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第三回 【あやまったりしない】Part 3

 西暦2015年、3月1日。

 城所遊乃卯は小さな総身を支配している重たい虚脱感を持ち上げるように、自身の穢れなき瞼をゆっくりと開いていった。

 改良型絶対安全カプセルは全機能を停止していて、それがもう二度と再運転しないことを如実に訴えているような沈黙を保っている。

 時空移動の際の振動と衝撃に耐えるために着込んでいた防護服を脱ぎ捨て、細い左手首に装着した腕時計を確かめる。

 デジタルの文字が示している時刻は、2045年7月14日14時44分。

 カプセルから抜け出し、薄暗い建物内を進む。

 三十年前の世界にやってきたんだという実感を、生まれ育った同一施設内の、傷んだり煤けたりしていない柱や壁の清潔感から取得することができた。

 建物の構造自体は彼女が暮らしていた三十年後と全く変わっていず、勝手知ったる隔離施設の中を、しかし感慨に浸っている場合ではないと足早に出口へと進んでいった。

 3月1日は日曜日だから出所している所員の人数は限られているはずだ、という読み通り、遊乃卯は誰にも見つかることなくひんやりとした廊下を進み、非常灯だけがついている自動ドアから人知れず、表へと出ることができた。

「さ……さむぅ」

 屋外へ出ると、水気を帯びた大気の香りが、つまむように少女の愛らしい鼻孔をくすぐった。

 その空気の匂いは、淀んだ閉塞空間で生活していた遊乃卯がかつて味わったことのない自然の芳香であったが、同時に襲ってきた身を斬るような肌寒さも、未体験のものであった。

「クヮ? これって……」

 建物の庇まで行って眺めてみると、何か真っ白いものが空中を舞っているのに気付かされた。

(もしかして、雪?)

 それは雪であった。

 少女の肌と同じ純白の粉雪が、天から地へと降り注いでいて、萎びた草が群生していたはずの箱庭を、一面の銀世界へと一変させていた。

(本物を見たの、初めて……。すごい)

 正常な自然環境下における、何の変哲もない大気現象に目を奪われてしまうのも無理はない。

 未来少女である彼女が過ごしていたのは、ずっと、くすんだ防護硝子で覆われた閉鎖された空の下であったから。

(それにしても暗いの。夜になっちゃったのかな?)

 遊乃卯の腕時計はその時、昼間の時刻を指していたが、辺りの雪景色には万遍なく夜のとばりが降ろされていて、正確には文字盤は「夜の九時」を示していなければならない刻限であった。

(さ……寒い。でも、行かなくちゃ)

 この日、関東甲信越地方には生憎の低気圧が圧し掛かっていて、三十年もの年月を渡航する遠大なる旅路の門出にはいささか不相応な天候と気温となってしまっていた。

 遊乃卯は背負った荷物の中から、真っ白なレインコートを取り出し、冷たい雪より身を守るため、キャップを被った頭の上からすっぽりとそれを羽織った。

「ボン……、無事、成功したよ、イヴ」

 再会の機会が永久に失われたであろう相手の名を呼んで、湧き上がってくる寂寥をこれからこなさなければならない山積みの課題に対する決意で埋め尽くし、時を駆けた少女は無人の施設を後にする。

 長い年月、開くことのできなかった表門の門扉に手を掛け、ロックの掛かっていないその扉を押し開け、外の世界へと旅立っていく。

「ユノ、ちゃんとやってみせるもん」

 己を鼓舞して歩き出す少女は、大地を覆う瑞々しい雪を靴の裏で踏みながら、目的の場所へと向かって夜の森の中へと進んでいった。

 この後に彼女を待ち受けている多難を知りもせずに……。




「お嬢ちゃん、家出少女でしょ?」

 雪の山道を甘く見過ぎていた。

 最初のうちは一歩踏むごとにキュッキュッと耳朶を打つ鳴き雪に心地よさすら感じていたが、次第に冷えと疲労が蓄積されてきて、それが昂ぶらせていた鋭気を萎えさせてしまい、踏み分け道からようやっと車道へと出れた時には、もう誰でもいいから助けてくれと、遊乃卯はレインコートに袖を通した腕をバタバタと振り回して救助を求めてしまっていた。

「い、家出?」

「わかるよ、おじさん、よく知ってるんだよ。最近、多いからねぇ」

 冷たい雪に濡れそぼった可憐な少女の救護サインをキャッチしたのは、たまたま通りかかったタクシーの運転手だった。

(い、家出と言えば、家出かもしれないけど……違うもん!)

 三十年前の過去世界で初めて会話を交わす相手がタクシーの運ちゃんというのも拍子抜けする話だったが、そこは誇り高き未来少女、いちいち慌てたり取り乱したり、不審に思われるような汚点を見せるわけにはいかない。

「ノン! ユノは未来少女! ………………あっ」

 口走った直後、とんでもない告白をしてしまったことに気付く。

「あっはっは。そうかそうか、いやぁわかるよ、おじさん。最近、そういう子、多いからねぇ」

 何がわかるのかはわからないが、少なくとも陽気なタクシーの運転手は、先ほどの衝撃的発言を真に受けてはいないようである。

「ノ、ノン……ち、違うの! ええっと……と、と、とにかく、この場所まで行ってほしいの! 急いでるの!」

 遊乃卯は乗り込んだ時にも見せつけた、ある住所の書かれた紙を、ハンドルを軽やかに握っている夜間労働者へと後部座席から突き付けた。

「おじさんは別に良いけど……遠いよ? 雪も積もってるし、大丈夫? 駅で夜行バスに乗った方が良いかもよ?」

「夜行バス? それは何時に着くの?」

 運転手は念のため時計を見やった。

「んー、もうこの時間だと今日の便は終わってるから、明日の朝に出発とかかな」

「明日の朝に出発? ジャメ! とにかくこのまま走ってほしいの!」

「いや、だから。東京でしょ? 本当に遠いよ?」

「大丈夫! ユノ、居眠りなんかしないもん!」

「いや違うよ。料金、払えるって意味?」

 問われて、家出少女に間違えられている未来少女は、バックパックの中からそこそこの札束の入った銭入れを取り出し、中身を支払いの要求者へと検めさせた。

 この時のために大切に保管されていたのであろう、ピン札と呼ばれる状態の、それらは2015年の日本国でごく一般的に用いられている紙幣の束であった。

「……これ、ご両親のお財布から盗んできたわけじゃないよね?」

 苦笑いとともに疑ってきた相手に対し、いよいよ叫び声を上げずにはいられなくなる。

「そんなことしてないもん! それに、ユノにはパパもママもいないの! いるとしたら、そこにいるの!」

 とんだお客を乗せてしまったと、壮年の運転手は溜め息を吐いたが、彼女から渡された用紙に書かれた住所を、再度、車内灯の明るさで以て検分してみる。

「ああ、そうか、なるほど。お嬢ちゃんはこの会社に関係しているんだね?」

「ウィ! そうなの!」

「そっか。じゃあ別に、踏み倒されることはないか。本社で良いんだね?」

「ウィ! そうなの!」

 矜持を傷つけられてご立腹してしまったためか、遊乃卯は後部座席でぷくーっと頬を膨らませて、運転手からの問いにもぞんざいな態度で返答してしまっていた。

 それが、いけなかった。




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