6章・月光と決意
「シル……ヴィア……。…お前……どうして……ここに……?」
満月の光を背に浴びたシルヴィアは、二本のマンゴーシュを左右の手に握り、腕を交差させるように俺の前に立っている。
チリ…と微かな音を立てながら、その刃は火花を散らしている。
――俺を狙う二つの銀の刃と、俺を庇う黒と白の剣。
シルヴィアは涼しい顔でその刃を受け止めているが、その剣の操り手は両者とも男。…しかも吸血鬼の、だ。
「理由なんて聞くものじゃないぞ?…よく言うではないか、『人を助けるのに、理由なんて必要ない』…とな」
尚も平静を保ったまま、背後で震えて立っている俺に話し掛けてくる。
…どちらかと言えば、襲撃者の二人組の方が余裕の無いように見える。
――片方の男は、ジョン=ゲイシー。
本名はジョン=ウェイン=ゲイシー。40年代のアメリカ合衆国生まれの連続殺人鬼。四十年の短い生涯の中で、三十三人の少年を殺害した有名な猟奇殺人犯だ。
子供を楽しませるためにピエロの恰好をしていたことから、『殺人道化』の異名を持っていたと言われる。
もう片方の男は、テッド=バンディ。
本名、セオドア=ロバート=バンディ。ジョン=ゲイシーと同年代、同じ国に生まれ、彼と同様に大量の殺人を行った殺人犯。
三百人以上もの女性を惨殺し、更に自らの性欲を満たすための道具にしたとされる、アメリカ史上最悪の凶悪殺人鬼。『連続殺人鬼』の原初とされた男でもある。
どちらも十何年か前に処刑、あるいは病死したとされていたはずだが……こうしてこの場に現れたということは、身代わりを使ったか、吸血鬼の力で乗り越えたか、そのどちらかだろう。
『切り裂きジャック』がまだ健在で、しかもこの日本でまた殺人を犯している…という事実を聞かされた時ほど驚きはしないが、警察にとってはいい迷惑だな、と思える。
…だが、問題はそんなことじゃない。
その凶悪犯罪者二名の顔をしかめさせる…それほどまでにシルヴィアが強いのか、ということだ。
幾らシルヴィアが『王の一族』であるにしろ、人殺しに慣れた二人がたった一人の吸血鬼相手に怯むとは到底思えない。
――その間に、圧倒的な実力差でも無いかぎり、だろうがな。
「…分が、悪いみたいだね……。一旦退こう、ジョン」
「はぁ!?ふっざけんなよぉ!ここまで来て、諦めてたま――」
「彼女の二つ名――忘れたわけじゃ、無いよね?」
「…ブラッディ…ローズ……」
「そ。彼女の二つ名は『吸血鬼として』のものだ。君みたいに『人間として』のものじゃない。…当然、この差も分かってるよね?」
「……ちっ…」
あくまで冷静に状況を分析したテッド=バンディに対しジョン=ゲイシーは、明らかに不満げな様子を現している。
二人でかかれば傷一つぐらいは付けられるはずだろうに、それでもテッドには攻める様子が見られない。
…かといって、絶望的になっているわけでも無いのは、恐らくシルヴィアが深追いはしないということを理解しているからだろう。
――俺という、足手まといを抱えているせいで…――
「……しゃーねぇ、ここは退いといてやらぁ。命拾いしたなぁ、餓鬼んちょ」
触れ合ったままであった刃を押し返し、大きく後ろに飛んだ後、シルヴィア…そして俺に向かって、皮肉を込めた笑い声を発するピエロ男。
同時に、その反対側にいた美丈夫も、シルヴィアがバランスを崩した瞬間を見計らって大きく後ろに飛ぶ。
力の入れ所を失ったためか、シルヴィアも一度体勢を崩したが、すぐさま何もなかったかのようにマンゴーシュを構え直す。
左右の刃を裏手に持ち、腕を下ろし気味に構える独特の構え。形こそ整っては見えないが、一部の隙も見当たらない。
「…どうした?男が二人もいるというのに、たった一人の女に怖じけついてしまったのか?」
依然として余裕を持った顔付きをしたまま、少し笑みを含んだ表情で挑発をかける。
「…ま、そういうことですよ。ボクらの様なただの『感染者』程度じゃ、『王の一族』の貴女の実力には遠く及びませんから」
それなのに、この優位を生かそうとしないでこの場で俺を仕留めようとせず、 それなのに、この優位を生かそうとしないでこの場で俺を仕留めようとせず、みすみすチャンスを逃すような真似をするのは何故だ?
