8章・悪友と喧嘩
ジリリリリリリリリ!!!
静寂の朝の自室に、目障りで不快な機械音が鳴り響く。
現代の電子音によるデジタル時計の目覚ましではなく、一昔前のベルを叩く打撃音によるアナログ時計の目覚ましだ。
しかもそれ自身が発する音だけで無く、本体が振動しているせいで起こっているゴトゴトと机の上で暴れ回るような音まで出しているため、とてつもなくうるさい。
「………うるせぇ」
まだ肌寒い気候の中、楽園の如く暖かいベッドから出るのは嫌だったので、精一杯手を伸ばしてガラステーブルに置いてあるはずの時計を手探りで探す。
右へ左へ後へ前へ。…だが、机の上にあるはずの俺の時計は何時になっても俺の手中に収まる様子はない。
…それどころか、爆音の音源は、次第に近く、大きくなっていくような気が…………。
「起きろ、遼!!」
聞き覚えのある、というか昨夜聞いたばかりの声が聞こえ、その後一瞬で今の状況を理解して、自分の危機を悟った頃には、すでに遅かった。
耳に押し付けられた物質が放つ爆音に、曖昧だった夢と現の境界線は木っ端微塵に粉砕され、俺は無理矢理夢の世界から引きずり起こされた。
「うっ…ぎゃああああああああああああッ!!!!??」
目覚ましの音にも負けないほどの凄まじい叫び声を張り上げながら、俺は午前7時30分、いつもより少し寝坊気味で起床した。
――――――――――――
「――ったく……一体何だったんだ、あれは…?」 食卓という名のガラステーブルに並べられた朝食のサラダを右手のフォークで口に持って行きつつ、左手は朝一番のブラックコーヒー(ホット)の入ったマグカップを持って、更に頭の中では、先程の怪奇現象について試行錯誤している。
目覚まし時計が鳴ったのは、別におかしいことではない。俺は非常に寝起きが悪い上に、デジタル時計の電子音ではピクリとも反応しないほどに眠りが深いため、あのベルの強烈な音でなければ確実に定時に起きられないのだ。時間も7時30分ちょうど。それは間違いない。
しかしそれだけでは、何故目覚ましの音が近寄ってきた…もとい目覚まし本体が俺の耳もとまで迫ってきたのかというこの問題の根幹に位置する事実の答えにはたどり着けない。
叫び声をあげながら飛び起きたあと、俺はすぐさま周囲を見渡した。
耳に音源を当てられる寸前に聞こえた、「起きろ、遼!!」という少女の少し高めの声は、確かにこの部屋の中から発せられたものだった。
だから約二畳半ほどの部屋の中を、文字通り穴が開くほど睨みつけた…のだが…。
「……誰もいない……」
人影どころか、そこに人がいたという痕跡すら残ってはいなかった。
「…う……寒気がしてきた……」 冬でも無いのに、体がブルッと震える。鳥肌も立ってきた。
念のため言っておくが、俺は幽霊やら妖怪やらオカルトの話を信じている訳ではない。吸血鬼の存在を知った今でも、根底にあるその考えだけは変わらない。
……けど、この目の前で起きた怪奇現象だけは、幽霊のせいにでもしない限り説明の仕様が無い。
「…だ、誰かいるのか〜…?」
…。
当然ながら、返事はない。
「な…なんなんだよ…一体……」
シン、と静まり返った部屋にはもちろん何もおかしいことは無い。
…が、今はもう感じない違和感の正体を探し出さなければ、飯も喉を通らない。
――という訳でその後、様々な場所を探し回ってみたのだが……。
台所・昨日シルヴィアのところに行く前に食べた肉じゃがの残り物が悪臭を放っていたこと以外、特に異常無し。
玄関・さっきの俺の叫び声に目が覚め、ご立腹の様子で扉をドンドン叩いている隣の厳ついお兄ちゃんの存在以外、特に異常無し。
押し入れ・扉を開けた途端、詰め込まれていた邪魔な荷物が雪崩の如く崩れ落ちてきたこと以外は、特に異常無し。
