失った伽藍洞の部屋。けれど今、そこに小さな人影があった。
おかっぱの黒髪をした、和装の少女だ。人形のように整った顔に痛苦のしわを刻んでいる。彼女は身の丈にまったく不釣り合いな大刀を、竹刀袋に入れて抱きかかえたまま、壁に寄りかかって座っていた。
「……まずいな」
独り言ち、固く閉ざしていた目を開いた。重石を持ち上げるような緩慢さで、彼女は自分の右手を持ち上げると、その手のひらを差し込む陽光に向けてかざした。
赤い血のような光が、手のひらを透って彼女の顔を照らした。かざした右手が、蜃気楼のように揺らぎ、崩れ、空気に溶け出してしまうように見えた。
幻視だ。
今は、まだ。けれど……。
「このままでは、もたぬ……」
辛苦と焦燥の滲む独言を洩らした。
そのとき、
「だから言ったじゃーん。あたしったら何度も忠告したよね? よねぇ?」
独り言のはずだった言葉に、どこからか返答があった。茶化すような、実に浮薄な印象の声であった。
少女は咄嗟に腰を浮かせ、抱えていた太刀を強く握った。その行動を嘲笑うように、声が響く。
「やめなって、夜叉姫ちゃん。その剣を使ったが最後、どうなるかは君が一番よく知ってるでしょ?」
「また貴様か、道化」
少女――夜叉姫の睨む先、開かれた部屋の扉の向こう側、廊下に揺蕩う薄闇から滲み出すように、声の主は現れた。
「道化じゃありませーん。あたしの名前はアマランサス。無論芸名ですが」
女子高生という記号そのものを形にしたような、オーソドックスなセーラー服姿。けれど彼女は、その顔に奇妙なマスクをかぶっていた。鳥のくちばしを模した赤いマスクだ。まるで中世ヨーロッパのペスト医師が被っていたそれのような。
仮面の少女は夜叉姫の座る寝室にずかずかと這入り込んで、舐めまわすような視線で――マスク越しなのにその視線を感じる――見つめてきた。
「やっぱり、もう融解しかかってるじゃん」
夜叉姫は陽光に照らされていた右手を、咄嗟に袖に引いて隠した。
「……貴様には関係のない話だ」
「だーかーらー、ここで君に消滅されるのは困るんだってぇ。折角のお遊びがつまんなくなるでしょ?」
「知ったことではない」
「もー、相変わらずつれないなぁ」
アマランサスと名乗った仮面の少女は、呆れたといったふうに大仰なしぐさで肩を竦めた。
「いい? 何度もいうけど、君はもともとこの世界の存在じゃないの。この世界にとって君は、泡沫の夢のようなもの。夢は、その夢を視る人がいない限り存在出来ないでしょ? だからさぁ、君がこの世界に留まるにはそれ相応の楔が――人間の夢巫子が必要なわけ」
「貴様に言われずとも理解している」
「だったらどうして、新しい夢巫子を探さないわけ?」
問いに対し、夜叉姫は視線で焼き尽くすが如く相手を睨みつけた。
「貴様には関係ない」
しかし。
「当ててあげる。ビビってるんでしょ? 前の主をみすみす犬死にさせたから。ふはっ、くだらねー!」
瞬間、激しい衝撃音とともに床が軋んだ。夜叉姫がやにわに腰を浮かせて、左足を踏み込んだためであった。彼女は踏み込みと同時、右手にしていた大太刀の切っ先を、袋に入れたまま跳ね上げた。アマランサスの咽喉を狙った。叩き潰すつもりだった。
「おっとアブナイ」
しかしその一撃は、相手の右手に軽々と受け止められてしまった。
夜叉姫の瞳には、今や烈火の怒りが燃え盛っていた。
「あたしを殺すなら、それこそ夢巫子を見つけないとね。今のあんたじゃあ、とてもとても」
「貴様は、いったいどこまで知っている!?」
「だから前にも言ったじゃん?」
突き出された太刀を振り払い、仮面の少女はくるりと回って、おどけた調子で一礼してみせた。
「あたしはアマランサス。悪夢の支配人にして、現実との仲介者。君たちのような魘にまつわることで、あたしの知らないことなどないのです」
夜叉姫は立ち上がり、今一度太刀を構えようとしたところで、ぐらりとよろけた。それ見たことかと、アマランサスが含み笑いを洩らした。
「つまらない意地張ってると、目的は遠のくばかりだよ、忠義の騎士さま?」
「……黙れッ!」
大喝するも、この状況では虚勢にしかなり得ない。アマランサスは呵々大笑し、闇の中に一歩二歩と退いていった。
「忠告してあげるよ」
薄暗闇にぼんやりと浮かぶ深紅の鳥面が、冷笑交じりにいった。
「件の魘は、きっとまたすぐに動くよ。これ以上、余計な犠牲者を出したくなければ、つまらないこだわりは捨てることだね」
不吉な予言を残して、仮面姿は闇に溶けて消えた。
「…………おのれ」
夜叉姫はしばしその場に立ち尽くし、アマランサスの消えた闇を睨みつけていた。