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河童と私

作者: しえぶら


 

「かっぱ」と言われれば、人は何を思い浮かべるだろうか?まず思い浮かべるのは妖怪である河童であろうと思う。その次に思い浮かべるのは、その河童の出演するさまざまなフィクションや河童巻き、読書を趣味とする人々なら芥川龍之介の短編小説を思い出すかもしれない。世間の皆さんの河童といえばそれらであって、実際に存在する生き物としての河童を候補に挙げる者は、常識で考えるならばまずあり得ない。

だが、私は遭い、知って、語り合っていた。


妄想や空想ではなかった。河童は私の隣、深夜の公園の片隅のベンチで確かに存在したのだ。


「では、お先に失礼致します」

「ああ、お疲れ様。悪いね、最近は忙しくて、碌に休めないだろう?」

 私が勤めているのは、高層ビルなどに使われるセメントや鉄筋などの各種建材を扱う会社の営業部だった。2000年代の不況も今は何所へやら、建築業界も今は盛り上がりを見せ、バブル程ではないにしろ好景気に沸いていた。そうなれば勿論建材の需要が高まるもので、売り込む私たちは契約のために寝る間を惜しんで営業に励んでいた。

「辛いと思うけど、今は耐えてくれよ。君はお客さんの受けもいいからさ、な?」

 初老の営業部長が私に向かって労いの言葉を掛けていた。正直言って早く帰りたかった私は、有り難う御座いますと平坦な口調で返して営業部に割り当てられた部屋を出た。近くの休憩室に出向いて、自販機でミネラルウォーターのボトルを買う。朝から酷使したからか頭の奥が少し痛み、水がほしい気分だった。現在は午後10時15分。昼の飯時なら騒がしく狭いここも、ほとんど人はいなかった。煙草を吸いに来た社員が何人かいるだけだ。非喫煙者の偏見だろうが、中毒性のある煙で疲れを紛らわすのは、正直言ってどうかと思う。

「あぁ、先輩じゃないっすか。帰りですか?」

自販機からボトルを取り上げた直後、不意に後ろから声を掛けられた。2年前に営業部に入った男だった。肌は日に焼けていて体格が良く、私よりも15センチほど背が高い。振り向いた私に向かって彼は続けた。

「随分お早いお帰りっすね。上司の覚えが良いと早く帰れるようになるんすか?」

「そんな規定はウチには無いよ………帰ったのがほとんどだし、残ってるのは片付けの捗らない奴か課長だけだしね」

「それ遠回しに俺馬鹿にしてます?参ったな」 

 正直言って、目上の者に掛ける言葉では無いと思う。だが人はほとんど居らず、言葉を掛けられる私は人事に関わっている訳ではない。気に入らない相手を締める絶好の舞台だと言えなくもなかった。

「ねえ先輩、頑張りすぎないほうがいいっすよ?先輩細くて弱っちいし…」

 そういって、彼は私の握っているボトルに手を伸ばした。掴み、握りしめ、ボトルの形を変えていく。それを見ながら、彼は笑っていた。愉快な物を見るように目を細め、口角が醜く吊り上って、見ていて癪に触る笑いだった。

「壊れるかもしれないっしょ。ねぇ?」

 そう言ってから、彼はゲラゲラ笑いながら立ち去っていった。あの眼は異常だったに違い無かった。人間の卑屈さや、劣等感や妬みの混ざった目が私を見つめていた。歪んだボトルが彼の悪意を表している気がして、口を付けずに無造作にゴミ箱に投げ捨てた。

 


陰鬱な気分が残ったまま休憩室を出た時、懐に仕舞っていた携帯電話が鳴った。取り出し、確認すると発信は自宅からだった。妻からだろう。すぐさま通話ボタンを押した。


「はい。どうした?」


「…用があった訳じゃないの。お仕事は、どう?」


「もう帰るだけだよ。書類は全部片付けた」


「そう…」


妻の声には覇気がなかった。彼女の声が元からそうだという訳では無い。子供が生まれる前の、活力のあるはずんだ音色は、今はもう見る影もなかった。弱々しく、今にも消えてしまいそうだ。私は一カ月近く彼女とまともに会話していない。彼女と生まれた子供について話し合ってもおらず、家事を手伝う事も、抱きしめる事も無い。私はただ家に帰って迎えられ、会社に出勤する際に送られていただけだ。それだけだった。