洗面所・脱ぎ散らかしていた服に躓いて脱衣所の壁に顔から突っ込み、顔を押さえながら風呂場に入ると今度は桶の上に足が乗ってしまい、滑ってそのまま冷水と化した湯舟に頭から突っ込んでしまったこと以外、特に異常無し。
……とまぁ、俺の肉体的・精神的負担が嵩んでいく以外には特におかしいところもなく、人が居たという痕跡すら存在しなかったのだ。
――――――――――――
「――ってか…単に片付けが出来てないから、こんな目にあってるだけじゃんかよ……」
和風ドレッシング入りサラダを平らげた後のアイスコーヒーを啜りながら、我が家の現状を憂いる。
仄かなカフェインの苦味と部屋の惨状に対する苦い感情が混じり合い、絶妙|(に奇妙)なハーモニーを奏でている。
その苦味とさっきの水風呂の冷たさで頭は覚めたはずなのだが……どうにも気分はすっきりしないまま、ボーッと周囲を見渡している。
「……そういや、ここに住み始めてから、もう一ヶ月も経つのか……」
自分の座っている座椅子の周辺、及び部屋の中に散乱したものを眺めながら呟く。
床にはスナック菓子、清涼飲料水、その他諸々の箱、袋、ペットボトル等が放置されている上に、ごみ箱は既に溢れ返って山の如く積み上がっている。
洗濯物はベッドの上下、テレビの周辺、タンスの上、洗濯物カゴ……ありとあらゆる場所に散らかっている。確か……一週間ほど洗濯が出来てなかった気がする。
他にも、タンスから衣類がはみ出ていたり、お菓子の食べカスが床に落ちていたり、ゴミ袋が玄関の近くに溜まっていたり…。
「……なんで片付けが出来ないんだろな、俺……」
自分で言ってて非常に悲しくなるが、事実なので仕方が無い。
…考えてみれば、一昨日もゴキブリが出たばっかりだし、最近玄関から妙な臭いが発生し始めたし…。
不良は殴り飛ばせば済む話だが、ゴキブリはそうも行かない。潰しても潰しても立ち上がる不屈の生命力、例え一匹倒しても次の個体が現れるその個体数、人の手からすらも逃げ延びるその足の速さ。奴らの強さは、挙げても挙げきれない。
…もし、この俺の部屋が、この大量のゴミによってゴキブリの巣窟と成ってしまったとしたら……。
「…掃除しよう。絶対しよう」
俺は固く心に誓ったのであった。
――――――――――――
「――とは言ったけど……」
あの後すぐに掃除を始められるだけの時間は、俺には無かった。
時刻はあの時点ですでに9時十分前。今日立てていた予定の時刻の十分前で、正直もう家でのんびりしている暇すら無いほどに切羽詰まっていたのであったのだ。
だから一分で食器を片付け|(台所に放り込む)、三十秒で寝巻から着替え|(散らかってた服を適当に着る)、二分で身なりを整え|(顔を洗って歯を磨いただけ)、三分でマンションの六階から下まで駆け降りて、現在予定の時間まで残り四分弱で、目的の場所まで走っているというわけなのだ。
まぁそこまで時間に正確に行く必要も無いのだが、流石に歩いたから遅刻したなんて言い訳はしたくはない。だから走っている。
というか、マンションの玄関から走り始めてもう十分は過ぎているはずだ。もう無理だ。諦めて遅れよう。
…と、ほぼ諦め半分で走るペースを緩めてから、ジョギングくらいの速さで走ること数分、ようやく目的地の看板が見えてきた。
『DOLL COFFEE』…全国にチェーン展開されているコーヒー店、ドールコーヒーが今回の待ち合わせ場所だ。
時計が指す時刻は、9時12分。
どう考えても遅刻ではあるが…。あいつらのことだ、許してもらうこと自体は難しくないだろう。
何せ、今回の待ち合わせ相手は――
「――あっ、神谷くんやっと来た!」
「…あっ、遼ッ!!一番家が近いくせに何でオマエだけが遅刻してんだよッ!!」
――おっとりお嬢様とアホのオタク浪人生だからな。
「――悪ぃ、冴宮、和也。遅れた」
ドールコーヒー店内、入口から見てすぐ右のテーブル席に、その二人は向かい合って座っていた。
