S病院にて
S病院に着いて、まず規模の大きさに驚いた。本院を挟む別病棟、入院棟、さらに研究棟。国道からすぐの入り口を抜けると立体駐車場に繋がり、そこから本院まで歩いて五分はある。敷地の中には体育館らしきものがあり、入院患者やデイケア利用者向けの運動施設である。さらに看護師専用の柔道場まであるという。二名の警備員の横を抜けエントランスをくぐると、部門に分かれた総合受付。
初診で二時間待ちのところが、診察まであっという間だった。玲奈に奥までひっぱられて、看護師の処置ですぐ手当の必要のないことが分かった。念のため勤務医が診るが、拍子抜けされてしまった。
「わたくし、心配しましてよ!」
玲奈がまだ充血したままの目で睨む。んなこといったって、人の話きかないんだもん、この娘。自分で歩けるってのに、リムジンまで呼んで輸送するんだからまいった。
「でも、お怪我が軽くてよかった……わたくし、死んじゃうくらい心配してたの」
玲奈はひとり言のように呟いてから、
「ちょっと待っていてください」
そそくさ席を外した。
ふと、視線を感じる。さっきオレを診た、勤務医の四十くらいの男だ。中々の美形で白衣に身を包まなければ中年モデルでも通りそうな印象。唇は薄く冷静そうで、先細りの鉤鼻が鋭い感じも与える。
「君は武道でもやっていたのかね?」
突然の質問。診察の続きなのだろうか。
「どうしてですか?」
「まず姿勢だな。それにその落ち着いた腹式呼吸。加えて爪先に重心を置いた歩き方。靴だって踵の方が擦れてないだろ?ふつうの人はそんな歩行法はとらない。触診しても、意外と体に筋肉がついている」
「まあ、昔、オヤジに少ししごかれて」
あいまいに言葉を濁す。あまり触れられたくない過去だ。
「あとは目だな。君の目の光だが、君、人間の眼の光とか輝きというものは、いったい何に由来するか分かるか?」
突然でこの医者の真意が分からなくて困るが、持ち合わせの知識をざっと動員する。
「外界から入った光が虹彩の色素細胞で反射して光っているように見えるんでしょう?目の色が人種で違って見えるのも、この虹彩の色素の違いによります」
「ほう、君はよく勉強している」
医者は愛想よく笑って、
「だが、虹彩の光がその人その人でどういう具合に輝くか、解剖学的には明らかになっていないんだ。人間のコミュニケーションにおいて、目が情報の伝達に果たす役割は非常に大きいしな。東洋医学では、目で神気、生命エネルギーだと思えば宜しい、を診るという。例えば末期がんなどで見込みのない患者は、今にも消え入りそうな、弱弱しい光をしているよ。冷たいようだが、余命が分かるんだね。君の目には、けいけいとした力がある」
そう言って、鉤鼻の医師は値踏みするようオレを見つめた。
うーん、臨床家の経験談としては面白い話だとは思う。だが、淡々と患者の末期について言及する彼のその目の光とやらは、どこかしら、人を冷たく見据えるもの特有の毒けたものがあった。それは明るい笑顔に紛れてすぐ消えてしまう、よく見れば気のせいのようなものだけど。
「面白いお話ですね。他にも例はありますか?」
「うん、経験にすぎないが、例えばアンフェタミンを摂取して運び込まれた連中なんか、目が刃物みたいにギラギラしているな。一方で、ある種の精神薬を服用し続けた患者は、どんよりしている。ところでわたしの言った意味は分るかな。試しに講釈してみてくれ」
このひと、やけに専門的な話を、高校生のオレなんかに試みるなあ。と、思いつつも、以下のよう返答する。アンフェタミンは一種の薬剤で、化学的には、快楽をつかさどる脳内物質のドーパミンから、水酸基を取ってメチル基をつけただけの分子構造である。ドーパミンそのものは実は脳関栓を抜けられないが、構造がほんの少し違うアンフェタミンは通り抜けられる。こうして脳内に残留し、人間に異常な興奮や感覚をもたらす。これは要するにシャブだな。ちなみにこれと似た化学式の物質にヒロポンがある。
精神病院では、覚せい剤中毒者も一種の精神病者とある程度まとめて扱われる。一部の精神病はドーパミンの過剰分泌に原因があるといわれている(ただし、あくまで仮説)。覚せい剤で壊れた人間とは予後が似ているからだ。両者とも、ドーパミンの分泌を抑える薬を用いる。さっきの話だと、興奮が目のギラギラに表れているのかな。
「うん、君は随分詳しいが、どこで学んだのかね」
「独学です。医者になりたくて。専門書を、はしばし斜め読みくらいはしてます」
医者は軽く頷いて
「中々だ。高校生でこれなら、及第点かな」
何やら彼は一人ごつと、鋭い眼光でオレの目をのぞきこむ。
「君が怪我させられたんじゃなくて、させたんだろ?」
「…………」
「悪いことは言わん、K会には関わらない方がいい。悪辣で、しろうと相手にも何をするか分からぬ連中だ。県内のシャブはほとんど彼らがさばいている。子供のケンカならいいが、冗談でも相手にしてはならない。娘は気が弱いのだから」
「なんのお話ですか」
診察室の奥の扉が開く。そとで途中から立ち聞きしていたのだろう、入って来たのは、制服からフリルのロリータ系な服に着替えて来た玲奈だった。
「すまん。玲奈のフィアンセだと聞くものだから、自分で診察させてもらったよ」
「フィアンセだなんて……先輩の前で恥ずかしいわ」
この展開つーか。もしかして、もしかしなくても。
「ごめんなさい、だますつもりはありませんでしたの。どうしても先輩と二人きりで会ってみたいと聞かなくて。改めてご紹介します。こちらは私の父、天王寺 傑臣です」