5章・警告と襲撃
「――この件に関わるな、だと?…何を馬鹿なこと言ってんだよ、アンタは。…そもそもこの件に関わることになったのは、アンタの所の主人が頼んできたからじゃねぇか。なんで主人の考えに背くような真似してんだよ」
この空間からの出口である扉に背を向け、目の前に控える漆黒のスーツを纏った青年執事・菊岡 鏡士郎を睨みつける。
一方の鏡士郎は、俺の視線をまるで気にすることなく、毅然と構えている。
眼鏡の奥の瞳の蒼は揺らぐことなく、ただ一点――俺の瞳を見据えている。
――何を思い、何のために俺にこの件から手を引くように促しているのかは分からない。…だが、その意志の強さだけは、ひしひしと伝わって来る。
一瞬の静寂の後、依然として俺を睨みつけたまま、俺の問いに答えるように言葉を発し始める。
「…私は単に、貴方の身を案じているのですよ」
「どういう意味だよ。…既に俺はこの件の関係者、逃れられない状況まで来てるんだよ。もう何度も殺されかけてるからどれだけ危険なのかは重々承知して――」
「あの程度で私達の生きる『世界』の全てを知ったと思っているなら、大間違いですよ」
俺の言葉を遮り、大きさの増した声で威圧的に、鏡士郎が反駁する。
忠告……いや、これは『警告』……もしくは『命令』の域に達している、そう考えてもおかしくはない、強く低い声色だ。
敵意…は、無いようだが、どうしても体が勝手に身構えてしまう。
冷や汗が額を流れる。平静を保っていたつもりだったのだが、内心は動揺していたみたいだ。
――この雰囲気は……そうだ。シルヴィアの言い知れぬあの威圧感。アレに似ているのだ。
「…お嬢様も、全てのことを貴方に話されたわけではありません。故に、貴方はまだ私たちの全てを把握したとは言えませんでしょう?」
「…それは……」
正論過ぎて、全く反論出来ない。
…確かに、鏡士郎の言っていることは正しい。
シルヴィアから聞いたことだけでは、まだ何か足りていないような、核心に至れていないのは、俺も端から気付いていることだ。
…だが俺は、それを承知の上でこの件に首を突っ込むことを決めたのだ。それでも他人に口出しされるのは、あまり気分の良いことじゃない。
俺の反駁を許すことなく、間髪入れずに鏡士郎は言葉を紡ぐ。
「…それに、貴方がこれまで生き残れてきたのは、お嬢様が貴方を直接護衛なされていたからなのですよ」
「…!!」
その事実については初耳だった。
この一週間、確かに何かあってもおかしくは無い気がしていたのだが、結局何事もなく時は過ぎていった。
しかしそれが、シルヴィアのおかげによる平穏だったとは思いもよらなかった。
…だからあいつは、俺の顔を初めて見たような反応を見せなかったのか…。
――それと同時に、もう一つだけ引っ掛かることがあった。
「…じゃあもしかして、事件の日以降、俺を見ているようなあの薄気味悪い視線は……」
「…間違いなく、殺したはずの貴方が生きていることに気付き、自身の不始末の隠滅を図ろうとしている『切り裂きジャック』本人……もしくはその手下、信奉者、関係者の何れか…でしょうね。仕掛けて来なかったのは、お嬢様の護衛に気付いていたから…と思われます」
「…やっぱりか……」
推測したことに関して納得すると同時に、的を射ていた鏡士郎の発言に少しばかり驚かされる。
俺もついさっきの話からようやく察することができた事実を、まるで最初から知っていたかのように述べていく。
――実を言えば、俺が妙な視線は、記憶の無いあの夜から一週間ずっと感じ続いていた。
特定の時間帯――毎晩日が落ちきってから、朝日が顔を出すまで。
特定の場所――ある程度、周りを見渡せる広い道で。
