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夢想天鬼録  作者: 山本謙星
プロローグ
1/12

終末の空で

       《五月二十七日・土曜日・赤口》


 空が赤い。燃えているのだ。赤黒い、血のような炎を上げて。


 燃えているのは空ばかりではない。今や目に見えるすべてが、グロテスクな色の熱を噴き上げて、轟々と猛っていた。コンクリの地面も、レンガの壁も、暗いガラスも、民家もビルも鉄塔も、文明的な何もかもが。


 終末――そう形容すべき情景であった。


 そんな炎熱地獄の只中に、人影がある。宙にふわりと浮いている。

 ほかに人の気配はない。宙に浮遊するその者だけが、人の形をしていた。


「ようやく、ようやく、成し遂げた」


 震える声で独り言つは、女の声音。どうも女性であるらしい。しかもその声には、まだまだ青々とした幼さが匂う。少女と呼ぶべきやも知れぬ。

 けれど彼女の風体は異様だった。頭のてっぺんからつま先まで、夜色の甲冑で覆われている。般若の面が顔を隠し、背中からは漆黒の翼を生やしている。黒翼を翻して滞空するその姿は、まるで天上のつわものか。


 甲冑の少女は、燃える空をじっと見上げていた。

 そのとき、風が唸った。

 黒のインクで塗りつぶしたような厚い雲を貫いて、巨大な何かが降ってきた。

 樹だった。大きな、あまりにも大きな樹だった。東京タワーもかくやという大樹が、赤々と炎を宿しながら、天を一直線に貫いて墜落した。

 衝撃と爆風が嵐となった。民家ほどに大きな木片が四方八方に飛び散り、下敷きになった建物の群れが、粉塵と化して散じた。狂奔するショックウェーブが甲冑の少女を叩いたけれど、彼女は微動だにしなかった。


「……終わったわ」


 その呟きには万感の思いがこもっていた。般若面の下は熱い涙に濡れていた。

 この終末の景色こそ、彼女が求めてやまなかったものであるがゆえに。

 けれど。


『否、まだぞ!』


 少女の脳裏に、警告の叫びが響いた。別の女の声であった。


「どういうこと?」


『あの死にぞこないめが、生存の危機とあってみっともなく子種を撒くつもりでおるらしい』


「こ、子だ……?」


『分身を残そうとしているのだ。ここで逃がしては、今までの努力が水の泡ぞ。止めねばならん。行くぞ、我が主!』


「わ、わかったわ!」


 少女は翼を羽ばたかせ、猛然と嵐の中に突っ込んでいく。目指すは終末世界の中心点。堕ちた大樹の骸のもとへ。

 けれどそのとき突如として、彼女の前にもうひとつの人影が現れ、立ちふさがった。


「何者!?」


 もうもうと煙る大気の向こうに浮遊する人影。それは少女の進路を遮るように浮いている。彼女のそれとは対照的な純白の翼。同色の体毛で覆われた躰。雪華のような羽根を散らして舞う姿は天使のようだ。

 けれどその者の全身からは、天使とは程遠い、刺すような殺気が迸っている。


「そこをどきなさい!」


 警告するも、対する人影はむしろ敵意を剥き出しにした。

 人影(性別不詳だが、仮に「彼」としよう)の右手が、ゆらりと持ち上がった。しなやかな白い指先……その先にある空間が、ぐにゃり、と歪んだ。景色そのものが熱でとろけたように、ねじれてしまう。蜃気楼じみたゆらぎの向こうに、彼は右手を突っ込んで、勢いよく引き出した。

 その手には一振りの、肉厚な長剣が握られていた。

 彼は手の内で剣をくるくると弄び、そして少女に向けて突き付けてきた。


「やる気ってわけね……」


 肚を決めねばならないようだ。邪魔者は切って捨てる。こちらには為すべきことがあるのだから。


「オオオオオオオオオ!!!!」


 絶叫が轟いた。純白の乱入者の咆哮である。彼は手にした凶刃を翻し、翼を羽ばたかせて猛然と飛びかかってきた。


「来るなら……ッ!」


 少女は咄嗟に、背中に括り付けてある大太刀の柄に手を添えた。途端に、彼女の脳裏に警告の声が鳴り響いた。


『主さま! これ以上〈魄喰刀ハクジキトウ〉を使うのはまかりならぬ。主さまのほうが先に喰われてしまうぞ!』


 手が止まった。般若面の下にある彼女の顔が、口惜しさで鬼の形相になる。


「ままならないわね」


 迫りくる白影。剥き出しの敵意を前に、少女もまた牙を剥いた。


「打ち合うしかないか!」


 大太刀に伸ばしていた手を、今度は腰に差している打刀にもっていった。このとき、飛来する敵手、左前方七十度、距離二十メートルに在り。袈裟掛けに打ち下ろすように斬りかかってくる。