冴宮 御鈴…は、もういいだろう。俺と同じ予備校に通う高校三年生、帝大の受験者だ。
もう一人の奇妙なアニメキャラが描かれたシャツに、やけにパンパンに詰まった緑のリュックサック……非常に整った顔付きが霞んで見えるほどに妙な恰好をしている男、土留田 和也。俺の高校生時代の同級生で悪友。そして重度のゲーマーでアニメオタクだ。
見た感じ、アイドルになれるほどのイケメンで、実際自分がオタクだという事実を隠している間は彼女もいた(写真を見た感じ、彼女のかなり可愛かった)のだが、その熱い(二次元への)愛を知った女性はみなこいつの元を離れていく。それ以降は、その事実が噂となって広まったのか、女性から見向きもされなくなっていた(こいつはその状況を、「二次元への愛だけに時間を費やしていられる」と肯定しているから、別にいいんだろうけど……)。
「――ったくよ。おまえが来ないから、鈴ちゃん一人にして『魔女っ子クローバーDVDボックス・初回特典・クローバーちゃん1/10スケールフィギュア付き』の列に並びにいけなかったじゃねぇかよ!!」
「……ま、魔女……子……なに?」
「『魔女っ子クローバーDVDボックス・初回特典・クローバーちゃん1/10スケールフィギュア付き』だっつーの!!そんなことも覚えられねーのかよオマエは!アキバの民として恥ずかしくないのか!」
「……俺もお前も港区在住だし、そもそもこの場所も秋葉原のメイド喫茶じゃなくて六本木のコーヒー喫茶だろ。アキバ全く関係ないじゃねぇかよ」
「わかってねぇなぁ、遼!!オマエはほんっっっっとに分かってない!!おれ達は確かに『現実では』港区のアパート……オマエは高級マンション…だっけか?…に住んでる。それは認めるぜ。……けどなぁ!!おれ達の『魂』は…『魂』だけはアキバにあるんだ!!根付いているんだ!!……つまり、おれ達はアキバに――」
「ねぇ、神谷くん。この問題の解き方なんだけど……」
「ん?あぁ。こいつはだな……」
「――っておーーい!!聞けよ!おれがアキバの何たるかについて懇切丁寧に話してやってんのに、その態度は――」
「うるせぇ、オタク談議は他所でやれ」
しつこく俺の耳元で大声を上げる和也に左掌底をかまして元の席に押しやり、冴宮が解いている数学Ⅱの問題の解説にかかる。
流石に帝大の二次試験にもなると、一筋縄にはいかない難題共がゴロゴロしている。冴宮が苦戦しているのも、一昨年の二次試験の過去問であるようだ。
――が、二次試験対策問題を既に解き尽くしている俺にとっては、このような問題など取るに足らない。去年のうちに何度も何度も解いた帝大のものなら、直さらだ。「――これを最後に代入すると、こうなるわけだ。分かったか?」
「…すごいね、神谷くんって。土留田くんでも分からなかった問題を、こんなにあっさり……」
「まぁ、一応帝大志望だから………ん?『土留田くんでも分からなかった』?………おい和也。お前確か……志望は帝大の工学部電子情報工学科……だったよな?」
「おう」
一応勉強会という目的で集まっているはずなのに呑気にPSPで遊んでいる和也は、ゲーム画面を食い入るように見つめながら軽い返事を返して来る。
「……なんでそんなところを志望してる奴が、この問題を解けないんだよ……」
少々呆れた表情で呟くと、PSPを(ちゃんとスリープモードにしてから)鞄に放り込み、机をバンッと叩きつけてくる。視界の端で、問題に向かっていた冴宮がビクッと震えたのが写った。
「仕方ねぇだろッ!ここ最近ギャルゲプレイとアニメ鑑賞に忙しいんだよッ!悪ぃかッ!!」
「悪いわ、ドアホッ!帝大受けるような奴が勉強せずして何をオタク道に走っとるかッ!!恥を知れッ!!」
前から薄々アホだとは思っていたが…、まさかここまでアホだったとは思わなかった。
