儀式の間
一度部屋に戻って着替えた後、のぞみとエリウスが返還術を行うための儀式の間へ入ると、すでにかなえとアレックス皇子、オズワルドがその場に揃っていた。
部屋の中央の床面には術式の陣が大きく描かれていた。本来召喚術では、陣の上に対象を出現させる。かなえもこちらの世界に現れたのは、この儀式の間で、同様の陣の真上に現れたのだった。
しかし、巻き込まれて異世界に落ちたのぞみには、初めて目にするものだった。何となくイメージする、いかにもという魔術の雰囲気を醸すその陣の仰々しさに、のぞみはやや気後れしながら小さく息を飲んでいた。
さて、とオズワルドが詠唱に入れる態勢をとる。二人が来るまで椅子に座って待っていたかなえが立ち上がり、のぞみの手を引いて陣の中央へと立った。
のぞみが傍から離れる瞬間、エリウスの腕がぴくりと微かに反応したが、それ以上動こうとはしなかった。
のぞみの手を取ったまま、くるりと振り返ると、かなえは言った。
「帰る前に、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
視線がかなえに集まる。堂々とした態度で視線を受け止め、かなえはエリウスに訊ねた。
「王子様。このまま、のぞみが帰って二度と会えなくても、構わないって思ってる?」
何を言うのかとぎょっとしてのぞみが振り返る。エリウスは静かな表情で受け止めた。
「…君たちには帰るべき世界があり、私にはのぞみを無事に帰してやる義務がある」
心臓がぎゅっと絞められたかのように痛かった。
分かっていたことなのに、恐くて居たたまれなくて、エリウスの顔を見ることができない。
彼にとっては、自分は結局厄介者な存在でしかない。エリウスは優しいから、そんな風に思ってはいなくても。
優しいから、優しすぎるから、だからうっかり好きになんてなってしまった自分が、馬鹿なだけ。
顔を俯けるのぞみをよそに、かなえはエリウスと対峙して続ける。
「そういうことは置いといてさ、会えなくなってもいいのかっていうのを訊いてるの」
その問いに、エリウスは彼らしからぬ反応で、ほんの少しだけ表情を歪めて、冷えた声音で答えた。
「何を、言わせたいのかな」
やめてやめてやめて。
もう泣き出す寸前だった。こんな冷たい彼の声は知らない。どうか最後に彼に煩わしいと思われたくない。嫌われたくない。
かなえが何を考えてこんなやりとりをしているのかわからないが、もう既に振られているのだ。
告白して、黙って慰めるようにしてくれたけど、答えはなかった。それがつまり、答え。
まだちっとも痛みが治まっていない、血を流し続けているような失恋の生傷の上にこれ以上は耐えられない。
いっそ一刻も早く帰りたいとさえ思うほどこの場から逃げ出したかった。
「…振られたの!私!」
絞り出した悲鳴のような掠れ声に、皆が振り返る。
かなえと繋いだままの手を、だからやめてと願いをこめて強く引いて握り締める。
「ねえ王子様。本当にこのままさよならしていいの?」
かなえが、じろりと視線をエリウスに投げる。
エリウスはじっとのぞみを見つめていた。その両掌はきつく拳を作っていた。
俯いたのぞみに、その視線は交わらない。
「私はのぞみが――笑っていてほしいと、願っているよ」
笑わせたいと、ずっと思っていた。
君の笑顔が見たかった。
心を許して、受け入れて、心からの、その笑顔を向けて欲しかったのだ。
君が心から笑えるなら。それが自分がしてやれることなら。最後に一度だけでも。
――どうか、笑って。
いつか彼女が自分のことを忘れて、ここではない世界で、自分ではない相手に笑顔を向けるのかと思うと、全てを奪ってでもこの世界に、自分の手元に縛りつけて閉じ込めたかった。
痛みと衝動から必死に目を逸らして、義務を全うすることを課して、彼女に憎まれるよりはきっと、最後の一瞬でも、笑顔を、自分に向けてくれるのならと言い聞かせた。
優しくしてくれて、嬉しかったと言った。好きだと言ってくれた。だから、優しくしたかった。
「かなえ、らしくもない迂遠な物言いはやめたらどうなんだ。何か企みがあるんだろう」
それまで関せずに椅子に腰かけてやり取りを見ていたアレックスが口を挟んだ。
「企みってなんか人聞き悪くない?」
ぷくりと頬を膨らませながら軽い調子で答えると、にんまり笑ってわざとらしく口調を作って言った。
「言ったでしょ、のぞみを叶えてしんぜよう」