4章・風呂場と宝刀
「――本当に、塞がってる…」
温かいシャワーを体に浴びつつ、腹の傷――シルヴィアに刺された場所だ――がある場所…正確には、傷が存在したはずの場所をなぞりながら呟く。
シャワーを浴びる前は、まだ黒々しい血が肌にこびりつき、流血はまだ止まっていない様な気がしたのだが……。
「俺…吸血鬼になったんだな…」
改めて口にしてみても、やはり実感はあまり湧かない。
傷口は綺麗に塞がり、元からそこには何も無かったかの様に跡一つ残っていない。
痛みも無ければ、疼くこともない。…まるで刺された事実自体が嘘であるかの様に。
血の流れも…正常だ。致死量に匹敵するほどの大量の血を流したと言うのに、貧血すら起こしていない。
…変化というものは、自分が気付かぬ間に突然訪れ、そして自分が元からそうであるかの様に溶け込んでいく。
誰も気付かないぐらいに小さな変化も、立場や生き方を大きく変えてしまうくらいに大きな変化も、自分にとっては同じ、『変わらぬ事象』として思い込まれてしまう。
…それが例え、別の種族――吸血鬼への変化だとしても……。
――――――――――――
「…ふぅ……」
風呂場全体を見回すと、あらゆる所が光り輝き、一人で使うには広すぎる浴槽に、少し居心地が悪くなる。
外見はアレなクセに、何故ここまで内装は豪華なのか。……それと、何故ライフラインが通っているのか、という疑問が浮かぶが、あえて考えないようにする。
何だか湯舟からは薔薇の香りがするし……いかにもどこかの大富豪なんかが入りそうな超豪勢な風呂だな…。
庶民の俺にとっては、疲れが取れるどころか、逆に肩が凝りそうな気しかしない。
…何だか浸かってはいけないような感じがする。
ただでさえこんな豪勢な風呂に入らせてもらっているのに、さらに金をかけられた様な湯舟に浸かるなど、おこがましいにもほどがある。
…単にこの薔薇臭い風呂に入りたくないっていうのが一番の理由ではあるのだけどな。
というか、今すぐにでもこんな風呂出てしまいたい。シャンプーはラベンダー臭いし、ボディーソープはシトラス臭くて堪らん。
…貴族ってのは、こんなに臭いのキツいものしか使わないのか?
とにかく、この鼻の曲がりそうな空間から逃れなければ、風呂に入った意味も無くなる気がする。
なので、とっとと場所から脱出してしまおうと、風呂場の引き戸に手を掛けようとする。
――…だが。
ガララララッ。
スカッ。
「――あれ?」
俺が触れる前に、扉が勝手に開く音がする。
いくら貴族の家だからとはいえ、風呂場に自動ドアが取り付けられるほどに余裕が有るとは思えないし、そんなことする貴族なんて聞いたこと無い。
…第一、入ってきた時にはただの引き戸だったじゃないか。
そうなると他には、別の誰かが入ってきたとしか考える余地が無い。
今日…というかついさっき、この家にいる人物をパッと確認させてもらっていた。
今この家にいるはずの人間――もとい吸血鬼は確か、シルヴィアと鏡士郎の二人のみ。メイドも召し使いも家族もいなかった。
ようするに、今この場にいるはずなのは、俺と同性の…鏡士郎であるはずなのだ。
(なんだ…なら別に気にする意味はないな…)
…と思って、少し上を見たのが間違いだった。
「…えっ?」
「…はっ?」
最初に視界に飛び込んできたのは、薄い布地に包まれた、白い肌と二つの膨らみ。大きくも無く小さくも無く、健康的としか言いようが無いサイズだ。
…あの細身の執事、こんなにバストサイズがでかかったっけな。
その次は、細い首元のライン。綺麗な鎖骨が目に飛び込んでくる。
鏡士郎は筋骨隆々と言うほどガタイが良いわけではなかったが…、ここまで細く括れていただろうか。
最後に、顔。血色のいい桜色の唇、形のいい鼻、紅く紅潮した頬、驚きと羞恥に満ちた目――。
――ここまで確認して、俺はようやく、目の前の事実と、自分にこれから起こるであろう事を悟った。
…目の前にいるの…シルヴィアじゃん。
さっきまでの露出度0に近かったゴシック・ドレスを脱いだシルヴィアは、着痩せするタイプなのかはたまた服の形が悪いのか、意外とスタイルがいい体つきをしていた。
一応タオルで胸から太ももの辺りまではタオルで隠しているものの、ほぼ全裸に近いその恰好は、先程まででかい態度をとっていた吸血鬼のお嬢様の姿とは、まるで別物であった。
「…」
目と目が合ってからすでに30秒近く経っているというのに、一向にシルヴィアの反応はない。
…バグったゲームソフトみたいに硬直しており、視線の位置がまるで変わる様子がない。
「…え…えっと……大丈夫か?」