 対する少女は柄本に右手を添えたまま、翼を畳んでさらに速度を増した。居合の構えである。彼女は猪突もかくやの豪速にて相対し、刹那ののちに激突する。

 漂う熱波を切り裂いて、猛然と落ち来たる肉厚の刃。けれどその一撃は甲冑の少女を捉えること能わず。何故なら少女は、加速に加速を重ね、すでに敵手の内懐――刃圏の内側に飛び込んでいたのだから。


「ふっ!」


 熱い呼気とともに右肩から相手の胸元に突入した。空振りした長剣の刃が、彼女の左肘をかすめる。少女はそのまま速度を上げ、純白の彼とすれ違うように、左側面へ抜けようとし――同時に刀を抜き放っていた。


 一瞬。


 一閃。


 漆塗りの鞘から、白々とした刀身がにわかに顔を出した直後、その刃はがら空きになった敵の右脇下に当てられていた。

 そして少女は、刃を引くようにしながら、そのまま前方へ翔け抜けた。


――った。


 刃の走ったあとから、ホースに穴を開けたように、赤々とした血が勢いよく噴射した。脇下に走る腋窩動脈えきかどうみゃくを切傷したためである。有翼の人外といえども、人体の急所は同じだったらしい。


「オオオオアアアア!!!」


 苦痛を滲ませる、嗚咽にも似た叫びが背後から轟いた。しかし少女は振り返らなかった。

 本来であれば、ここでトドメの一撃を馳走して、確実に脅威を排除してしかるべきところだ。何故なら、少女たちの戦うこの「異界」において、そこに住まう者たちの生命力はあまりに侮りがたいものがあるのだから。しかし今は、時間が惜しい。少女は先の一打ですでに敵手を沈黙せしめたものと判断し、さらに速度を上げて大樹のもとへ急いだ。


 ……結果的に、その判断が仇となってしまったのだ。


『主さま! 後ろだ、敵がまだ!』


 数秒ののち、切迫した警告の声に殴りつけられ、少女は咄嗟に振り向いた。

 けれどすべては手遅れだった。


「まずッ……」


 白い光が目を焼いた。

 それはいわばレーザー光線であった。しかも極太の、フィクション世界でしかまずお目にかかれないような、収束した光の束。莫大な熱量を伴うそれが、背後から少女の右手と右の黒翼を直撃した。

 それは不気味な感覚だった。肌の内側、骨の髄の奥の奥がゴボゴボと泡立って、中の血肉が溶け出すような。痛みさえない一瞬ののち、彼女の右手と翼は、跡形もなく消し飛んでいた。


「えっ……あれ…………?」


 そんな状態で飛行を継続できるはずがない。少女は空中でバランスを崩し、きりもみしながら落下する。

 衝撃のせいか、ふっと浮き上がるように、意識が体から遊離する感覚があった。


『そんな、主さま! お気を強く持たれよ! 敵が、敵がまだ!』


 頭の中で絶望に満ち満ちた声がこだました。

 そしてその言葉の通り、すでに切り捨てたと思ったあの白い人影は、憤怒の形に表情を歪めてむしろ勢いづき、獣じみた動きで落下する少女を追いかけてきた。

 敵は少女に追いつくや、両足と無事な方の手を使って彼女にしがみついた。大口を開けて唸る敵の顔が、すぐ間近に見える。

 敵の顔は怪物そのものだった。純白の体毛に埋もれた体と違って、皮膚の露出した顔だけは黒々としていた。その歪んだ顔は、人のものではない。嫉妬、憎悪、憤怒、あらゆる悪感情を塗り固めた鬼のかんばせだ。


