体温
急なのぞみの態度の変化を、エリウスは訝しんでいた。
のぞみの方から誘ってきたこと自体驚くのに十分だったが、騎乗の相乗りにしても、いつもであれば口にするだろう遠慮の言葉が出てこない。
髪に触れても、緊張している様子は伝わるが、これまでのように居心地悪そうな困り顔をしなかった。
なぜ、と思うと同時に帰れると判ったからだろうか、と過り、すっと胸が冷える。
意図せず、僅かに冷めた声で出た言葉は皮肉めいた響きをしていた。
「気に入ってくれたなら、持って帰っておくれ。……この世界の、記念に」
まるで置いていかれる事への恨み言のようなものだった。くしゃりと痛みを感じたように歪められた表情に、溜飲を下げる。
自分の事を、そして自分を置き去りにしていくその事を、彼女が忘れなければ良いと思った。せめていくらかの枷にでもなれば良い。繋ぎ止めることはできないのだとしても。
腕の中にいる無防備で小さな少女を抱き潰したいような衝動を逃がすように、気づかれぬようそっと唇で髪に触れる。
鼻腔をくすぐる匂いに、離れかけた意識を手綱を強く握り直すことで引き戻し、小さく溜め息を零した。
のぞみの手を取って歩きながら、自国の景色を、もっと見せに連れて行けば良かったと考えていた。
思いがけず強く握り返された手と、その声音と眼差しに息を飲む。
「聞いてほしいことが、あるの」
いつになく、彼女自身の素だろうその口調で発せられた言葉に、聞きたくない、と反射的に思う。
「聞いてもらわないと、私、帰れない」
続けられた言葉に、咄嗟の予感が正しいことを知る。帰るための言葉など、聞きたくない。聞かなければ帰れないというなら、なおさらのこと。
それでもひたとこちらを見つめる懸命な瞳に、耳を塞ぐことは許されず、繋いだ手に弱々しく力を込めて感触を確かめる。
「エリウスに、本当のこと言わなきゃって、思って……私、帰れるってわかって、嬉しいの」
鋭い痛みが息を詰まらせる。胸が掻きむしられるようだった。これほどの痛みを感じるとは思っていなかった。
「これ以上、エリウスに迷惑かけなくていいんだって思って、よかったって」
「迷惑と思ったことなどないよ」
思わず遮るように声を挟む。
すると、のぞみは視線を落としてゆっくりと言葉を零す。
「うん。でも、すごく感謝してるけど、やっぱり私は心苦しかった。だから、少しだけ、負い目がなくなったっていうか、ほんのちょっとだけでも対等になれたような、近づけたような気がして」
だから、うれしいとのぞみは言う。
負い目なんて感じる必要はないのに。義務も責任もとうに建前と名分に過ぎなくなっていたのだ。
自分がしたいことをしていただけだ。拒否されないという確信をいいことに、彼女の抱いている遠慮にも見て見ぬ振りをして、いつかは彼女が諦めるだろうと、受け入れてくれるだろうと驕り、期待していた。身勝手なのは自分の方だった。
自分を必要としていたのは彼女の方だったはずなのに、いつの間にか自分の方がずっと、彼女を必要としている。
「エリウスには、…拾った捨て犬を可愛がるみたいなものだったろうけど、私は、優しくしてもらえて本当に、すごく、すごくうれしかったよ」
ようやくこちらに向けられた彼女の笑顔は、泣き出す手前のように見えた。
手を伸ばして頬に触れる。ひどくあたたかくて、その温もりに、胸が締め付けられる。
「面倒みてくれて、気遣ってくれて、たくさん優しくしてくれて……ほんとに、ありがとう」
触れ合ったところから微かな震えが伝わった。伏せられた睫毛に、黒い瞳から雫が一粒零れ落ちる。
「エリウスのことが、すき」
か細い声で、恐る恐る、ずっと秘められていた壊れそうなそれは差し出された。
胸の内で渦巻く感情のどれも、声に出すことが出来ず、ただ離さぬように、その身体を強く抱き締めた。