「…恵理がまた夜泣きでね、疲れちゃったから一寸でもいいから声が聞きたかっただけ。

大丈夫だよ、私。頑張るから。あなたも、早く帰ってきてね」


そういって彼女は通話を切った。私が会話を続ける暇がないと判断したのか、彼女が会話を続けるのか苦痛だったのかは解らない。回線が閉じられ、平坦な切断音が響き続ける携帯電話では確かめる術はなかった。


会社の正門から出た頃にはもう十時半を過ぎていた。私は右手にビールと弁当の入ったコンビニのビニール袋、左手に背広をひっかけ、近くの公園に向かった。

池がある以外は何の変哲のない運動公園だった。池の近くの、近くに街灯のある適当なベンチに腰かけ、弁当の包装を解いた。

こんな時間に一人でコンビニ弁当が夕食というのは、妻のいる身としては正直言って情けない。しかし子供の世話で疲れ切った妻に今更夕飯の世話を頼むのも酷い話だ。その妻の横でコンビニ弁当というのはさらに酷い侮辱であろうとも思う。結局いつも味量共に貧弱な弁当とアルコールで腹をごまかし、帰ってシャワーを浴びてベットに潜り込むだけだ。

そして気づくと………このサイクルを一月近く繰り返している。同僚の嫉妬を受け流し、機械的といえるほどに淡々と顧客へのセールスを行って、書類を片付け帰るのは子供の世話で一杯一杯の妻のいる自宅だ。妻に一人の辛さと苦しさを強いておきながら、現状維持のみを続ける自分に遣る瀬無さしか感じなかった。

 

 包装を解いたハンバーグ弁当(699円)のおかずに箸を伸ばそうとしたその時、近くの池で水の弾ける音が響いた。ばしゃっ、というその大きな音の後に身を振って水滴を落とす小さな音が続いた。


 ……犬には池に飛び込みたがるような習性があっただろうか?今は9月の終わりであり夏の残暑は消え、過ごしやすい季節となっていた。暑さに耐えきれずに…というのは考えにくい。人である可能性はさらに無い。今は午後11時、街灯の灯りがなければ自分の足元すら覚束無い暗さなのだ。その暗さの中での遊泳というのは不可能に近い。大体、一泳ぎしたければ市営の室内温水プールに赴いて、受付で100円と氏名住所を書いた紙を手渡せばいい。


 私は少々逡巡し、おかずに伸ばしていた箸を置いてから池の方に歩いて行った。犬でなければ人でもない。では何かが池で一泳ぎしたのか確かめたくなったのだった。自分の現実からの逃避の意味合いも否定できないが。

 少々薄暗い、石畳の上を歩いていく。音がした池とは30メートルも離れていない。池の周りに沿うように道が整備されていて、その道の右横にツツジが植生されていた。所々に街灯も立てられていて、灯りにはあまり不自由しなかった。

音を立てたと思わしき、池のほとりには小さな水溜りがあり、その周りに水の飛沫が飛び散っていて、そこに生き物がいて池から上がったという事をありありと示していた。石畳に残る濁った水の量はさほど多くは無く、人間が上がったという感じでは無さそうだ。

肝心の何かは居ない。私が足元に気をつけつつちんたら歩いているうちに消えてしまったのか。いや…。

あった。薄暗い道の上を目を凝らし見てみると、20センチほどの足跡と、その周りの水滴が見て取れる。暗く、どのような形なのかはっきりとは視認できないが、全体的に人間の物より丸っこいそれは間違いなく生き物の残した痕跡だった。

その足跡は15センチほどの間隔を開けて石畳の上に続いていた。私が近づくのを知って逃げたのだろうか。その足跡を追って進んで行くと、ツツジの密生した辺りに入っていた。

耳に茂みを掻き分ける音が届いて、思わず小走りしながら茂みに飛び込んだ。


そして、河童を見た。


それは体長1メートルほどだった。体格は子供のように細く華奢で、四肢が細長い。だが背中に亀のように深緑色の甲羅を背負い、鴨のような短く、くすんだ黄色の嘴を生やした身体は子供とは言い難い。よく見ると手足は人間に似ても似つかない。小さく丸っこい手足には隙間なく水かきがついているのだ。肌は甲羅と同じような深緑と黄緑のまだら模様が広がっており、まだ水で濡れてわずかな街灯の光を反射していた。正真正銘、まさに絵に描いた様な河童の姿だった。


