第二回 【あやまったりしない】Part 2
「もうこの空ともお別れか」
少女が見上げたのは、分厚く重たい不透明なドームで遮られた、くすんだ天であった。
まるで巨大な温室のように、彼女の生活していた区域は、外界から防護硝子で仕切られていた。
否、温室ではない。
植物は軒並み萎びていて、生気が宿っていない。
暦の上では真夏であるはずなのに、夏の日輪は陽射しの恵みを大地へと届けてはいない。
終末世界の箱庭さながら、閉塞された空間。
そのドーム状に閉ざされた居住施設の草むらに立つ、まだ十代半ばと見受けられる小柄な少女は、大きなバックパックを背負い、藤色の、オーバーオールと呼ぶよりはもはやツナギのような無骨な服に身を包み、無印のキャップを目深にかぶっている。
その姿はまるで、ちょっと郊外の山へハイキングに行くところですと言わんばかりの野暮ったいアウトドアな印象だったが、これから赴くところは観光名所の霊山などでは決してなく、また少女が背負っている使命は、旅の必需品が詰まった彼女の大きなリュックの重量とは比べものにならないほど、途方もないものであった。
「あなたが旅立つ過去の世界では、まだ大気は清浄で、緑は輝き、空の色も海の色と同じ、美しい青色でありますよ」
「ダコー。見納めしていただけなの。名残惜しくないッパ。準備、できてるよ、イヴ」
妙な言葉遣いを交え、少女は返事をした。
その相手……イヴと呼ばれた、白衣を纏った科学者風の男性は、天を見上げる少女の少し後ろに立って、慇懃な調子で確認をするように述べる。
「ユノウさん。あなたがいよいよ出立することとなる三十年前の世界は、まだあなたのお父様が辛うじて正気を保っており、ニッポンも、まだこのような絶望的状況下に陥ってはいません。あなたのお父様が暮らしている時代は、幾つかの深刻な社会情勢に見舞われてはいますが、それでも多くの国民は、平穏な日々の生活を営んでいます」
「でも、その何年後かには、パパが、その平和を滅茶苦茶にしちゃうんだよね?」
「今は亡き城所銀河の、ただ一人の娘である、城所遊乃卯さん……。私は今でも申し訳ないと思っています、あなたにこんなやり方で父親の行った暴挙の責任を取ってもらうことを」
少女・城所遊乃卯は、倒置法で以て陳謝した相手を振り返り、俯いて答える。
「良いの、イヴ。それがダメな親を持った、娘の責務だもん。他の人がやったことならともかく、ユノのお父さんがしちゃったことなんだから、娘がなんとかしなくっちゃなの」
遊乃卯とイヴはしばし、薄気味悪い色をした空の下で沈黙し、湧き上がる煩雑とした想いを、風のない景色の中へと溶かし込んでいった。
「間もなく、過去への時間旅行を可能とするワームホールが開通します。もう、私はあなたに会うことはできなくなりますが……。どうか、お元気でいて下さい。そして必ずや歴史を改善し、あなたのお父様の過ちを未然に阻止してください」
「ありがとう、イヴ。あなたも……元気でね」
低い背丈の遊乃卯は、イヴの腰まわりに抱きつくようにして、別れの抱擁をした。
「ワームホールAは、六年間、五倍の超圧縮を付加させた状態で、三十年前のこの研究所施設に存在しています。そして、ワームホールBを通過する技術を、三十年以上の歳月を掛け、我々は完成させました。あなたは改良型絶対安全カプセルに搭乗することで、この時空のトンネルを通過し、三十年前の過去の世界へと向かうのです。正確には、西暦2045年7月14日から、西暦2015年3月1日へのタイムトラベルとなります。当日の天候は記録上、あまり好もしくない空模様でしたが、曜日と、父親に接触する時機のことを考慮すれば、この日を除いて最適な日にちはありません」
「ボン、最後まで、科学的解説ありがとう」
遊乃卯はほんのり涙の滲んだ目許を拭い、仮に三十年前でも今と同じ科学者的風采をしていたであろうイヴから身を離した。
「行ってきます。ユノは必ず、歴史を変えて、この国を……世界を救ってみせるの」
「ご健闘をお祈りしています。三十年前の世俗、風俗、人々の暮らしは、ここと比較してかなり違ったものでありますが、あなたならばすぐに順応できると私は確信しています」
「任して、イヴ。2015年のカルチュールなら、完璧に勉強してるもん」
「当時の人々は皆、スマートフォンと呼ばれていた利口な携帯電話を所持していて、世界中のインターネットも正常に機能をしていました。また、当時のニッポンにはまだ季節の概念がありましたから、先述のとおり、三月の気候は少々肌寒く感じられるかもしれません」
「それが無くなっちゃった原因も、ユノのパパにあるんだもんね……。大丈夫、きっとなんとかしてみせる。そのために、ユノがいるんだもん! 寒さにだって、負けないもん!」
薄桃色に染まった頬に無理矢理の笑窪をつくって、遊乃卯は誓いを立てた。
きっと、必ず、歴史を変えてみせる。
そして、愚かな父親に、謝ってもらうんだ。
世界中の人々へと。
城所遊乃卯が万感の想いで時間旅行者となる覚悟を誓い、タイムマシンのある場所へと去った後で、科学者イヴは白衣のポケットに手をそろりと突っ込み、端末を取り出した。
「……すべて手筈通り、計画は進みました。これより最後のバックアップ作業を行います。もちろん、到着後の処置も、抜かりないように致します……」
感情の削がれた声音で、イヴは一人、メッセージを吹き込んでいた。
そして、こんなところに煽り文を書く場所があるのを発見した