本音
帰れないと思っても、帰りたいという気持ちが無くなる訳ではなかった。
「だって帰りたいもんね」
わかるよ、とかなえは言った。
生まれ育った場所を簡単に捨てられるほど、少女たちが生きてきた年月は長くも短くもない。
帰りたい。
その気持ちがある以上は、だから好きになっちゃいけないと思うし、好きになってはいけない理由なんて、あとは彼の身分という立場を考えれば十分すぎる程だった。
偶像ではなく、正真正銘の王子様に、恋なんて。
だけどあの時、帰れないのだと実感したその途端、目の前の人が本当に現実の生身の男性だと思い知らされて。
のぞみは目元を両手で覆ったまま、頷いてこぼす。
「優しい顔で、優しくしないでほしい」
「本当は、お菓子も果物も太るからたくさんはやめてほしいし、美味しいから全部食べちゃうし、
お花だってきれいだなとは思うけど詳しくもないし大好きってわけじゃないし、枯れるとさみしいし、侍女のネネさんが管理大変そうだし!」
堰を切ったようにやけになって吐き出すのぞみに、かなえは同情の込もった声で返す。
「まあ、落ちるなっていう方が無理だよね」
端から負け戦だった。
それでも気取られぬように必死で押し殺そうとした。
自分のちっぽけなプライドを守るため。迷惑な小娘と見限られぬように。
もしも落ちてしまった自分を、その相手に否定されてしまったら、どうすればいいかわからない。そんな痛みに耐えられるとは思えないし耐えたくもない。
傷つかぬよう身を守る方がずっといい。
それなのに。
朝食を一緒にとるエリウスはこちらがどんなに目を合わせようとせず、言葉少なに返事をしても、気まずげにするでもなく微笑んでいて。
特に言葉にした覚えはないのに、好きだと思ったお菓子は度々届けられた。
贈られるドレスも、全て受け取った中からのぞみがシンプルなものばかりを選んでいれば、シンプルで品の良いデザインのものだけに変わっていった。
ずっと、気にかけてくれていて、優しくされていた。
嬉しくて、上手く受け取れない自分が、苦しかった。
「私もさあ、帰りたいとは思うんだけど」
かなえがぽつりと呟く。
「皇子の――アレックスの望みを叶えるために私が呼ばれたのに、何もしないで帰るっていうのも、すっきりしなくてさ」
この場所に、呼ばれたその意味を果たしていない。
勝手に呼ばれたのだとしても、やるべき事をせずに帰るのは嫌だった。
だから私たち、帰る前に。
「言っちゃいなよ、王子様にさ、本音。私は私でアレックスの本音を引きずり出してくるから」
自己満足でもさ。
そう言ってかなえは男前に笑った。
「かなえちゃんかっこいいね」
「可愛いって言ってよー」
「可愛いくてかっこいいー」
「こいつめー」
少女たちはきゃっきゃうふふとじゃれあってその夜を過ごした。
***
女子が楽しく戯れている頃、皇子と王太子は酒を酌み交わしていた。
「なぜ、帰してやるなら寵姫に?」
杯に口をつけながら直截にアレックスが訊く。
「あの子を安心させたかったんだよ。結果がどうであれ、心配する必要はないと」
エリウスも杯を傾けながら答える。従者を下がらせた部屋で、二人は既に数杯を空けていた。
「だとしても、そう言ってやれば済むことだ」
「あの子は遠慮しがちだからね。態度で示してしまった方が素直に受け取る」
「…異界の娘はどうも妙なところで頑固らしいな」
このひと月、手を焼かされた少女を思い浮かべてアレックスは眉根を寄せる。
はじめは大人しいかと思えば、何かしら吹っ切ったらしいあとはこの国の身分など知ったことではないというように気ままに振る舞い、率直な物言いをした。
「そちらも色々あったようだね」
面白そうに他人事をエリウスは笑う。
「…いなくなれば退屈にはなるかもしれないな」
手酌で杯を満たし、葡萄酒の水面を眺めながらアレックスが独り言ちるように言うと
「そうだろうね」
エリウスも自分の空にした杯を見つめて静かに返した。
あるいは得難いものを自ら手放し、失うのかもしれなかった。
それでも彼女たちを帰してやらねばならない。
彼らにはそれが責任だからだ。
そうして立場ある二人の若者は、これまで幾度もそうしてきたように、酒と共に胸の内で詰まる感情を飲み下して腹に収めた。
互いの苦味を分かち合えることが、これまでと違う救いでもあった。