絶句するしかなかった。流石にこの結果には言葉が出ない。ほんの微かに足が震えた。

いや、まさか、好奇心のみで河童を見つけるなんて。私の目の前で河童は、小さく身体を震わせた。河童の嘴が少しずつ開いていく。



「…尻小玉なんて抜かねえよ?」


「…はい?」


河童に話しかけられていた。その身体に似合わない高い音色だった。丁度子供と同じくらいで、僅かに驚きと恐怖が音色に滲んでいた。それ以外では、完璧な日本語だと言えた。


「あ、いや………何か勘違いしてる者が世の中には居るもんだから…別に魂なんてとれるわけじゃないんだ、そんな器用な真似出来っこないし」


「あぁ、そうなのか…いや、そうじゃなく」


「あ、おいら、肥前の奥から来たんだ」


「いや、そっちでもなく…」


河童に自己紹介されていた。もっと驚くべきなんだろうが、話していると人間ではないと信じられなかった。だがその丸い目に宿った光や身動ぎする足、濡れたままの甲羅を見れば作り物では無いことは明らかだ。何と言おうか、彼を引きとめなければならない気がした。話を聞いてみたい気もしたし、河童と遭遇した人間の義務感というか。

 河童に遭遇し、話掛けられた混乱が頭から抜けない私は、頭に浮かんだ事をそのまま口走っていた。


「…きゅうりがあるんだが、食べていかないかい?」


河童はわずかに身を震わせた後に黙ってしまった。きゅうりが好物という話は尻小玉と同じように迷信だったのだろうか?人間に誘われるとは思わずびっくりしているとか?というより、何故私は河童にお誘いをかけているんだろうか?狼狽のあまり失敗を犯した気がする。しかし河童はこちらの目をしっかり見据え、子供がおもちゃ屋のショウウィンドウを眺めるような純粋な目を光らせて、


「た、頼むよ!食べさせて!」


了承していたのだった。



「つまり君は、移住先を探しに来たのか?」


「うん。おいら達の沼が、騒がしくなってきててね」


 

河童は弁当の付け合わせのサラダにあったきゅうりの薄切りをとても旨そうに咀嚼した後、自分が何故ここに来たのかぽつぽつと語り始めた。自分の家族が住む沼のすぐ近くまで人間が入り込むことが多くなり、危険を感じるため他の移住先を探している事。近くの川を経てこの公園の池に入り込んだ事。人間の痕跡があるのに気付き、気になって陸に上がった所、私に見つかった事。


「まさか人間の場所だとは思わなかったよ。良い沼だと思ったんだけどね」


「あー、その…人間がいると厄介なのか?」


「そりゃあそうだよ。人間はおいた達の事をあまり知らないから、誤解される事が多くてね。最近おいらの子供が、沼から顔を出した時に鴨か何かと間違われて鉄砲で射たれてね、小さな弾が沢山水面で弾けたんだ。当たらなかったけど、怖かったって言ってたよ」


「…そうか」


 

そこまで危険な目にあったのなら、新しい住処を探すのは当然と言えるかもしれない。

子供のような体格と声を裏切るようだが、彼は父親だったのだ。胡瓜を食べた時の上機嫌な彼とはうってかわって、目を細め、苦しみ、悩んでいるようだった。声の調子を戻すように、彼は言った。


