第四回 【凡庸さの欠片など、宇宙塵ほども見受けられない】Part1
そこは、東京都下、冷たい風吹く、埋立地に築かれた住宅街の一角。
「アンファン……着いた」
まるでデザイナーズ住宅のように物々しい一軒家の門前に立って、遊乃卯は草臥れた溜め息を早朝の薄靄と交わらせた。
「とうとう……ここまで来たんだ」
思わず感嘆の独り言も飛び出てしまう。
現在の日時は2015年、3月2日、朝の6時半。
結局、まる一晩掛かってしまった。
夜中のうちにはあがっていた雨に濡れた暁の景色の中を、小鳥のさえずりとともに冷たい北風が舞う。
寒い。遊乃卯の少し伸ばした明るい色の髪がなびく。
目の前には遂に相まみえた、物言わぬ家屋が立ちはだかっている。
聳え立つ大理石の、神殿の如き堂々とした石材を用いたキュービックな外観は、同時に、膨大な積水を制御する巨大なダムにも似た揺るがなさを誇っている。
そのスタイリッシュに近未来的な一軒家の前に立ち、遊乃卯は大きく一度深呼吸をし、そしてバックパックから鍵を取り出し、ちょっとやそっとの天変地異では崩すことのできないであろう、堅固で前衛的な砦の扉を、開いた。
玄関に入ると、まず正面の壁に鏡がある。
そして、一見、向って右側が上がり口であるように思われる。
だがそれは違う。
彼女の進路は、玄関スペースの左側に設けられたドアの先だ。
僅かの逡巡もなく、左のドアを開く。
そこから先は常識を疑うような空間が広がっている。
極端に狭い廊下。
垂直に折れ曲がっている不可解な構造。
住居に有るまじき三角形の一辺のような鋭角の壁。
まるで客人の到来を頑として阻むような、侵入者の一切を拒絶しているような、屈折的でひねくれた建築の妙が続く。
こんなものを一般の人に見せたら、きっと建築士は気でも狂ったんじゃないかと疑われるであろう、常軌を逸したヒドイ設計であった。
それでも遊乃卯は果敢に、黙々とねじれた家屋の中を進んでいった。
彼女は予め知っていたのだ。この狂った住居の構造を。
だから、目的の三階部分に到達するために階段の上ったり下りたりを繰り返さなければならないことも、事前に熟知していた。
頭にインプット済みであった。
そうしてようやくそこに立つことのできた三階の部屋の前で、今一度、緊張を解そうと、リラックスの動作を取る。
帽子を脱いで、手鏡を出し、髪の乱れを整え、鏡面に向って、愛らしい顔の最高値の美しさを演出する練習をする。
(セボン! いける!)
遊乃卯は大きく息を吸い込むと、一思いに、目的の人物が眠っているであろう部屋の戸を開け放ち、朝の訪れを告げる、瑞々しいうら若き乙女の声を発した。
「ほぉら、いいかげん、おきろぉ。今、何時だと思ってんの? まったく、女の子に起こしてもらわないとベッドから出ることもできないなんて、恥かしくないの? さあ、早くおきなさーい」
遊乃卯の中でこの台詞は、幼馴染の女の子が朝っぱらからわざわざ出向いて布団を優しく引っぺがすという、あの夢物語の一幕を再現したつもりであった。
確かに、それなりに可愛らしい声で言えていたし、彼女は現に、なかなかキュートであった。
背負ったリュックを床に抛り、帽子も投げ捨て、さんさんと輝く太陽のような眩しい面差しで、眠りの中の少年に女神のお目覚め行為を施してみせる。
一方、こんな夢のような目覚まし方をされた少年はというと、ベッドの上で布団を剥ぎ取られ、寝癖だらけの頭に、瞼の開ききっていないボンヤリした顔で、ポカンと放心して少女を見つめている。
状況を呑み込めていない腑抜けた顔で、いかにも頼りなく、突然のトラブルに対する対処などとてもできないような情けない姿であった。
「おはよう! やっとお目覚めね、まったくだらしないなぁ。さぁさ、早く支度して、学校に行く準備をしなさい! まったくも…………う?」
ところが。
驚いたことに、少年は寝惚けた顔をそのままに、何も言わず、むしろそこに可憐な女の子がいることすら気がついていないかのような足取りで、さっさとベッドから降りて、部屋を出て行ってしまった。
「クヮ? ちょ、ちょっと、待ってよ」
少年……というか、少女よりも頭一つ分以上も背が高いから、青年と呼んだ方が適切であろうか……何にせよ、せっかくのハートフルな演技でお目覚めの儀式をしてやったのに、寝癖だらけの相手は、まるで彼女の行いなど何も無かったかのように、スタスタと、歪んだ構造の家の中を進んでいった。
「アロ! 少しは話を……」
寝癖と寝惚け眼の青年は、バスルームの前までくると、ピタリと足を止めた。
「俺がここから出てくるまで、その場を動かずに、待っているんだ」
少女に背を向けたまま、首だけ振り返って発された下知。
「クヮ?」
「いいか? 何も言わず、少しも動かず、俺が出てくるまで、そこで待機しているように」
ピシャリと、バスルーム前のカーテンが閉められた。
すぐに、水の流れる音が聞こえ始める。
遊乃卯は閉ざされたカーテンの前で、棒立ちになっていた。
シャワーの音が彼女の形の良い耳を打つ。
「う……うそ……」
(こ、これって……いきなり、濡れ場?)
