彼女は箱入りお嬢様
翌日、オレはけだるい身を引きずって、学校へ歩いていた。春あけぼの、朝日がようよう黄色く見える。ケツが痛いのは我慢する。死なずに済んだのを喜ぶべき。
「おはようございます、篠崎先輩」
何とかいつもの交差点までたどり着いて、女の子の声に呼び止められた。一声聞いて、空気を震わすそのか弱い躯の美しい曲線を想像できる、そんな声に振り向くと、期待を裏切らぬ、濃紺の制服姿。オレの彼女の玲奈だ。
「どうなさったの先輩、変な顔して?」
「あ、ああ……別に。それよか行こうぜ」
怪訝そうにする玲奈をごまかして、オレは行くさきをうながした。内心のやましさを微塵も悟らず、少し恥ずかしそうに玲奈はついてくる。
「そうそう、今日はお弁当、作って来ましたの」
よく見れば今日は余計な鞄ひとつ提げている。玲奈は料理の経験がないと聞いていた。
「最近お料理の先生をお願いしたの。先輩にどうしてもおべんとう食べてほしいから」
玲奈は一ッコ下、去年、知り合ったばかりだ。家事などは全てメイドさんを雇っているという玲奈の実家は、聞けば大病院を経営している相当な金持ちだ。入学したばかりはリムジンで通学していた玲奈のことを、マンガのような話だと思っていた。彼女が入学以来の注目を独占していたのは言うまでもない。一見してオレに縁のない高嶺の花が、急に手の届く存在にかわったきっかけが、体育祭。立場上「先輩」だったオレは、不器用なくせに何でもがんばる玲奈の面倒を見るうち、親しみがわいていた。ちやほやされているような玲奈も周囲が遠慮するので、実は寂しかったらしい。すぐにうちとけた。今ではオレと登校するためにわざわざ電車通学をしている。
「わたくし、包丁なんて一度も持たせてもらえなかったの。手作りチョコも、先輩にって、初めてって、すごくがんばったんだから!」
包丁を握ったことがないなど、往来で包丁を振り回す女と大違いだ。本当に美也の奴、なんとかしないと……。
昼休み。「おべんと」を早く召しあがってとせっつかれながら、学生食堂で玲奈としけ込んでいた。学年が異なる以上二人で落ち着けるのは、登下校を除いて、今だけだ。そんな事情を知っている他の連中は、そしらぬ顔でこちらをうかがって来る。当人の目の前で口汚くうわさばなしをする者もいたから始末が悪かった。
「なんで天王寺が、あんなヘタレ野郎とデキてんだろ」
「顔と成績がちょっと良いだけなのになぁ。なぜか、卒業したヤバめの連中からも一目置かれてたし」
「それってゴマすりとかおべんちゃらが上手いだけじゃね?」
「顔だって全然大したことねえよ、実は。よく見れば中の下かそれ以下」
ちゃんと聞こえてるぞ。オレは地獄耳なんだ。後で名前とクラス住所チェックしとくから覚えてろよ。聞こうと思えば、家の外で枯葉が一枚落ちたって分からあ。まして耳に神経を集中すれば……
「なに鼻の下伸ばしてるのかな?」
突然冷ややかで圧倒的な存在を背に感じ、仰天した。長き黒髪をたなびかせた雪女のごとくいつの間にか現れた美也が吹雪をまとっていたのだ。
「げぇ、美也、お前なんでここに!?」
「大学志願の書類、忘れ物がある。由香叔母さんに頼まれた」
こいつ神出鬼没な。妖怪め。忘れ物だって?学校に来る口実にしただけだろ。書類は自分が抜きとったんじゃねえの。よく見れば、つっけんどんにしていてなにやら焦ったようなイラついたような雰囲気。
「おい、あのスレンダー美人、誰だよ。教育実習?」
「それにしちゃ派手だけど。つか、修羅場かな?」
早くも、周りの不良どもが好奇心を掻き立てだした。美也は高校に進学しなかったから、ここでは一部を除いて知られていないのだ。
オレは冷や汗をかいた。こいつのこと、玲奈が見たらなんと思うか。ただの友達だって説明しても、ややこしいのには変わりない。美也はすましていて、女にしては直線的な濃い眉が痙攣している。よく分からないが、とにかくオレの邪魔がしたいようだ。
「あのな、玲奈、こいつは……」
「まあ美也さん、ごきげんよう」
「こんにちは、玲奈ちゃん。今日も元気そうね」
玲奈はにこやかに美也にお辞儀。茫然とするオレを横目にそのまま女二人でキャッキャウフフ。え?こいつら、いつから知りあいに?玲奈は笑って、
「美也さんは、お料理を習っている先生のお弟子さんなの。それでいっしょにお茶飲んだりお料理つくったりします。先輩のことも、色々教えてくれるんです……どうしたの、先輩?」