和也が文系だったならまだ許すだけの余地はある。俺も法学部第三類を受けるつもりだから、最低限センターと二次に必要な分の数学しか勉強してないわけで、主として英語や国語、あとは政経なんかの勉強をしているぐらいだからな。
…だが、数学や理科が受験科目の中心となっている理系……それも数学や物理等の計算系を重視する情報学部を受けるとなれば、並大抵の計算能力ではまず合格はできない。それゆえに過去問レベルの問題は、解けずとも考え方が理解できるぐらいになっておかなければならないはずなのだが……こいつは何一つ分からなかった、つまりは歯がたたなかったらしい。文系の俺でも解けた問題を。
「……お前、この前の模試の順位は…?」
「…17652位」
「メチャクチャ落ちてるじゃねぇかよッ!!」
奥に引っ込んで小さくなった和也の代わりに、今度は俺が机を叩く。一瞬チラッとこっちを覗いた冴宮が、またビクッと震え、サッと問題に向かい直った。小動物みたいだ。
「――お前は前からそうだ。趣味にばっかり走って勉強しないからそんなことになるんだよッ!才能があったとしても、それは高校の間だけの話だ!!それでよく帝大を受けようと思ったな!」
流石に俺も言い過ぎたと思ったが、もう歯止めが聞かなかった。思っていたことが留めなく流れ出てくる。
和也も俺の言葉にイラッときたのか、立ち上がって机に勢い良く手をついて、俺と同じ様に前に身を乗り出して来る。
「あーあーそうですよ!!どうせおれはバカだっての!!良いよなぁ、全国模試で毎回十位以内に入れるぐらいの天才君はよぉ!」
「今はそんなこと関係ないだろうが!!」
もう、お互いに歯止めが効かなくなってしまっていた。
朝っぱらから怒鳴り声を散らしながら大喧嘩をする浪人生二人組がそんなに珍しいのか、周囲の客が席から身を乗り出すようにこちらを窺ってくる。
どちらを止めれば良いのか分からないのか、冴宮は俺と和也の顔を交互に見ながらわたわたしていた。
当然、頭に血が上っていていた俺と和也は、そんな周囲のことなどまるで気に求めておらず、喧嘩はよりエスカレートしていた。
「おれは昔っから、オマエのそういう鼻にかけた言い方が大っ嫌いだったんだよ!!いい加減治しやがれ、このボケッ!!!」
「うるせぇな!!これは生れつきだ!そんなもんよりてめぇのその二次元のことしか考えられない悪癖から治しやがれッ!!このド変人ッ!!」
「なんだとぉ……。二次元が好きで何が悪いってんだよ!!勉強のことしか考えられねぇ堅物なんかよりは一億倍マシだッ!!」
「誰が堅物だ、軟弱人間ッ!!そんな考えしかねぇから成績も落ちるんだよッ!!」
――ここらへんの口げんかの内容は、頭に血が上っていてあまり記憶に残ってはいなかったのだが、冴宮曰く「最後の方は最早、ただの悪口の言い合いになっていた」らしい。
俺も和也も一歩も退かず、どちらかが言えばまたどちらかが返す、どちらかが押したかと思えば、またどちらかが反撃する。『言葉』でなく『悪口』で、『キャッチボール』でなく『ドッジボール』を…そう例えると早いらしい。
…俺達の間にテーブルが無ければ取っ組み合い殴り合いの喧嘩に成っていたかもしれない、それほどまでに空気がピリピリとして、一触即発のムードが漂っていたらしい。
――しかし、その空気は以外にも、それも第三者の手によっていとも易く破壊されてしまったのであった。
「――うわっとっとっ……キャッ!?」
俺達の席の近くを唯一通っていたここの店員が、なぜか何もないところで躓く。
バランスをとれていたのもつかの間、フラフラと危なげによろめき、そしてそのまま体制が崩れ、手に持っていたトレイ及びそこに乗っていたコーヒーが宙を舞い、バシャンと音を立てながら、ちょうど軌道上にいた俺に――
「――っあっちぃぃぃぃぃぃぃ!!!!!??」
――中のホットの液体が顔面に満遍なく降り注いだ。