…それに、この時点で標的を仕留めそこなったなら、それこそ次の襲撃への対策を練られてしまい、行動が起こしにくくなるはずだ。
――すぐに殺す必要がないのか…それとも、何時でも俺を殺せるのだと余裕でいるのか………。
どちらであったとしても、今を生き残りたい俺にとっては好都合ではある。
「…そろそろ夜も明ける頃だ…。ボクらはこれで失礼します。またお会いしましょう、『血塗れの薔薇』、シルヴィア嬢」
テッド=バンディは、丁寧に深いお辞儀をするや否や、後方に大きく跳躍し、大通りの向かい側の路地の影に消えていった。
これで、残ったのはあと一人。少し気分が落ち着いて、緊張が解けようとした時――
「――これで終わったと思うなよぉ…」
獣が唸る様に、もう一人の襲撃者・ジョン=ゲイシーが憎しみを込めた声を出してくる。
シルヴィアが既に俺とジョンの間に立ち塞がっているため考え無しに襲い掛かって来ることはないだろうが、滲み出る殺気だけは意識の外に追いやることが出来ない。
滑稽な身なりをしていながらも、肌に化粧をしただけでは隠しきれないほどに歪みきった表情からは、逸れ相応の歪んだ笑み――殺しへの『執着』が見て取れる。
「そこの嬢ちゃんのおかげで今回は命拾いできたみてぇだがなぁ……オレ達はそう簡単には諦めたりはしねぇ。リーダー直々の命令でもあるしなぁ」
ジリジリと後ろに後ずさりながらも、威勢の良さだけはまるで衰えていないようだ。
暗闇に溶け込み、見えるか見えないかのギリギリの位置で立ち止まり、再び醜い笑みを浮かべる。
「…テメェは逃げられりゃしねぇ。…ま、次会った時は覚悟しとけやぁ。腰抜かして何も出来ねぇやつ殺すのはつまんねぇから、少しはまともに戦えるようになっとけやぁ」
最後にそれだけ言い残すと、ピエロは下卑た笑い声を上げながら跳躍、ビルの壁を蹴って飛び屋上にたどり着くと、視界の外へと再び跳躍し飛び、暗闇へと姿を消した。
――――――――――――
「――退いたか…」
周囲に人の気配が感じられなくなってから、ようやくシルヴィアも警戒を緩め、構えを解き武器を下ろす。
両手のマンゴーシュをくるくると手の中で回し、その勢いを殺さぬまま、袖の中にある鞘の中へと刃を滑らせる。
その際、彼女の白い絹の様な長髪が風にたなびき、月光を反射して幻想的な光景を作り出す。 その光の中一筋映し出される紅い眼光もまた…この少女が、俺とは違う世界の住民であるという事実を教えてくれる。
「間一髪……だったな。間に合って良かったよ」
俺が怪我してないかどうかを軽く確かめた後、心底ほっとした様な表情を浮かべる。
確かに服にはまだ渇いていない血がこびり付いてはいるが、これは俺の出血ではないから、当然俺は怪我などしていない。
…だが、怪我をするよりも血を流すよりも、ずっと心苦しい生傷を、一つだけ…付けられてしまった。
――一つは、恐怖に足がすくんで、何も出来なかったこと。
喧嘩ぐらいなら、高校生の時に腐るほどやった。だからいざ吸血鬼と戦うことになっても、俺なら戦える、俺なら勝てる……って思っていた。…けどそれは、俺がまだこの世界のことをナメきっていたから、俺の傲慢さが生んだただの勘違いだったんだ。
…それなのに、ジョン=ゲイシー…あの殺人鬼に睨まれ、殺気をちらつかせられただけで、恐怖に頭が支配された。頭が真っ白になった。
――俺は…無力だった…――
悔しい。目の前の人間すら守れなかったことも、たった一人の少女に守られたことも、何も出来なかったことも……。
悔しい。悔しい。強くなりたい。強くなりたい。