急速に真っ蒼になってゆくオレを眺め怪訝がる玲奈。美也はすまし顔でどかっと横に座ってお茶を啜る。こいつ昨日の時点で玲奈のことを把握していたんだな。バレンタインのことを知ってたくらいだ、予め俺と玲奈のことを嗅ぎまわったうえで、玲奈に接近しやがった。玲奈と別れさせ、オレに嫌がらせするため。そこまでするか、ふつー?バレンタインすっぽかしたくらいで、それも彼女でもない女が?あれ、バレンタインって、確か昨日だったよな。……なんか昨日から色々ありすぎて百年くらい隔てた気がする。
「ホラ、ぼけっとしない、さっさと書類始末しな」
美也は封筒といっしょになめらかな黒の上物の万年筆を手渡した。背筋の凍るような微笑とともに。
「彼女のプレゼント、ちゃんと持ってなきゃ。嫌われちゃうよ?」
「…………」
「あら、B医大……わたくし、そこの試験、学費が免除になるから、とても難しいと聞きましてよ」
玲奈はそんなやり取りに気づかず願書の封筒を目にとめるとのんきな声を上げた。玲奈は優しい、純粋な子だ。少しもオレと美也を疑うことを知らない。なのに気まずげな空気の変化にはすぐ気がついた。
「うん、勇はね、家庭の事情で……」
さすが美也もお茶を濁す。こいつにしては珍しく沈んだ表情。頭のいい玲奈は、今のやりとりで何か察したようだ。少し悲しげになって、
「一度お父様とお会いしませんか?」
「オヤジさんって、たしか病院長だっけ」
「はい、S病院長兼理事長です」
玲奈が誇らしげに頷いた。
S病院と言えば、精神科の総合病院として、地元のみならず、全国的に有名だ。精神科、神経科、心療内科を主に、内科・外科、入院患者のための歯科まである。精神関係の各科を統合した連携医療が受けられるのが長所で、外来を積極的に受け入れながら入院のための二千床を擁し県外から通院に来る者までいるという。天王寺院長は医師会では知らぬ人のいない程の大物だ。
「わたくしが言うのもなんですけど、お父様は国立T大病院はじめとして、あちこちの医学部にお知り合いがいますし、苦学生のため医療法人天王寺会が醵出する奨学金もあります」
「それって、勇に玲奈ちゃんのとこの勤務医になれってこと?」
美也が口を挟んだ。
「精神科医なんて、気味が悪い。S病院の医者は冷たいって評判だし」
「止せよ美也!」
オレは美也を怒鳴ったが、でもこいつの言うことにも一理ある。こういう言い方がまずいのは百も承知だが、正直精神科には良いイメージがない。かびた病棟、治る見込みのない精神病者、不潔、絶望、日常的な虐待。世間一般の理解ではそうだし、俺が知る限りでも、日本の精神医療は欧米より七十年は遅れている。
それに対して「そんなことはありません!」と玲奈は力説する。精神病院が酷かったのは一昔前までで、その反省から、近年では目覚ましく改善されているという。特に玲奈のお父さんの運営するS病院は「いつでも、どこでも、だれでものトータルケア」をモットーにしている先進的な病院だとか。
「そういう偏見が、患者さんや現場を苦しめているんです!」
そう言われれば、反論のしようがない。正論だし、玲奈のような愛くるしく可憐な乙女に力説されてはなおさらだ。オレは自らの醜さを反省した。
それにだ。よく考えれば天下のS病院院長にコネができるなんて悪い話じゃない。本物の医者に現場のことを聞いてみたくないといってもウソになる。ガキのころから憧れていた医者の世界を、間近にするチャンスだ。
「そうだな。一度お父様にごあいさつさせてくれ」
「はい!」
「勇、あんたそれがどういう意味か分かっているの?」
冷たく問う美也とは反対に、なぜか玲奈はすこし赤くなっている。
「なにが?」
美也はオレを睨んでから、諦めたようにふいと溜息をついた。
「そう……じゃ玲奈ちゃん、お邪魔しちゃ悪いから。またね」
「いえ、邪魔なんて、いつでもいらして。ごきげんよう」
美也は帰って行った。オレの横を通り過ぎる時。
「お姫さまに、ご無礼のないようにね」
はて、何を言ってるんだか、あいつは?相変わらずわけのわかんね。とにかく、油断のならぬ。玲奈の前で猫をかぶって、油断させる腹か。
「さて、おべんと食べてくださいね。早くしないと昼休憩終わっちゃいます」
忘れていた。オレは開けた大口に玲奈の料理を放り込んで、そしてオレは青ざめた。
「お口に合いまして?」
弁当は三人前のビッグサイズ。玲奈の笑顔が無垢すぎて生きるのがつらかった。