ひと時
目を覚ますと、ベッドの中だった。朝の光が窓から差し込んで部屋は明るく、ぼんやりと身を起こす。自分でベッドに入った記憶がなくて、首を傾げながら昨日のことを思い出そうとして、固まる。
エリウスに告白したこと。抱きしめられたこと。そして、帰ってきた時の記憶がないこと。
眠っている間、あたたかい温もりに包まれていた感覚は何となく覚えていた。
もしかして。まさか。というか、それしかないけれど。あの後、眠ってしまった上に、連れて帰ってもらってきた…?
一気に羞恥が噴き出して、頭を抱えて突っ伏す。
――しかも私、振られた。
恥ずかしさに加えて、じくじくと痛み出す心に、さらに深くうなだれる。
どうこうなるなんて思っていなかったし、気持ちに決着を着けたくて告白したはずだった。だけど、やっぱり、胸が痛い。
しばらく突っ伏したまま、弛もうとする涙腺を堰き止めるため、ぎゅっと目を瞑って動かずにいた。
ノックの音がして、控えの間から侍女が入ってくる直前、はっとして起き上がる。侍女に声をかけられるよりも早く、慌ててベッドから降りると、そのまま部屋から飛び出す。
「のぞみ様?!」
驚いた侍女の呼び声にも振り返らずに、扉を開ける。
いつものように朝食を一緒にとるとしたら、じきにエリウスがやって来るはず。
今、どんな顔をして会えばいいのかわからなかった。羞恥に煽られて咄嗟に、逃げなくちゃ、と思う。
しかし、逃げ出すのが一足遅かった。廊下へ出たところで、声が聞こえた。
「のぞみ?」
振り向けば少し離れた距離に、まさに会いたくないその人が、驚いた表情でそこにいた。
そういえば着替えもしていない寝間着のままだったと気がつくが、軽いパニックに陥って、気が動転しているのぞみは、くるりと背を向けると脱兎のごとく駆け出した。
「のぞみ!」
エリウスが声を上げ、追いかけてくる気配に、さらに焦る。もはや状況がよく分からなくなっていたが、とにかく逃げなくてはという気持ちに追い立てられて、必死にただ走る。
――お願いだから、追ってこないで!
一目散に逃げて、自分がどこにいるのかもわからなくなったが、足を止めることもできなかった。
しかし、体力があるわけでもなく、ひと月あまり引きこもりの王宮暮らしをしていたのぞみは、日頃の運動不足で全力疾走は長くは続かなかった。息が上がり、速度が緩んでへろへろになったところで、後ろから腕を掴まれて、捕まった。
恐る恐る見上げれば、わずかに息の上がったエリウスが、眉根を寄せて厳しい顔で目を細めていた。さあっと全身から血の気が引いてすくむ。
考えてみれば、他国に訪問している立場でこんな振る舞いをしていいはずがない。挙句に王太子にまで走って追いかけるような真似をさせて――最後まで迷惑をかけて、ついに彼を怒らせてしまったのだと凍り付く。
「なぜ逃げるんだ」
苛立ったようなエリウスの詰問に、びくりと震える怯え切ったのぞみに、エリウスはぐしゃぐしゃとその金糸の髪を掻き回すと、息を吐いてのぞみの腕を引いた。
逃がさないというようにやや痛いほど強くのぞみの腰に腕を回すと、歩き出す。
引きずられるようにして、バランスがとれずよろけてエリウスの体にしがみついてしまうが、一層密着するように腕の力を強めるとそのままエリウスは進んだ。
適当に庭園に出ると、長椅子を見つけて腰を下ろす。
昨夜はよく眠れなかった。だというのに、朝食もとらぬうちから駆け回ることになろうとは。王宮の中を走るなど、ごく幼い子供の頃以来だった。
落ち着くと、急に眩暈が襲ってきた。顔色の悪さに、おろおろとのぞみが覗きこむ。
横になりたくなり、逃がさぬように、彼女の膝の上に頭を預ける。
一瞬、驚いた顔をしたが、すぐに気遣わしげにそっと額に手を伸ばして触れてくる。体温が心地よく、瞼を伏せる。離れないようにその手を上から掴んで押さえる。
「…どうして、逃げたんだい」
目を閉じたまま、ゆっくり訊ねる。
ぴくりとのぞみの手が引きたそうに震えたが、放さない。
「…ごめんなさい」
泣き出しそうな声で、謝罪の言葉を零す。
悲しませたい訳じゃない。謝らせたい訳でもない。ただ、残りわずかしかない時間すら共に過ごすことを拒まれたのかと、あからさまに自分から逃げた彼女に、動揺してしまった。
瞼を開くと、のぞみが怯えた表情をして見下ろしていた。目を眇め、手を伸ばして頬に触れる。
ふと笑みが込み上げる。陽の光に満ちて空気は澄んで快く、駆け回るのも、こうして長椅子に横になっているのも王太子としては相応しからぬ振る舞いをしているとは思うが、心のままに彼女の前でいられるのは、気分がよかった。今この瞬間が、とても満ち足りていた。
「エリウス?」
少し戸惑いながら、のぞみが名を呼ぶ。
触れられる手を意識しつつ、いつもと違う雰囲気と、なぜか切なく感じるエリウスの綺麗な微笑みに、赤くなってしまう。
頬をそっと撫でて、しばらくこのままで、と言ってまた目を伏せたエリウスの、長い睫毛をなんとなしに眺める。少しだけ青い顔色と目の下の隈に、自分のせいで、とまた落ち込む。
けれど、降りた沈黙が、流れる時間があまりに穏やかで、羞恥も、近づく別れの瞬間のことも意識の隅に追いやられてしまう。
じんわりと内側にあたたかさが広がる。同時に切なさがきゅっと胸を締め付ける。
ただこの時間をずっと忘れないでいようと、そう思った。
王宮の建物の中から、二人の元へ侍女が探しにやって来ると、返還術の準備が整ったと報せた。