 朦朧とした意識のまま、少女は自分でもそう意図しないうちに、向かい合ったそのどす黒いおもてに対して、誰何していた。


「お前は、誰…………?」


 答えを期待した問いではなかった。

 なかったのに……。


「…………え?」


 霧が晴れるように、一瞬、鬼面の皮の下……ソレの本質が視えた。

 その瞬間、少女の戦意を支えていた最後の柱が、真っ二つに砕けた。


『危ない! 主さま!』


 両足で蟹バサミのように取りついてきた怪物は、長剣を左手に持ち替えて振りかぶった。

 振り上げた刃が、まばゆい白の光を放っている。まるで眼前に太陽が出現したような光量と熱に、肌がじりじりと焦がされる。

 今一度あの怪光線を放つつもりなのだろう。

 少女の体は未だ満足に言うことを聞かない。体を動かすエネルギーそのものが、傷口からだくだくと零れ、失われているのだ。


 ここで少女は直感した。


――あ……。


――私、死ぬんだ…………。


 直後、輝ける刃の軌跡が、頭上からまっすぐに少女の体に落ちてきた。


 駆け抜ける走馬燈。凝縮した刹那に、己の人生を追想する経験を味わわされるのは、これでいったい幾度目だろう。思えば、この数か月は、戦いにつぐ戦いの日々だった。己を取り巻くすべてが変わった、あの冬の日から……。

 戦って……、戦って……、戦い続けてきた。


 けれどそれは、つらいだけの日々では決してなかった。何故ならば、苦しみや、痛みや、喜びを共有する仲間がいたから。

 死に瀕した今となって、少女の思考を埋め尽くしたものは、燃えるような使命感だった。


――この仲間を、


――かけがえのない「彼女」を、守らなければ。


 そう思ったとき、少女の肚が決まった。


『な、主さま、何を!?』


 魂魄が反転する。少女の体が光に包まれた。

 直後、これまで彼女の体を包んでいた甲冑が、光の粒子になって解けた。今や彼女の体を護るものは、ボロボロにすり切れたセーラー服のみ。


 そして同時に、対敵の刃が奔った。そして閃光。長剣の刺突が怪光線となって、少女の鳩尾を貫いた。

 少女の腹に、こぶし大の大穴が開いた。離れた場所で、魂を削られるような絶叫が聞こえた気がした。

 純白の怪物が少女を解放した。彼女にはすでに飛翔する力などない。木から剥がれ落ちたさなぎのように、地にむかって墜落するのみ。


――これでいい、私たちの戦いは、こんなところで終わってはいけないんだ。


 諦念と満足とをないまぜにした笑みが、少女の顔に広がった。

 紅の雫が、空に向かって落ちていく。漆黒の天、底なしの沼のような空へと。少なくとも彼女にはそう見えた。あれは誰の血だ? もはやわからなかった。


 堕ちる。


 風音が耳元で轟々と鳴った。今更のように、重力の鎖が体を引いているのを感じた。

 敵影が遠ざかる。

 そのとき、落下する体にしがみつく、もうひとつの体温を感じた。


「主さま、主さま! どうして、ああ、そんな! 私を、私ごときを庇われるなんて!!」


 悲痛な叫びは猛り狂う熱風に呑まれてしまう。いつの間にか、落下する人影は二人になっていた。

 一人はセーラー服の少女。血の軌跡を宙に残しながら落ちる。

 もう一人は、いつからそこにいたのだろう、おかっぱの髪をした和装の少女だった。無傷の彼女は、血の代わりに涙の粒を空に撒きながら、付き従うように落ちていく。

 和装の少女は何事かを叫び続けているけれども、セーラー服の彼女は、もはやその呼びかけに応えることはできそうになかった。

 終末の空を堕ちていく。今や地面が近い。


「主さま……ッ!」


 和装の少女は、ぐんぐんと近づいてくる荒廃の大地を見やり、一たび涙を拭うや、「主」の体をひしと抱き寄せた。直後その背中から、大きな黒色の翼が生え、広がった。


「ぬぐ、ぐ」


 速度が落ちる。けれど止まりはせぬ。和装の少女は自分の体が下に、「主」の体が上になるように体勢を変えると、翼を楯のように広げて落下した。

 二人の躰は、瓦礫の街に墜落した。炭化した材木を貫いて、粉塵を巻き上げながら転がっていく。落下のエネルギーがあまさず散って、ぼろ雑巾のような体が止まったとき、二人は空を見上げる体勢になっていた。


 少女の傷は、即死でないことがあり得ないという次元のものだった。右手は根元より断ち切られ、腹部には風穴が開いている。どちらも傷口がほぼ炭化し、怪我の程度のわりに出血が少ないことが、彼女の延命に寄与したのだろうか? しかしいずれにせよ、彼女の生命はすでにもう限界が見えていた。

 そして、そんな自身の運命は、彼女自身が誰よりもはっきりと自覚していた。

――自分の戦いは、ここで終わりなのだと。


 そのとき、ぼんやりと曇った視界の先に、小さな光が点々と輝いたのが見えた。光の数は七つ。大樹の骸から飛び出して、燃える空に浮き上がったと思うと、瞬く間に四方八方へと飛び去っていった。