自分を守れるくらいに、誰かを死なせないくらいに、あいつらを倒せるくらいに――
「――もう止めろ…遼。これ以上やれば…君の手が……」
意識が現実に戻ってきた時、シルヴィアが俺の右手を胸に抱え込んで、何かを止めるように訴えかけていた。
気付けば、さっきまで何ともなかった俺の右手が、滲み出た血によって真っ赤になっていた。
手に刺さっていた小さな石片、ヒビの入った俺の右側の壁から察するに、俺は知らず知らずのうちに拳を壁にたたき付けていたみたいだった。
――小さい頃の癖が、まだ治ってないみたいだな――
「…悪ぃ。…もう…大丈夫だ…」
「あっ……」
抱え込まれていた手を振りほどき、シルヴィアに背を向け手を握りしめる。
――感情が行動に現れてしまうのは、俺の昔からの悪い癖だ。
昔はこの癖のせいで、俺は感情が高ぶる度に、無意識に人を傷付けていた。中には、骨をへし折ったり、殺しかけた奴もいた。
間違いなくそのせいだろう…俺に近づく人間はほとんどいなかった。
学校でも常に恐れられ、嫉まれ、嫌われ…だがイジメの対象にしようとする人間もいなかった。
先生にも見放された。友達がいないのは全てお前が悪いのだ、と突き放すように事実を言われた。
だから、いつも俺は孤独だった。
そんな俺が友達を作るためにできたのは、テレビの番組の話でも、好きな音楽や漫画の話でもない。『力』で押さえ付けて『屈服』させることだけだった。
そんなことで作れたのは『友達』なんかじゃない。『奴隷』、『部下』、『舎弟』……どれも『友達』――対等な立場の関係には程遠い、力だけで作り上げられた紛い物の関係に過ぎない。そんなことは分かっていた。
だけどその時の俺は、それを嬉しく思っていた。快感に思っていた。例え紛い物だったとしても、それが俺にとっては『人間関係』であることには違いなかったのだから。
俺はひたすら力を求めた。強くなるため努力をした。――全ては、紛い物の『関わり』を作るために。
――そんな俺から、『力』を取ったら、一体何が残る?
…いや、何も残りはしない。俺には結局、『力』しか無かった。
今の…戦えない俺は……文字通り『無力』だ…。
「――君が今考えていることの全ては、私には分からないし、検討もつかない。…だが、今の君が何かに悩んでいることぐらいは分かる…」
背中に何かがトン、と触れる。
小さくも大きく感じる、冷たくも暖かく感じる…シルヴィアの頭。
背を向けた俺に体重を預けるように…また、体重以外にも何かを預けるように……ゆっくり、ゆっくりと力を入れてくる。
丸めこんだ手の柔らかい感触も、時折かかる息のくすぐったさも、何もかもが敏感に、そしてはっきりと感じられる。
「……お前に…俺の何が分かるんだよ……」
「『全ては分からない』、と言っただろう?…私に分かるのは、君が何かに対して、非常に悔しい思いをしている…ということだけだよ。…まぁ、君の表情を見れば…私でなくとも、大体の予想はつくだろうがな…」
「……」
「…戦えなかったのが悔しいのか?」
「ッ!!?」
急に心のうちを見透かされた様な感覚に陥り、寒気が走る。
コイツは何でも見透かしそうな気がしていたが、本当に今考えていることを言い当てられるとは思わなかった。
後ろを振り向くと、シルヴィアは一瞬キョトンとした表情をしていたが、俺の驚いた顔を見たあと軽くにやけてくる。
「図星……だったみたいだな?ほとんど勘で言ってみたのだが…」
「…勘…かよ…」
急に肩の力が抜ける。――と同時に、何だか恥ずかしくなってきた。
驚きすぎた反動もあるのだが、なによりシルヴィアに鎌をかけられ、からかわれたことが恥ずかしくて堪らない。
