01 ふたつの青
《七月九日・日曜日・友引》
夏の盛り、燦々振り注ぐ陽光に打たれ、黒いアスファルトが蜃気楼を立ち昇らせていた。
冷房の効いたバスの車内から、一歩外へ踏み出した途端、湿った熱気に全身が浸る感覚があって、禮泉崇史は辟易として空を仰いだ。
「暑いな……」
背後でバスが再び走り出した。このバス停は小高い丘の上にある。バスは緩やかな下り坂にさしかかって、やがて見えなくなった。なだらかに下る車道の向こうには、一面の大海原が広がっている。塩分と湿気を含んだ海風が吹き上げられてきて、顔を撫でた。
はやく冷房の効いた屋内に退避しよう。崇史は早速歩き出した。
向かう先は、病院だ。
海の近くの、丘の上の病院。なだらかな上り坂を上がっていくと、白い楕円形の大きな建物が見えた。敷地の周囲は整備の行き届いた林だ。コンクリートジャングルよりは体感温度が下がって好い。
駐車場を横切り、自動ドアをくぐる。清潔で涼やかな空気が胸いっぱいに広がって、思わず深呼吸してしまった。
この病院は近年竣工したばかりの新築だ。広々としたロビーの外壁は一面のガラス張りで、陽光がたっぷりと中まで注ぎ、開放感がある。それでいて不快な熱波は完全に締め出されるのだから、ありがたい限りだ。
いつまでも突っ立っていったってしようがない。用件にかかろう。
崇史はつかつかと受付に向かった。
「こんにちは」
受付の看護婦に声をかけた。顔を上げた看護婦は、崇史の姿を認めるや、知己に会ったように柔らかく笑んだ。
「ああ、崇史くん、こんにちは。面会?」
「ええ、景永詠子に、お願いします」
万事承知と頷かれた。
この病院は日曜日でも患者との面会が可能だ。学校も部活も休みだからと、毎週ここに通っていたら、当直の看護婦のほとんどと顔見知りになってしまった。
「記帳だけお願いね」
差し出された帳簿に名前を書く。その間に看護婦が面会者用の来院証を用意してくれた。
「二十三号室です」
「どうも」
会釈をしてその場を離れた。ロビーを横切って上階への階段に向かう。
日曜ともあって、人影はまばらだ。入院患者らしき姿がちらほら、ロビーに設置された大型テレビを眺めている。テレビ画面からは地方局の情報番組が垂れ流しになっていた。神妙な顔をしたアナウンサーの前で、スーツ姿の男が大仰な手つきで何事かを語っている。テロップには「巻根市でまた・バラバラ遺体・同一犯の犯行か?」などと穏やかでない文字列が躍っていた。
巻根市とはこの街のことだ。思い返せば、先々週くらいに惨殺死体が発見されたとかで、けっこうな騒ぎになっていた。まったく物騒な世の中である。
ちらりと表示された犠牲者の顔写真に心の中で哀悼を捧げ、崇史はその場を後にした。テレビ番組のせいではないだろうが、階段をとぼとぼと上りながら、彼は若干ナーバスな心地になって物思いに沈んだ。
思うに世間には、若輩の自分如きが想像するよりも遥に多くの悲劇が潜んでいるらしい。それらの悲劇は、普段目の届かない死角や暗闇に潜んでいて、知らず知らずそこに近づく者を、待っていましたとばかりに捕食するのだ。それらの悲劇は、巻き込まれた者にとって必然――あるいは因果応報――といえる場合もあるにはあるが、まったくの理不尽であることのほうが多い。
禮泉崇史という青年は、理不尽が嫌いだった。二つ以上の事象と事象とが、因果関係によって結びつかぬことが、我慢ならなかった。それが悲劇であり、誰かの悪意に基づくものであればなおさらだ。この事件の被害者は、何条もって自身の生命を簒奪せられねばならなかったのか。死者が相手を憎めず、その運命を呪えないというのなら、彼らの怨嗟を肩代わりしてやりたいとすら思う。
けれど悲しいかな、一介の高校生たる崇史に世の理不尽をどうこうする力はないし、今は日々の生活で手一杯。ご立派なのは気概だけで、その憤りも所詮は今だけのものなのだろう。崇史の心中がにわかに荒んで、けれどそれだけのことにすぎないのだった。
そうこう思案している間に、目的の病室の前に辿り着いた。
二十三号室。ネームプレートには「景永詠子」と記されている。
崇史は大きく深呼吸して、気持ちを切り替えようと腐心した。
この扉の前に立つと、未だに崇史の心は不穏に波打つ。どうしても慣れないのだ。この扉を開け放ち、その向こうに秘せられた光景を目にすることが。
やはりこれも、ひとつの理不尽だからであろう。
――そうだ、この扉の向こうには、理不尽があるんだ。
細く長く、息を吐きだした。
扉をノックする。
「詠子、崇史だ。這入るよ」
半端に躊躇するほうが精神に悪い。崇史は思い切りよく扉を開けた。
海原が見えた。大きな窓の向こうに広がる太平洋。外で見たそれよりも、ほんの少し小さな、窓枠で区切られた海。部屋の中には、空と水面の色の境目に、白いベッドが横たわっていた。ちょうど二種の青色を隔てるように。
そしてベッドの上には、見慣れた姿の――見慣れたくもない――少女が座っているのだった。
