02 悪夢よりの使者
その出逢いは、必然であった。
禮泉崇史は誘われた。
彼女は地獄よりの使者だったのやも知れぬ。
空気が揺れたような、不思議な感覚があった。
見舞いが終わり、病院前のバス停のベンチで、帰りのバスを待っていたときのことだった。
「第五種接近遭遇、です」
それは少女の声であった。おどけを含む声音。それがいきなり耳元に囁かれて、崇史は文字通り飛び上がって驚いた。
「うわ! 何だ!?」
慌てて振り向いた先、自分のすぐ傍らに座っていたのは、セーラー服姿の少女であった。
「くふふふっ、やだなぁ、先輩ったら驚きすぎですよぉ」
唖然として硬直していると、少女はあっけらかんと笑いながら肩を小突いてきた。しかし驚いてしまうのも無理はない。何故なら、
「君は、いったいいつからそこに?」
このベンチに腰を下ろしたとき、そこには誰もいなかったはずなのだ。彼女がいつ、どこから現れたのかわからない。ここまで接近されて毫も気づかないなど、あり得るのか?
呆気にとられたままの崇史に対し、セーラー服の少女は満面の笑みを浮かべたまま、これ見よがしに小首を傾げ、答えた。
「はじめから」
「……はじめから?」
腑に落ちる答えではなかった。きょとんとしたまま硬直していると、少女は頬を膨らませて抗議してきた。
「もぉー先輩ったら鈍いんだから! 先輩が来る前から、あたしはここで、先輩のことを待ってたんですよぉー!」
「そ、それは……、その、失礼した。気が付かずに……」
「ほんとですよぉ! ほらほら謝ってください。このキュートでプリティな後輩ちゃんを無視してごめんなさいって、全身全霊で謝ってくださいぃー」
勢いと熱量に押し流されて、釈然としないまま、咄嗟に頭を下げてしまった。
「むむ……、すまなかった。申し訳ない」
――これは理不尽では?
「わかればよいのです。はー、満足した!」
言葉通り満足げな表情をして、胸を反らして腕組みする彼女だが、崇史には問わねばならないことがあった。
「ところで、根本的なことを訊いていいか?」
「何でしょー?」
「君は、いったいどこのどちらさまだい?」
「……はい?」
記憶の限り、崇史にこの少女との面識はない。初対面のはずだった。対して少女は、不思議そうにこちらを眺めるばかり。少しずつ不安になってきてしまう。
「どこかで会ったことがあったかな……? だとしたら申し訳ないのだが……」
声が尻すぼみになった。そんな崇史を見て、少女は何やら考え込む仕草を見せた。「ああ、そうか」だの「なるほど」だのとぶつぶつ呟いている。
と、突然彼女はパチンと指を鳴らして、唐突に断言した。
「安心してください。これがあたしどもにとってのファーストコンタクトですよ」
そして、ずい、と右手を差し出してくる。
「未散といいます。『未だ散らず』と書いて『未散』です」
ほとんど反射的に、その手を取った。
「禮泉崇史だ。漢字は……」
「大丈夫ですよ。知ってますんで」
「知ってる? どうして……」
そこまで言いかけて、愚問だと気づいた。
「君は、巻一の生徒か」
彼女の着ているセーラー服は、崇史が通う巻根第一高等学校の女子制服だった。
それに先程から彼女は、崇史のことを「先輩」と呼んでいたではないか。
「ザッツラーイ、ピッチピチの一年生ですよー」
同じ学校に通っているとなれば、学年は違うにせよ、名前を知られていたとしても然程不自然はない。
「巻一の一年が、ここにどんな用件で? 今日は日曜日だぞ?」
「それを言うなら先輩こそ」
「僕は友人の見舞いだ。見舞いは曜日に関係なく許されている。君はどうした? 風邪でも引いているのか?」
訊きながら未散の表情を見やる。見るからに健康的で、病気ということはなさそうだった。
彼女は肩を竦めて崇史の問いかけを否定した。
「風邪なんかじゃありません。まったく先輩ったら。あたし、さっき言ったじゃないですか。あたしは先輩を待ってたんです」
「僕を? 何故?」
心当たりがまるでない。当然だ。初対面なのだから。