さすがに放置したままにしておくのはマズイかなと思った俺は、取り合えず声だけはかけてみる。
――そしてそれとほぼ同時に、今の行動が俺に更なる悲劇をもたらす引き金であったことを悟った。
「ッ!!!」
俺の言葉によって硬直を解いたシルヴィアは、風呂に逆上せたでもなく急速に顔を赤らめ、言葉に成らない叫び声をあげる。
白い肌が急に真っ赤になって、まるでリトマス試験紙の如く色の変わり様だな、と頭の中で冗談を思いついた次の瞬間――
「うごはッ!!!?」
突如視界が歪み、腹部に強烈を軽く通り越して激烈な衝撃が発生する。
――発生源は、勿論シルヴィア。使用された鈍器は、吸血鬼の血によって強化された強靭な右足と、それを圧倒的なスピードで奮う驚異的な脚力|(付け加えるなら、彼女の俺に対する怒り…か?)。
棒立ちで唖然としていた俺は、当然防御は愚か、反応すら出来なかったので、シルヴィアの蹴りはノーガードでダイレクトに直撃。その衝撃は、俺の脇腹に多大な損傷を与えてくれやがった。
しかも人の蹴りならまだしも、こいつはそんな柔なもんじゃなく、歴とした吸血鬼。その蹴りの鋭さは、ムエタイ選手も裸足で逃げ出しそうな、違う意味での『岩をも砕く』威力を持っている。
――当たり所が悪かったら、即死だったかもしれない。
…しかし、それだけで済むはずが無かった。
音速に迫る速さの蹴りは、音速に迫る運動エネルギーを俺の体に与える。
脇腹の骨が折れたような鋭い痛みを感じる暇もなく、俺の体は背後の壁に向かって宙を突き進む。
しかし、その疾空感|(というよりただの恐怖)も一瞬で途切れ、俺の体は急停止を実行しようとした。
風呂の壁に、体感速度時速何百キロものスピードで衝突した俺の体は壁に減り込むと思いきや、余程壁の対衝撃性能が高いのか、石のパネルにぶつかっただけであった。
背中に激痛を感じたのもつかの間、壁に張り付いた体も重力には逆らえず、パネルに引っ付いたままズリズリと滑り落ちていく。
――が、たかが一撃で女子の柔肌を晒してしまったお嬢様の猛攻は止まりはしなかった。
透かさず落ちていた金メッキのスチールたらいを掴んだシルヴィアは、プロ野球選手も青ざめるほどの剛速球ならぬ剛速盥を投げつけてくる。
「ぬおわッ!!?」
何とか意識を保っていた俺は、首を少しだけ左にずらしてそれを避ける。
ドゴーン、と盛大な音と土煙、その後のガラガラという何かが崩れていく音を聞き終え、むせながら右隣を確認する。
さっき俺がぶつかってもびくともしなかった壁に、鉄製のたらいが見事に減り込んでいる。
これがもし俺の頭に当たっていたとしたら……。
「いっ、いきなり何しやがるんだよっ!!?」
「うるさいッ!!黙って死ね!!」
理不尽過ぎる。
有無を言わさず、さっき「協力しよう」といった相手を、たかが一度の覗き(俺はそんなことしたつもりは無いが、恐らくそう認識されているだろう)で殺そうとするなど、幾ら何でも無茶苦茶だ。
中学の時、幼なじみの少女の家に泊まりに行った際、(不可抗力とは言え)風呂に入っている所を見てしまった時でも、「もう絶交するから」と言われ、約一週間口を聞いてもらえなかったことはあったため、年頃の少女にとって、風呂を覗かれること――もとい、裸を見られることが、どれだけ恥ずかしいことなのかぐらいは理解しているつもりだった。
――少なくとも、この時までは。
「まっ、待て、シルヴィア!これは事故だ!不可抗力だ!俺は何も――」
「うるさい黙れ死ね消えろこの下等変態新人類ッ!!」
さっきの悪態に何個か新しい単語が混ぜ混まれ、新たに投げ飛ばされる飛来物という余計な手土産と共に、俺の下に帰ってくる。
…下等変態『新人類』って……。さっきアンタが俺を『吸血鬼もどき』になったって言ったばっかりじゃねぇのかよ。
『下等』と『変態』にも、色々と批判したいポイントが有るのだがそれは後回しにして、今は眼前の修羅を止めることが先決だ。
「おっ、落ち着け!!風呂場で死人を出す気かよ、お前は!」
「それも止むなし、だッ!!」
ヤバい、こいつ平常心を失ってやがる…。
風呂場に置いてあるものを手当たり次第に投げまくってくる鬼――ならぬ吸血鬼は、まるで止まる様子が無い。
一応持ち前の反射神経の良さでなんとか全部避けてはいるものの、機関銃の弾の如く連続で襲い掛かってくるのを避けきるのに相当体力を消耗してしまう。
これでは、こいつの行動を止めなければ、いずれ俺の心臓の鼓動が止まってしまう気がする。
「――ちょこまかとォ……逃げるなァ!!!」
大きく振りかぶって、シルヴィアが投げつけてきたシャンプーの予備ボトルが、遂に音速を超えた。
ちょっ……!こんなの避けきれるわけがッ…!!