特定の感覚――ジトジトと俺を観察するような、ネットリと絡み付くような、奇妙な、そして不気味な感覚が。
…それがもし、再び俺を殺そうとする者の眼差しだと言うのならば、全ての辻褄が合うのだ。
――が、それはあくまで推測の話。根拠の無い不確定事実だ。
「…どうしてそこまでハッキリと言いきれる?…確かに俺もその可能性にはたどり着きはしたけど、断定できる事実では無いだろうに」
「…言ったでしょう?貴方はまだ、吸血鬼の『世界』の全てを知っているわけではない、と」
「質問の答えになってねぇぞ」
「なっていますよ。吸血鬼の『世界』では、そういったことは日常茶飯事ですから。これぐらいのことはあって当たり前です」
「…そんなもんかよ」
「えぇ。そんなものですよ」
その威圧を揺らがさずままに、笑顔を浮かべてニッコリ笑う。
余裕があれば『怖いから止めろ』とツッコミたい気分だが、今はそんな気分ではない。
「…だとしても、俺はこの件から下りる気はない」
「…何故です?」
先程までの笑顔から一変、再び怪訝そうな表情に変わる鏡士郎。
この話を俺に聞かせて、少しでも俺の考えを変えようとでもしていたのだろうか。…だが、残念だったな。
「…俺は一度決めたことは、意地でもやり通す主義なんだよ。あんたの話きいたぐらいで、はいそうですねと簡単に同意できるほど素直でもねぇしな」
「…そうですか。残念です」
「残念そうには見えないけど?」
「そういう顔の作りをしているものですから」
鏡士郎は、意外とあっさり引いてしまった。
もっと力押しでくると踏んでいたのだが、別にそういうわけでも無かった。残念そうな顔をしてはいるが、ただそれだけ。
――その内に秘められた真意は、表情からはまったく読み取れないが。
「――ですが、この件に関われば、もう私達も貴方の身の安全を保証することは出来ません。…それでも――」
「危険は、覚悟の上だ」
「…そうですか。ならこれ以上、私が貴方の考えを否定するのは野暮というものですね」
向こうも納得した…というより、俺の意地とやり合っても勝ち目が無いと悟ったのか、漸く威圧するのを止める。
それを見て安心して、俺も肩の力を抜く。
…緊張していたらしいな、体中がガチガチに固まっていたらしい。
くるりと回って背中を向けた鏡士郎は、背中越しに最後の用件を話す。「私達も出来るかぎり貴方に危害が及ばないように心掛けます。なので、あまり無茶はしないようにして下さい」
「…分かってるよ、それぐらい」
「分かっていただけたなら幸いです。…お気を付けてお帰り下さい。近頃の夜中は物騒ですからね」
「…今も昔も変わんねぇよ。それじゃあな」
憎まれ口を軽く叩いてから、扉に掛けていた手に力を込める。
ギィ…と、来たときと何も変わらない不気味な音を放ち、扉は見た目に反した軽さで開け放たれる。
両開きになっているらしいその扉をくぐり抜け、扉の向こう側にいる人影を探すために振り向いてみたが、そこには既に誰もいなかった。
「……見送りぐらいしろっての」
そこはいない人物に再び悪態をついてから、閉じられた扉を背にして、俺は帰路についた。
――――――――――――
まだ日は昇っておらず、街灯も消えた裏路地は、少し先が何も見えないぐらいに真っ暗闇だった。
辺りには全くと言って良いほど人影が無く、物音一つ鳴らない。聞こえるとすれば、俺の呼吸、足音、服が擦れる音…それぐらいだ。
――なのに、感じる。俺を見る、あの視線だけは――
それだけが俺に教えてくれる。この空間にいるのは俺だけではない、別の誰かが俺をつけている、ということを。
…誰なんだ…どこから見てるんだ…?
