軋み
最後に小さく頷いた、それだけがたった一つ残された約束だった。
月明かりに外へ出ては、彼女の姿を探した。ふと飾られた珍しい花に気づいて、彼女にも見せようと思った。
目が覚めて、朝食をとるために彼女の部屋へ足を向けようとした。
今どうしているのか、元いた場所で知らない誰かと笑っているのか。自分以外の誰かの前なら、遠慮も緊張もないありのままの笑顔で笑うことができるのだろうか。
もう月を見上げはしないのだろうか。見上げていてほしいと思う。既に夜は冷えるから、風邪を引かないといい。
顔が見たい、と思った。好きだともう一度言ってほしかった。
彼女の居た部屋で、その痕跡を探した。彼女の残したものなんて、こびりついた記憶と、ささやかで不確かな約束以外、何もなかった。
この世界のどこにも彼女はいなかった。
不確かな約束を確かなものにしたくて、証を作った。
隔たれた距離はたやすく心まで引き離す。自分だけを置き去りにして。たとえ世界が異なっていなかったとしても、人が会えなくなるのは簡単すぎるほど簡単だ。
会いたいなら会えるように行動すればいいだけだと笑ってみせた少女に背を押されて、もう一度訪れてくれることを指輪に願掛けた。
友人になった皇子から再召喚の日取りを伝えられて、必死に執務の日程を調整した。
多少、浮かれていたのは否めない。
目の前にいることが、手を伸ばせば触れられることが、こんなにも嬉しい。
存在を確かめたくて必要以上に距離を詰めると、照れて固くなるのが可愛い。不器用すぎるこの子が自分に向ける好意が堪らなく愛おしい。安心と幸福が胸を満たす。いくらでも優しくして甘やかしたかった。
本当なら、もう会えなくなるはずだったのに。そう思ってみても、希求は強くなるばかりで。
どうか側にいて。笑ってみせて。
焦がれるように約束が欲しいと乞われて、途方に暮れる。
どうしてそんな事言うの。私なんかに。
エリウスにそんな事を言ってもらえるような人間じゃない。かなえみたいな強さも持ってない。優しくされただけで立場も弁えないで、ころっと好きになってしまうような、取るに足らない平凡でしかないただの子どもだ。今この時でさえ、夢みたいな心地でのぼせ上がっている、愚かな子どもだ。痛いぐらいに自覚している。
「…二ヶ月間、待っている間、君にまた会える方法を考えていたんだ。」
手を握ったまま、エリウスが言葉を零す。
「人の繋がりは、簡単に途切れてしまうから、途切れさせないために努力と言葉が必要で…私は、のぞみとの繋がりをもう、諦めたくないんだ」
胸が潰れそうだった。奥歯をくいしばる。手が震えてしまっているのがきっとエリウスにも伝わっている。
なんて勿体ない言葉だろう。
「私は、のぞみ」
だめ、言わないで。
言葉を遮るように手を振りほどく。
最低だ。なんて卑怯なんだろう。自分は言いたいだけ言って押しつけたくせに。あまつさえそのまま逃げようとしたくせに。こんな私のことなんてどうか早く見限ってしまって。
あなたに相応しくない、こんな私は。
「のぞみ、」
伸ばされた手を避ける。
エリウスの動きが固まる。
それははじめての、そして明確な拒絶だった。
くだらない事を言ってるってわかってる。
本当は好きなひとに求められて死んでしまいそうなくらい嬉しい。
だけど、それを受け入れるのが怖くて仕方ない。信じることが出来ない。夢を見ているとしか思えない。これは夢だ。夢は必ず醒めるから。だからこれ以上は。
自信なんかない。自分は絶対に釣り合わない。いつか後悔する日が来る。
彼が後悔したその時に、きっと私は耐えられない。
「ごめん、ごめんなさいエリウス、ごめんなさい」
貴方を傷つけて。
そんな資格、私にはないのに。
どこまでも弱くて卑屈で臆病で、自分可愛さに怖じ気づいた馬鹿な子ども。
それが私だ。