すると未散は、ズイ、と腰を寄せて距離を詰めてきた。こちらを見つめる瞳に、妖しげな光が灯っている。
「禮泉先輩、あたしはあなたに、ちょっとした興味を抱いているのです」
「興味?」
「好意と言い換えても構いません。あたしはあなたのことを知りたいんです」
臆することなく言い放つ彼女の真意は、まるで窺えない。笑みの形に細められた目は、言葉と裏腹に、崇史の心に何ものも訴えかけてはいないように思われた。
困惑するしかない。
「僕と君は初対面のはずだよな?」
少女は微笑みを浮かべたまま首肯した。
「ええ、そうですよ、あなたにとっては。ですがあたしは、以前より先輩のことを意識してしまっていたのです。ああっ、なんて罪な人!」
未散はおどけて体をくねらせた。
「だからこそ、今日この運命の瞬間、話しかけずにはいられませんでした」
「からかっているのか?」
すると未散は憮然と頬を膨らませた。
「失敬な。あたしはいつだって本気も本気、チョー真剣ですよぉ」
そう言ってさらに距離を詰めてくる。
彼女の目は笑っていなかった。口元だけが、張り付いたような笑みを浮かべていた。
そんな不自然な表情が気にかかってしまったからだろうか、整った顔の少女に詰め寄られているというのに、崇史は今すぐこの場を立ち去りたいという焦りにも似た感情が芽生えた。背中には冷たい汗が滴った。その汗が、夏日の暑さの故なのか、それとも他の何らかの要因に因るものなのかは、崇史本人にも判然としない。
「だからあたしは、先輩のことをもっとよく知りたい。先輩の心の、奥深くに触れたい。そう念願しているんです」
未散はトドメとばかりに、崇史の手を包み込むように握った。
崇史は蛇に睨まれた蛙のように、微動だに出来なくなった。
すると少女はにんまり笑って、その手を上下に振り、放した。解放感が身を包む。
「ですが! 出会って早々、そこまでがっつく気はありません。まずはお友達からということで」
「はあ……まあ、構わんが」
何故だかどっと疲れてしまっていた。
「やったやったぁ! だったら早速お話をしましょう!」
「お話、ね。何を話したい? 趣味? 学問? それとももっと踏み込んで、異性の好みでも?」
「ああっ、それは実に魅力的です!」
嬉しそうに手を叩くも、しかし彼女は首を横に振った。
「ですが今は自重しましょう。あたしたちの時間は限られていますから。とりあえず今は、ひとつだけ聞かせてくださいな」
「……何かな」
「先輩には、願い事ってあります?」
軽い調子で問いかけられた。
「願い事?」
「どーしても叶えたい願いってヤツです。それを叶えるためなら、たとえ火の中水の中、どんな手を使ったって、何を犠牲にしたっていい、というぐらい、強烈なヤツです」
問われ、改めて考え込んでみる。
――ある……。
肯定の言葉が脳裏をよぎった。同時に思い起こされるのは、病院の一室だ。空と海……二種類の青色を背景にした、白無垢の部屋。そこに横たわる、虚ろな目をした少女。
――きっとまた二人で……。
ついさっき、病室で己が語りかけた言葉が、再び頭の中で反響していた。
「願い事……なら、ある。人並みにな」
だから正直に頷いた。とりたてて隠すことでもなかったからだ。
するとそのとき、何故か崇史は身震いをした。熱風の吹き付ける真夏日にあって、ひやりと冷たい風が足元を攫っていった気がした。
そこで何気なく未散の表情を覗き込んで、ぞっとした。
未散は凄絶な笑みを浮かべていた。しかし、一度まばたきしたのちには、その笑みは幻だったかのように消え去っていた。
未散は一言一言、噛んで含めるように確認してきた。
「そうですか……あるんですね? 願いが」
「あ、ああ……」
再び、蛇に睨まれたような……捕食される獲物になったような、不気味な悪寒が背筋を粟立たせた。
未散はおもねるように崇史の手に取りすがり、重ねて訊ねた。
「では先輩は、その願いのために、人を殺せますか?」
「…………何?」
不穏な問いかけだった。崇史の眉間にしわが寄る。
何か含むところがあって訊いているのか? それとも単なる冗談か、あくまで比喩?