遊乃卯はシャワールームから漏れてくる官能的な水の流れる音、肌にあたって弾ける飛沫の音に、自ずとドキドキしてしまい、こそばゆい緊張と魅惑の心情に捕らわれていった。
全くもって想像だけど、多分、初夜を迎える乙女の心情とはこういうものなんだろう。
時刻は朝の六時台だったが。
決してその場を動くなと命じられた遊乃卯は、最初は奇妙で独りよがりな胸の高鳴りに襲われて興奮していたものの、一向に途切れないシャワーの音に、きっと隅々まで体を洗っているのだろうと自分を納得させようとしたが、それでもまだ終わりそうな気配がいっかな窺われず、しまいには永遠に続くんじゃないかと思われるほど長い入浴時間に、先ほどのドギマギを塗り替えるようにイライラがこみ上げてきて、チラチラと傍らの壁にかけられた時計を何度も見ながら、ジリジリとひたすらに待ち続けることとなった。
たっぷり三十分経過してから、バスルームの戸が開く音がした。
「ちょっと! いつまで待たせるの! 長すぎッパ!」
遊乃卯はキュートな顔で憤慨し、カーテンを開こうとした。
すると鋭く制する声がかかる。
「まだだ! 俺がこのカーテンを開けるまで、そこでジッとしていろ!」
遊乃卯は逆らえなかった。
彼女は待った。
ドライヤーの音が聞こえる。
呑気に、こちらの苛立ちなどまるで頓着していないかのように、ゆっくりジワジワと、粘っこく、時間は過ぎていった。
「ちょっともう! いい加減に……」
遊乃卯が堪りかねて突入しようとした矢先、カーテンは遂に開かれた。ガラガラガラ。
「さて、用件を聞こう。君は誰で、何をしに、ここにいるのか?」
遊乃卯は目を見開いた。
現れた相手の姿を見て、絶句した。
先刻の寝起きとは別人と思われるほどの美青年!
精巧な、月面のマネキン工房からたった今出荷されたところだと言わんばかりの鮮烈さで、細い腕を胸の前で組んで、遊乃卯の前に、同じ年頃とは到底思えないほどの気迫を備え、青年は、何の用だと直立不動に構えていた。
他人?
いつの間にすりかわった?
そう疑いたくなるほど、シャワーを浴びて出て来た人物は豹変していた。
先ほどの、寝癖だらけの頭に半開きの双眸の、凡庸でだらしないダメ男の印象は、目の前の青年に一欠片も残っていない! 変身?
真っ白なバスタオルを裸の肩にかけている。
その身は白くてしなやかに細く、無駄な贅肉は一切ついていない。
が、骨が浮き出るような細見の裸なのに、弱々しさは露程も窺えず、彼の実年齢には不釣り合いなほどの貫禄が満ち溢れている。
気圧されている場合じゃない。
遊乃卯は胸を張って、湯上りの相手に立ち向かう。
「よ、よく聞いてくれたね。いいよ、特別に教えてあげる! 実は……て、ちょっと!」
しかし、用件を聞こうと言った側から、遊乃卯の目の前を横切り、またしても彼女の存在を無視するかのように、たっぷり待たせた来訪者のことなど気にも留めず、青年は家の中を歩き出した。
「ちょっと、待ってよー!」
青年は歩きながら、「リヴィングで待っていろ」と、振り向きもせずに告げた。
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