周りを見渡しても誰もいない。気配を感じることもない。…だが、『目』の存在だけは、ひしと伝わって来る。
少しずつ追い詰められている様な気分になる。汗が流れてくる。
落ち着け……こいつは今までも俺のことをただ『見ていた』だけじゃないか。こいつは俺を襲う気なんて無い。だから焦る必要なんて無い。
…そうやって心を落ち着かせようとしても、不安は一向に拭われない、焦りは増すばかり。
ダメだ。悪い方にばかり考えてしまう。
…そんな中、不意に脳裏に先程の鏡士郎の言葉が過ぎる。
――『――殺したはずの貴方が生きていることに気付き、自身の不始末の隠滅を図ろうとしている――』『――もう私達も貴方の身の安全を保証することは出来ません――』――
その言葉を意識した瞬間、今まで感じなかった、もう一つの強く、大きく、禍々しい意志を感じた。
…そう、これは『殺意』。
『怒り』とも『憎しみ』とも違う、最も根源的な、人間の本能の一つ。だが、抑圧された奥底に秘められた感情。
明確で鋭い、ただただ俺を殺さんとする意志の塊が、俺に向けられている。
俺は震えた。ただ恐怖に揺り動かされて。ただ本能のまま感じ取って。
そして予感した。これから俺の身に降り注ぐであろうことを。その果てにある結果を。
――『死』。
一時間ほど前にシルヴィア刺された時…あの時は、何が起こったかを理解する前に刺されたため、『恐怖』より先に『痛み』の感触が全身を襲った。だから、死を恐れることなくしていられた。
だが、今は違う。明確に向けられる『殺意』が俺の中の感情を刺激し『恐怖』が生まれている。『痛み』を伴う前から。
人と言うのは、事前に自分の身に降り注ぐ事実を伝えられていれば、ある程度それに対する意識が向いて、自然と気構えが出来ると思っていた。
…だが流石に、『自分が死ぬ』と言う事実に対する気構えだけは、しようと思っても出来ない。…当然だ。気構えだけで何とか出来るものではないからな、『死』だけは。
そしてそれはもちろん、ついこの間までただの人間だった俺にとっても例外ではない。
つき動かされるかのように、全力でこの場から立ち去ろうとした、その瞬間――
「オンヤァ〜?餓鬼はもう寝る時間だぜぇ〜。なぁに夜中に一人でほっつき歩いてんだぁ〜?」
突如、背後に人の気配を感じる。
一瞬、声を出してしまいそうになったが、寸前の所で留まった。…というのも、二つ、気付いたことがあったのだ。
まず一つ目、声の主が現れた行き止まりだったはずの俺の背後――正確には、先程俺が出てきたシルヴィアの仮住まいがあるだけで、人が通れるような道は無かったはずだ。
つまり、この男はたまたまここを通ったと言うわけではなく、この廃ビル郡の中のどれかに隠れ、ここを通るはずの、あるいは通った人間を待伏せていたと言うことになる。
――そして…もう一つ、奴から感じる…これは、『殺気』。
さっきから感じているものと規模は違いこそすれ、根源的なものは何も変わらない。
――ただ人を殺そうとするだけ、憎しみも怒りも無い、純粋な『殺意』――
気付けば俺は、全力で走っていた。
後ろを振り向けば殺される。立ち止まれば殺される。逃げなければ殺される――
恐怖が、俺を駆り立てていた。
「オイオイ逃げんなってぇ〜!楽しめねぇじゃんかよぉ〜!!」
そういった下卑た男の声は、規則的に鳴り響く足音と共に、次第に遠ざかっている。
楽しんでいるのか、あるいは追う気がないのか…。どちらにせよ、今逃げなければ、俺は確実にあいつに殺されるだろう。
来るときにはそんなに長く感じなかった狭い路地が、終点の無い果てしなく続く道のように思えた。
「…そこの君、こんな時間に何をしてるんだい?」
荒い呼吸と足音しか聞こえなかった耳に、前方からの新たな声が聞こえる。先程とは打って変わった、冷徹さを感じさせない優しげのある声。
確認できた人影は、全身を青い服に包んでいた30代半ばの男性、警察官だった。
考えてみれば、今は深夜の3時。家出少女や不良少年など、夜の街を出歩く子供達を補導するために警官が徘徊していても、なんらおかしくは無かった。
「…たっ…助けッ――」
助けを求めようと、声を張り上げた。