「くふふっ、そんな怖い顔しないでください。ものの例えですよ。それぐらい強烈な願いなのか、という意味です」
意図せず険しい顔になっていた崇史の様子に気づいてか、未散が冗談めかすように声を上げて笑った。
「先輩には、他人を蹴落としてでも成し遂げたい、そんな欲求はあるのかなって。ホラ、先輩は人が好さそうだから」
「そんなものはない。願いといっても、ささやかなものだ。他人に犠牲を強いるなど御免だ」
いささか強めの口調で否定した。未散が首を傾げる。
「良心が咎めるからですか?」
「それも勿論だがな」
視線をぷいとそらして、遠く太平洋の彼方を見やる。
二つの青が溶け込む、朧な境界線。
詠子との日々を望む気持ちは、確かに大きな願いだ。けれど、それと他人を蹴落とすだとか、殺すだとかいう話は、比喩だとしても結びつかないように思われた。
「敢えて言うなら、これは僕ひとりがどうこうできる願いではないんだ。奮闘すべきなのは、あいつのほうなのだから……」
改めて未散の方に向き直り、崇史は率直な答えを返した。
「だから、そういう話であれば、僕に願いなどはない」
「…………嘘つき」
冷たい声が返ってきた。濡れたナイフのように、鋭く、冷ややかな声だった。
ぞっとして未散の顔を見る。ちょうどそのとき、太陽が厚い雲の向こうに消え、彼らの頭上にうっすらと影が差した。前髪の向こうに隠れた未散の瞳が、闇より出でる死神のように、崇史を見ていた
「いい子ぶらないでくださいよ、先輩」
「……何だって?」
また、彼女の唇だけが笑みの形をつくっている。冷たい夜の、三日月の形だ。
「あなたにはあるハズだ。もっと根源的な、存在意義そのもののような、身を焦がすほど強烈な欲求が」
崇史を見つめる瞳は、まるであらゆる澱みを貫き徹す遠眼鏡のよう。胸の内の、奥底に覆い隠していたものを暴き出そうとする、好奇の光が宿っていた。そしてその光の前には、あらゆる秘匿は破られる運命にあるのだ。
崇史は咄嗟に腰を浮かせた。けれど未散は逃がさない。彼の手を握り、問う。
「その肚の中に、怒りが猛っているんでしょ?」
怒り……。
胸の内に抱え込んでいたものの片鱗を、かすかに触れられたような気がして、猛烈な不快感がこみ上げる。何故ならそれは、自分意外の人間が知っていてはいけないはずの感情なのだ。
「お前が僕の何を知っている!?」
だから咄嗟に怒声が飛び出た。けれど未散は臆さない。
「知っていますよ、先輩。あたしはあなたのことを、あなた以上に、よぉく……ね?」
絡みつくような声が、崇史の胃の腑を締め上げた。
「……お前は……いったい……」
未散の笑みが深めく。そして彼女の顔にかかる影もより一層……。
そうして彼女が何らかのことを答えようとした、そのとき。
「おぉっと! 残念ながら先輩、そろそろお時間のようですよ」
唐突に、彼女はパチリと手を叩いた。
「時間?」
するとその直後、崇史の耳に車のエンジン音が届いてきた。そちらの方角を見ると、坂の下からバスが上ってきていた。
「お話は終わりですね、先輩」
「……ああ」
停留所に到着したバスは、音を立てて腹の自動ドアを開けた。目的のバスだった。
崇史が立ち上がって乗り込もうとすると、横合いから未散が手を振っていることに気づいた。
「ひとまずお別れですね」
「君は乗らないのか?」
「あたしは別のバスなんです。また会える日を心待ちにしていますね」
飄々といって、バス停のベンチから動こうとしない。はてこのバス停に、そう何本も違う路線のバスが停まるものだったかしらと、崇史は首を傾げたものの、そうかと頷いて入り口に足をかけた。その背中に、少女の声が投げかけられた。
「ああそうだ、先輩!」
振り向いた先で、少女は立ち上がり、謎めいた笑みとともにこんなことを言った。
「いずれしかるべき時がきたら、ちょっとしたお誘いをさせていただきます。そのときはどうか、前向きに考えてみてくださいね」
その声に答えようとしたとき、バスの扉が閉まった。
世界が揺れる感覚がした。立ち眩みだろうか、にわかによろめいて、そのまま近くの椅子に腰を下ろした。そうして改めて外のベンチを見たとき、いったいいつ見失ったのだろう、少女の姿はそこに影も形もありはしなかった。
崇史は困惑して左右を見渡した。
未散と名乗った少女はどこにもいない。
そうこうしているうちにバスは発車してしまった。未散と話したベンチははるか後方に置き去りにされ、やがて見えなくなった。
「僕は幽霊とでも話していたのか?」
肚の底に冷たい氷が落ちてくるような気がして、崇史はかぶりを振った。
「まさかね」