 あれが多分、あの大樹の子どもたち。


――〈梵天樹〉の種子。


「間に合わなかったんだ……」


 瓦礫の街。墜落した少女は指一本動かせぬまま、血の色の空を見上げていた。


「主さま! 主さま!」


 呼ぶ声が聞こえた。泣きそうな声。これまで一緒に戦ってくれた相棒の声だ。自分を支えて、守ってくれた親友の声だ。

 座敷童にも似た和装の少女が、おかっぱの髪を振り乱し、滂沱の涙を溢れさせながら、懸命に少女の肩を揺すって語り掛けてきた。


「主さま、どうかもう一度着甲を……このままでは、異界のに呑まれてしまいます!」


「…………もう、手遅れ、だわ」


 吐息よりも微かな声で答えた。

 見ると少女の肌とセーラー服の表面に、結露が滲むように、おぼろな光の粒が寄り集まってきていた。光の粒は、まるで蟻の群れが蝶の死骸を食い散らかすように、少女の体内へ穿孔していこうとする。

 その様を見て、和装の少女はより一層取り乱し、顔をくしゃくしゃにした。


「どうして、こんなことを……。私なぞを庇って…………!」


夜叉姫やしゃひめ……」


 泣き腫らす彼女の、白々と輝く頬に、血塗れた細い手が触れた。


「主……さま?」


 夜叉姫と呼ばれた和装の少女は、呆然と「主」の顔を見た。「主」の瞳は今や虚ろで、確かな焦点を結んではいなかった。


「〈魄喰刀ハクジキトウ〉を……、あいつが来る前に、早く…………」


 魂ごと搾り尽くすように、震える唇が言葉を紡いだ。夜叉姫が慌てて周囲を見やると、今まで少女が背負っていた大太刀だけが、甲冑のように霧消せず、傍らに転がっていた。


「ここに、ここに御座います」


「よかった……、それがあれば、あなたはまだ戦える……」


「…………な、何を他人事のように。お立ちあれ、我が主。撤退し、再起を図るのです。我々ならば、何度だって戦える! 如何なる敵であろうと、如何なる困難とであろうと! だから、さあ、どうか、どうか……」


 懇願するようにこうべを垂れる夜叉姫。その姿が見えているのか、いないのか、少女は疲弊の滲む笑顔をゆるゆると形作り、長く息を吐きだした。


「私は、もう……無理よ…………」


「何を! 何を仰るか!!」


 激しく首を横に振った。夜叉姫にとって、受け入れられるはずもない話だった。守るべき相手が、あろうことか自分の犠牲になって斃れるなど。


「お願いします、主よ。私は、私は貴女を失いたくない」


 けれど少女は微笑とともに、穏やかにこう言うのだ。


「私が生き残っても……使命は、果たせない。だから、あなたが」


 少女の手が、夜叉姫の手に重なった。


「生き残って…………どうか、私たちの…………無念を…………………」


 血にまみれた少女の手が、固い地面の上に落ちた。


 やがて彼女の胸のあたりから、仄かな光が滲みだし、浮き上がった。これまで彼女の体に張り付いていた無数の光点が、光に集る蛾のようにして、その光の後を追って次々と飛び立ち、やがてともどもに黒色の空へと吸い込まれて消えていった。


 ひとりの少女の物語が、終わりを迎えた証左であった。


 残されたものは、横たわる、冷たい人の形のみ。乾燥した、もう動かない細い指を握って、夜叉姫と呼ばれた少女は、しばし呆然と固まって、やがて涙に濡れた顔を伏せた。


「お任せあれ。いつか、いつか……、たとえ、幾年いくとせ時が廻ろうと、必ずや、貴女さまの悔恨をそそごう」


 呟いた決意が胸に満ちた。ぽっかりと空いた空洞に、新たな火が宿るのを感じた。

 そして彼女は顔を上げた。視線の先、はるか上空にぽつねんと白い影があった。愛する「主」を奪い去った、憎き敵影。超然として空を漂う仇敵の姿。


――今は、逃げねばならぬ。


――けれど、いずれ、いずれ……。


 熱風と火の粉に舐られながら、夜叉姫は歯を剝きだし、決然と意を固めた。


「待っていろ……、私は必ず、この悪夢を踏破してみせる」


          〇


 こうして、ひとつの少女の夢が終わった。


 …………新たなる悪夢の遊戯場へ、ようこそ。


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