「…ふむ……では、こうしよう」
ポリポリと恥ずかしげに頬を掻く俺を横目にシルヴィアは、俺のポケットから手帳とペンをサッと抜き取り、破り取ったメモ欄の上に何か書き留めていく。
「…何してんだ?」
シルヴィアがペンを滑らせる先に描かれていたのは、地図――聞き覚えのある建物の名前や配置から、渋谷の辺りのものだと思われる――と住所、そして、何かの暗号と思われる言葉――『宵と暁。交わり、闇照らす紅の牙有る。』という文字列。
「…これに書いてある場所に、明日の夜9時に向かうといい。そこに、君にとって今最も会うべき人間がいる。私からも話を付けておく」
「おっ、おい!ちょっと待て!いきなり何の話を――」
「当然、君に関係のある話だ。――そこに書いてある合言葉を言えば、『沢代』と言う者に会えるよう手配しておこう。…健闘を祈る」
メモを俺に渡し、別れも無しに帰ろうとするシルヴィアを引き止めようとするが、質問に即座に答えられた挙げ句、いとも容易くあしらわれてしまう。
路地の奥――つまり自分の住居がある方へと歩むシルヴィアは、闇に紛れる寸前に立ち止まり、こちらを振り向かないままに、俺に向かって最後の励ましを送ってくる。
「――そこの警官の死も、何もできなかったことも、決して君のせいなどではない。…もし自分を責めていると言うのなら、今すぐそんなことは止めろ。――自分を責めたって、何も始まらないのだからな」
「……」
「まだ、何も始まってなどいない。…君は今、漸く我ら夜の眷属――吸血鬼の一人となったのだ。君が無力であったという事実は、この世界においてはただの『序奏曲』に過ぎない。――無力だと思うなら、強くなれ。無知だと思うなら、求めろ。…君の奏でる『交響曲』は、これから君自身の手によって、無限に描くことができるのだからな」
それだけ言い残すと、再びシルヴィアは歩きはじめ、路地の奥の暗闇へ姿を消した。
「…フッ………」
自然と笑みがこぼれてくる。さっきまであった無力感は、既に消え去っていた。
――なんだ。簡単なことだったんじゃないか。
『力が無いなら、手に入れればいい。足りないなら、補えばいい』。…そんな初歩的なことを見失うなんてな。
『死』の恐怖が俺の目の前に立ち塞がるなら、乗り越えればいい。
――昔の俺が、『孤独』を乗り越えようと、一人で足掻き、もがいた時のように――
――――――――――――
気持ちに整理が付いた俺は、これ以上一人で立ち止まっていても何も意味は無いと悟り、路地裏をあとにすることにする。
途中、首無し死体ととなった男が目に入ったが、無理矢理に目を逸らし、前に進むことに気持ちを向ける。
――あんたの死は無駄にしないぜ、名も知らない警察官さん。
そう心の中で念じ、その横を通り抜けて人気の無い道に足を踏み入れようとした。
――その時。
「――動くな。余計な行動をとれば撃つ」
「ッ!!?」
背中に突き付けられる冷たい感触。引き起こされる撃鉄の音。
間違いなく、突き付けられているこれは…拳銃。
路地の脇に隠れ、恐らくは俺が背を向けた瞬間を狙っていたのだろう。――明確な目的を持って。
「……なんで……」
先程の機械的で冷酷な声とは打って変わって、今にも啜り泣きそうな悲しげな声が聞こえてくる。
この声には……聞き覚えがある。
――だが、その勘だけは外れていてほしかった。
「……なんで…アンタなのよ……遼……」
「…やっぱり、お前……なのか……?」
背中越しに聞こえる悲愴感のある声の持ち主の方向へ振り返り…そして――
――現実を、思い知らされる――
「――……ユリア…」