「正直言って、他の生き物が干渉してくるのは良くあることだから、あなたが気にするほどじゃないよ。ただ、今回はちょっと危なかったってだけでさ」


「でも人間がやった事だしな…責任を感じずにはいられない感じだ」


「河童も人間も人それぞれだよ、あなたみたいなやさしい人や、聖人も極悪人も混在してるんだ」


彼はそういって目を細め、けたけたと笑った。休憩室で私に悪意をぶつけたあの社員とは、根本的に違っていた。


「この池、一番の候補だったんだけどね。人間がいると住めないなぁ、いい感じの深さだったんだけど」


「池を選ぶ時の基準があるのか?」


「勿論。まず大きく深くなければ食べ物になる魚も草も集まらないからね。家族を住ませるんだから、良いとこじゃないと」


「家族想いなんだな」


「あなたもそうじゃないの?優しそうだしさ」


思わずどきりとした。優しそうと言われるのは久しぶりで―――それを最後に言ったのは妻だった。私の中で、明朗で微笑みを浮かべていた過去が現在の姿と重なりあった。


「…どうかな。家族想いならもう家に帰ってるよ」


「じゃあなんでさ?河童にきゅうりをくれるような優しい人が、何で家に帰らないんだ?」


「人間にも問題があるんだよ」


「そうやって煙に巻いても解決しないよ。少なくとも、こういう問題はそうだと思う」


ここで打ち明ければ…何かが変わるかも知れなかった。会ったばかりの河童に打ち明ける様な事では無いかもしれない。だが彼は、自分の抱える問題、自分の家族にしっかりと向き合っていた。私は持たない物を持っていた。


「………何と言えばいいのか仕事があるんだ。そいつが曲者でね、朝から夜遅くまで働いて、休日まで奪っていくわけだ。で、妻がある。初めて子供を産んで、何をすればいいのかまだ良く把握できていないんだ。子供に手一杯で、疲れてる。夜泣きで夜も満足に眠れなくて、不出来な夫の世話までしなきゃならない。そして、いつも独りなんだ」


まるで自分の罪を告白しているかのようだった。私はこの河童、この父親と比較してあまりにも矮小で無気力だった。彼は自分を顧みず、ただ家族の生活のために続けたのだ。そこには自己保身や妥協など無かった。私は最初から選択肢を投げ捨て、逃避に走っていただけだ。比べるのもおこがましいほどであった。河童は、子供に語りかけるように言葉を綴った。


「…あなたはそれに向き合うしかないよ。とても辛いと思う。泥沼に口まで沈んで、あなたも奥さんも、誰も助けてくれないような気分を味わっているんだと思う。だけど、正面から、ちゃんと見ないと駄目なんだ。自分にどんな事が出来て、何故苦しんでいるのか、最初から見つめ直して行動するしかないんだよ」


「君にはそれが出来てるのか?」


「分からないよ。ただ、そうだと信じるしかないんだ。あなたには、きっと出来るよ。とても優しくて、我慢強いからね」


私は彼の言葉を、自分に言い聞かせるように頭の中で反復していた。河童はそれを見るとほんの少し顎を下に動かし、ベンチから立って、歩き出した。きっと旅に出るに違いなかった。父親としての責務を果たそうとしていた。彼は池に飛び込み、陸に揚がる時と同じように音を立ててから、見えなくなった。



マンションの前まで歩き終った頃には、自分が何をすべきか整理し終えていた。鍵穴にキーを差し込んで捻り、扉を開けても妻の迎える言葉は無かった。一か月続けたサイクルが狂った事を不審に思いながらリビングへ進んだ。


妻はもう眠っていた。リビングの電灯はつけっぱなしになっていて、彼女は椅子に腰かけ、テーブルに突っ伏して寝息を立てていた。その顔の向こう側には小さな赤ん坊のためのベットが安置されていて、彼女はずっと娘を見守っていたのだと解った。その顔は汗でじっとりと汗ばみ、苦しげな表情を浮かべていた。

私はそっと妻の手を取った。毎日の水仕事でまるで手に水虫が罹った様に荒れていた。


彼女はこの手で娘を守っていたのだ。たった独りで、夫が捨てた義務も背負っていた。その額に軽く口付ける。その苦しげな表情が、ほんの少し和らいだ事を確認すると、テーブルに突っ伏している彼女の身体をゆっくりと起こし、膝の裏に左腕を、右腕を背中に回して、彼女の首に負荷を掛けないようにゆっくりと持ち上げた。余計な振動を与えないようまたゆっくりとベッドまで運んで、降ろす。

風邪を引かないようにタオルケットを掛けた。


私はリビングに戻り、ついさっきまで妻が突っ伏していた机まで戻り、座った。


何時ものようにベットに潜り込みたい衝動があった。だが今日、父親としての責任を果たすために正面から向き合う覚悟は出来ていた。私の中に、家族のために努力を続ける河童の背中が克明に映っていた。


初めて小説を書き、一応の区切りをつけてみて思ったのですが、私が「続きはよ!続きはよ!」と感想を投稿していたのは途轍もなく愚かな行為だと気付きました。ええ。

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