letter 『硝子の向こうの世界』
自分より不幸な奴に対して優しくすることほど、簡単なものはない。
その優しさは、醜くて、黒くて、歪なのだとしても、
ひどく、醜く、温かいのだ。
涙が出るほど――――あたたかいのだ。
「幸福の基準が低い奴ってのは、そんだけこれまでに辛い思いをしたってことだ」
難しい顔をした教官は、私のふて腐れたような顔を見ながらそう言った。深い、重い、言葉が私の胸にふわりと舞い降りた。
「俺は、そういうやつには優しくあろうと決めている」
「同情ですか?」
「同情だったら幻滅するか?」
「わかりません」
「想像してみろ、目を閉じて頭の中で。あるいは、思い出してみろ――お前の過去を。
お前ははたして幻滅するか? これまでずっと苦しい思いをしてきたその時に、同情でも優しくしてくれたその人に――幻滅するか?」
深く、深く、意識を沈める。己の身体を夜の闇の中へ。刹那、吸い込まれるような錯覚を覚えて、私はさらに深く、死にゆくように静かに呼吸をする。
その中で、ひどく遠い教官の声が耳朶を打つ。
「そいつはな、幸福の基準が低いんだ。とてつもなく低いんだ。ただ普通にご飯が食べられて、家族と笑いあえて、息ができて、生きられることにすら、感謝を覚えるんだ」
私はそっと目を開けた。長い間、暗闇にいたかのように、視界が眩しい。私は思わず目を細めた。私の瞳に映り込んできたのは、ひどく悲しそうな顔をした教官の姿だった。
――教官の表情から目を離せなくなった。
私が、分かりきった解を答えられないでいると、教官は真っ直ぐな瞳をこちらへと向けた。
「お前は、昔のお前は、俺も驚くほどのほんの些細なことにお礼を言った。ありがとう、と笑って俺に頭を下げた。――深々と、深々と」
「同情だとも思いもしませんでした」
「そういうもんだ。お前も意地張ってないで、アイツに優しくしてやれ。素直じゃ無い奴も、心の中では、ありがとうって言ってるから」
教官は私に背を向けた。
「――そしたら思わずお前も、ありがとうって言いたくなる」
教官は絞り出すような声を私の耳に届けた後、顔を見られないように足早に去った。
「教官の優しさは不器用すぎ」
私は一人、呟くと心の中でありがとうと感謝の言葉を告げた。
そして、私も教官の通った道をなぞる。アイツに、幸福の基準が低すぎるアイツに、不器用な優しさを届けるために。