――だが、その声は届かなかった。
ビシュッ…と、辺り一帯に紅色が広がる。
見覚えのある紅――そう、血の紅だ。
ハッとなって腹部に手を当てる。だが、傷は見当たらない。この血は俺のものでは無かった。
では誰の血だ?あの男に刺されるとすれば、一番近くの俺であるはずだ。
――襲撃者が一人なら、の話だが。
気付いた時には、もう遅かった。
襲撃されたのは、俺の目の前の警官。その男には既に――
――首が、無かった。
「…ジョン、少し落ち着きなよ。その子を殺すチャンスは、これから幾らでもあるんだから」
声が、出なかった。
血を吹出しながら路地に転がる生首を見て。首を失い、崩れ落ちるように膝を付き倒れる首から下の体を見て。
――そして、隙間から差し込む月光を背後に現れた、返り血に塗れた青年を見て…――
「…あ…あぁ……」
叫べなかった。
恐怖に押し潰されそうになって、ただ立ち尽くすしか無かった。
「…うっせぇな、テッドォ!ドラケリアの嬢ちゃんがいねぇ今しかチャンスはねぇだろーがよぉ!」
眼前の青年が声を発して一呼吸置いた後、俺の背後から再びあの声が上がった。悪寒が再び込み上げて来る。
「…何時でも君は軽率だね、ジョン。…それに、どうしてそこまで男殺しを楽しめるんだい?ボクには理解不能だよ…」
「ケッ、強姦魔もどきが…オレのこと悪く言える質かよぉ!!」
二人が何を言っているのか、全く耳に入ってこない。…いや、入れたいとも思わない。
『死』、『死』、『死』……。こいつらの話から、雰囲気から、何もかもから感じ取れるのは、『死』のただ一文字だけ……。
俺の中を満たしていたものは、それに怯え、生じた『恐怖』……。こいつらが発する『死』の臭いに怯え、ただただ震えるのみだった。
――死にたくない――
「――つーわけだぁ、餓鬼んちょ。…テメェにはここで死んでもらうぜぇ…」
――何も知らないまま…こんなところで――
「男を殺すのはボクの美学に反するけど、まぁ、あの御方の命令だから仕方ないね…」
――まだ…終わる…わけには――
「泣き叫ぶくらいはしてくれよぉ、餓鬼んちょぉ!!!」
「――ッ!!!」
辺りに満ちるの静寂。冷たい夜の冷気が、俺の肌を撫でる。
閉じられた俺の瞳は何も映さず、光芒一つ通さなかった。
――ここは、天国か?それとも地獄か?
いや、どちらでも無い。空気の冷たさを感じるし、何よりまだ周りの殺意が痛いほどに感じられる。
…だが、痛みも何も無い。
刺されたはずの痛みも無ければ、血の流れる感覚も無い。
…生きてるのか…俺は…?
「――『殺人道化』、ジョン=ゲイシーに、高名シリアルキラー、テッド=バンディ…貴様等が最初に仕掛けて来るとは…。どうやら、『切り裂きジャック』には余裕がないみたいだな」
うっすらと目を開けた途端に、俺の視界全体は光に包まれた。
…いや、光ではない。美しく棚引く純白の髪、それに月光が反射して、これまでに見たことがないほどに幻想的な風景を生み出している。
それとは対照的に、その身を包む漆黒のゴシックドレスは闇に溶け込み、その隙間から僅かに除く純白の肌を夜の闇と共に一層際立たせている。
少女が握る二本の細剣――マンゴーシュは、夜に溶け込む黒、夜に際立つ白、二つの対照的な色を以って輝かしく存在している。
――その剣の切っ先にて交わるのは、また別の…銀に輝く二つの切っ先。
ソレが握られる手の先にいるのは…二人の男性。
「…ッ!?」
「なっ…なんでてめぇがここにいやがるんだよぉ!!?」
方や返り血を体中に浴びた、もの優しげそうな風貌ながらも、十分過ぎる狂気を内に秘めた青年、テッド=バンディ。
方や歪んだ顔付きで、ピエロの様な滑稽な衣装に身を包む男、ジョン=ゲイシー。
見なりも歳も、何もかもが違う二人であったが、ただ一つだけ共通するものがあった。
――それは、『驚愕』の表情。
突然の闖入者に、俺の殺害を邪魔されたということもあるのだろうが、それだけじゃない。
こいつらが驚いているのは、もっと別のこと――
「…遅れてすまない、遼。…君を、助けに来た」
――そう、吸血鬼のお嬢様、シルヴィア=ヴラート=ドラケリアの登場、それに驚愕しているのだ。