兆し
強く抱きすくめられて、呼吸を一瞬忘れる。
遠慮や羞恥を取り払った剥き出しの心の奥で、じわりと喜びが湧き出す。
どこか縋るようなその抱擁に、無意識に、体が心に素直に動いていた。そっと腕を回して抱き返す。
すると、エリウスが少しだけ腕を緩めて、掌が頬に添えられる。
潤む視界を晴らそうと瞬くと、雫が溢れた。
翠の瞳と視線が絡む。熱の籠ったその瞳は、躊躇いと葛藤を滲ませていた。
柔らかな温もりがそっと目尻に落とされて、唇が零れた涙を掬う。
そのまま頬に、額に、こめかみに、口づけが降り注ぐ。
じわりと熱が上がり、心臓が早鐘を打ち始めるが、どこかぼんやりと遠いところから自分を眺めるようでもあった。
染み込むような、名残を惜しむようなその口づけは、しかし二人が別たれることを意味していた。
それが哀しくて、また涙が溢れ出す。
エリウスの顔が辛そうに、耐えるように歪められる。
そんな顔をさせたくなくて、慰めたくて、頬に添えられた手に、自分の手を重ねる。
応えるように、もう一度強く、抱き締められた。
彼が言葉を発しないそれが答えなのだと、目を強く瞑り、ぬくもりを記憶に刻み込むように、その胸に顔を埋めた。
彼女から差し出されたものに、歓喜が溢れる一方で、どうしようもなく躊躇と諦念が胸を支配した。
手放したくない。側にいてほしい。これほど強く希ったことはなかった。
それでも、それを声に出して言葉にすることはできなかった。
言葉にすれば、彼女にどちらかを選ばせることになる。彼女がどちらを選択したとしても、彼女にも自分にも、癒すことのできない傷が残るに違いなかった。
それを選ばせることの残酷さを、のぞみに突きつけることは、できなかった。
彼女をかき抱きながら、喉がひりついた。
――苦しくて息ができない。君がいなければ上手く酸素も吸えない。
持ってるものなら何だって君に捧げるのに。
王太子という立場から逃れることはできないし、その重みを負荷に感じることはあっても、投げ出したいと思ったこともなかった。それは自分の一部だった。
だけど今この瞬間だけは、本当に、彼女が側にいてさえくれるなら何もかも差し出してしまいたいと思った。
ただ一人の男として、彼女と共に在れたなら、彼女が笑ってくれるなら、それだけで、――充分だというのに。
***
皇子の執務室にかなえはいた。部屋の中には、部屋の主であるアレックスと二人きりだった。
「ねえ、アレックス。正直に言ってよ。私にしてほしいことは何?」
悠然と笑いながら、かなえは問いかける。
手元の書類に目を落としながら、かなえの方を見ようとせずにアレックスは答える。
「何もないさ。強いて言えば、お前は自分のいるべき世界に戻り、平穏無事に過ごせ」
はーあと声を出しながら大仰にかなえは息を吐いてみせる。
「素直じゃないなあ。アレックスはさー、友達が欲しいんでしょう」
アレックスがぴくりと眉を上げて、執務机の前に立ったかなえを見上げる。
慈しむような微笑みを浮かべて自信ありげにかなえはアレックスを見返す。
「できたじゃん。王子様、友達じゃん。私もだけどさ」
面食らったようにアレックスが「何を、」と言いかけるとそれをかなえは遮って
「あるでしょう、まだ。アレックスの希み。――私はさあ、友達のねがいなら、叶えてあげたいんだよね」
それが、自分の役目だというのなら、なんとしたって。
「私が、みんなの“のぞみ”を叶えてあげるよ」
晴れやかな青空に照る太陽のような、かなえの笑顔の眩さに、アレックスは知らず目を細めて見つめた。