「海を見ているのか?」
入口のほうに後頭が向けられていた。髪が伸びたな、と思った。そしてそのシルエットは痩せたように見えた。毎週会っているはずなのに、しかし毎週そう思っている。薄水色の病衣が――病人というイメージが――そんな印象を助長させているのかもしれない。
「素敵な天気だよな。でも一歩外に出たら地獄だぞ? ここで眺めているからいいんだ」
少女の後頭に声を投げつつ、病室に這入っていった。
「あと、土産のチョコレート。いつも通り、甘々のヤツだ。ここに置いておくぞ」
返事はない。海を見つめるその姿は、微動だにもしない。ほとんど独り言だ。
理不尽だ、と思った。
理不尽は嫌いだ。
「先週ようやく期末テストが終わったんだ。明日からテスト返しさ。今回は結構自信があるんだぜ」
構わず話し続けながら、崇史はゆっくりとベッドの前を通り、彼女の正面に回り込んでいった。そうして恐る恐る、はじめは横目で、自らをじらすようにじりじりと、少女の表情を覗き込んでいった。
そして崇史は、咄嗟に「死んでいる」と思った。
彼女の瞳の、あまりに空虚な、正体もない有様ゆえに。
空を漂う視線はどこにも焦点を結ぶことなく、沼地の澱みよりもなお暗々として、底なしの闇を匂わせる。その瞳の内のいずこにも、およそ意思らしきものは片鱗さえも窺えない。ただ茫漠として、とらえどころのない瞳だ。
一定の間隔で機械的に行われる瞬きが、かろうじて彼女の肉体が正常に稼働していることを示している。しかしその動作はむしろ、彼女が感情のないロボットめいた存在であるように錯覚させて気味が悪い。不気味の谷だ。彼女は生身の人間のはずなのに。
崇史は大きなため息を漏らしそうになって、慌てて口を塞いだ。「ため息は嫌いよ、なんだか気が抜けてしまうわ」と、かつて耳にした、そんな言葉が脳裏をよぎった。この少女に軽蔑されるようなことはしたくない。
「君はこの一週間、元気でいたか?」
声を張って、彼女の目を見て、問いかけた。返事はない。彼女の視線は崇史を素通りしていた。
端的にいって、景永詠子は廃人である。自分の生活のことすらままならない、心の死んだ廃人である。
今の彼女は、植物のように生きている。心臓を動かし、血をめぐらし、息を吸って、吐いて……けれど、それだけの日々。
詠子のそれは、本当に生きているといえるのだろうか? そんなことを考え始めると、崇史の心にはいつも、黒い感情がぐらぐらと湧いてくる。こんなことならいっそ……、いっそ…………、と。だがその先の言葉を思い浮かべる直前に、我に返るのだ。
彼女の担当医は崇史によくこう言い聞かせる。
「大事な人の声は、必ず患者の心に届いている」
「だから諦めないでほしい」
「人の言葉、人の願いは、医者のメスよりもずっと、患者の深くに切り込めるものだから」と。
崇史はその言葉にすがっている。毎週のようにこの病院を訪うのもそのためだ。自分がもしも、詠子のことを諦めてしまったら、彼女を想う人間はこの世からいなくなってしてしまう。
崇史は詠子の手を取った。人形のように固くこわばっていた。
「もう少し涼しくなったら、きっとまた二人で、外に出て遊ぼう」
――昔のように……。
崇史は我知らず、肩を落としていた。
景永詠子が廃人化した原因は何か、それは未だにわからない。詠子の肉体は完全に健康で、担当医に言わせれば「精神的な問題、としかいいようがない」のだとか。
ではその「精神的な問題」は如何にして生じたのか。これには思い当たる節がある。
今年の一月、詠子の実父、ならびに養母の二名が蒸発した。原因は不明。行方をくらました二人は現在も見つかっていない。
その日以来、高校生の詠子は学校を休みがちになっていた。しかもそれだけではなく、深夜の街を徘徊したり、何もない空に向かって独り言を繰り返したりなど、奇行が繰り返されていたという。そして今年の五月に入り、どういうわけか詠子本人までもが、実父と養母の二人を追うように失踪した。
行方をくらませた詠子が発見されたのは、五月の末のことだった。彼女は市内の川の畔に倒れていた。そしてその時以来、もう一か月以上、景永詠子の状態はこの通りなのであった。
「さて、そろそろ行くよ」
たっぷり一時間は、彼女の手を取り、目を見て話しかけ続け、崇史は漸う立ち上がった。その間もずっと、詠子の視線が彼を捉えることはなかった。
肉体は生きている。
けれど彼女の精神は……。
崇史はかぶりを振って、詠子のほうに振り向き言った。
「来週、また来るから」
崇史は病室を出た。
詠子の虚ろな視線が、黒々とした孔のような瞳が、脳裏から離れない。
崇史は幼いころから詠子という少女を知っている。いわば幼馴染だ。
彼女は強い少女だった。体だけでなくその心根が、竹のように力強くしなやかだった。それがどうして、こんなことになったのか。崇史にそれを知る余地はない。
ただ無力感だけが、彼の心を苛むのだ。