「ぐおッ……!!」
反応がほんの一瞬どころか完全に遅れてしまった俺の顔面に、容赦無い一撃が叩き込まれる。
――薄れゆく意識の中で、俺はただ痛感した。
――女の子って…怖ぇ……。
――――――――――――
俺は、あれから1時間ほど意識を失っていたらしい。
何かがたたき付けられたり、破砕されたりする音を聞いた鏡士郎が駆け付けた時には、時既に遅し、俺は風呂場のタイルの上に大の字で伸びていたらしい。
背骨にはヒビが入り、肋骨を何本か骨折、頭部に激しい打撲……。
正直、吸血鬼の驚異的な再生能力と頑丈さが無ければ、今頃天に召されていたのかもしれない。 実家での習慣で、タオルで下半身を隠すようにしていたからこれくらいで済んだのだと思うべきなのか…。
――後で鏡士郎に聞いた話なのだが……曰く「お嬢様は激怒なされた時の仕打ちは、あんなものでは済みませんでしたよ」らしい。
…あれでまだ激怒状態じゃないのかよ。これ以上のキレっぷり見せられたら、吸血鬼になったとはいえ、流石に体が持たないぞ。
…あの怒りっぷりでも、人間が相手なら死人が出たかも知れないのだが…。
「――全く!君がそこまで淫猥な男だとは思わなかったぞ遼ッ!!」
「…だから不可抗力だっつってんだろ。俺にどうやってあの状況を回避しろってんだよ……」
羞恥のあまり顔を真っ赤にするシルヴィアは、風呂上がりだというのに、また似たような露出の少ないドレスをまた着ている。…同じのを何着も持ってるのか、それとも着回しているのか…。
肌はしっとりと水気を含み、表面にはツヤが現れている。触るとモチモチと弾力があって柔らかいんだろうなぁ……。
――などと思っていると、俺の視線に気付いたシルヴィアはこちらを振り返り、そのしかめっ面の深みを更に増す。
「何をそんなに変質者の眼差しでジロジロ見ているのだ?…その目、潰してやろうか?」
「怖いこと言うなよ…裸を見たことはさっき散々謝ったし、手痛い仕打ちも受けてやったんだから、そろそろ機嫌直してくれよ?」
「……変態と聞く口は持ち合わせていない」
だめだこりゃ。
完全にヘソ曲げてやがる。
こういう時は、何か女性を喜ばせるようなことをしてご機嫌取りをするのが定石であると聞いたことがある。
…だが、俺に女性を気遣う才能は皆無、昔から『女心と秋の空』と言うように、俺はまるで女性の心境が理解できなかった。…というか、周りにいる女性が、母親と同い年の幼なじみぐらいだったから、別に理解しようと思ったこともなかった。
方程式でも、法則でも、ましてや単純な暗算ですら説き明かせない女性の心は、俺にとってはどんな難題よりも遥かに理解しがたいものだった。
なので、今の俺にこいつを宥められるだけの手段がない。
――故に、俺に出来そうなことはただ一つ。
「――そもそも、なんでお前は俺が入ってる風呂に入ろうと思ったんだよ。脱衣所に俺の時計と財布が置いてあったはずだし、それ以前に誰かが入ってることぐらい分かるだろ、普通」
俺が風呂場不法侵入の原因を問おうとすると、さっきまでのおしとやかさは何処へ、冷静さを完全に欠いた様子で、シルヴィアは返してくる。
「そんな小さなもの気付くはずが無いだろッ!…脱衣室から君の服を持って出てきた鏡士郎が『遼は既に風呂から上がった』という旨の発言をしたのだ!明かりが燈っていたのは、単に付けたままにしてあるだけなのかと思った。それ以外に理由はない!」
「……あのさ、嘘付くなら、もっと上手くやれよ。…俺は風呂入る直前に、お前んとこの執事に直接服を預けてんだから、アイツがそんなこと言うはず無いし、そもそも―――あれ?」
その話に、一つの小さな共通点を見つける。
シルヴィアもそのことに気付いたのか、下を向いて考えこんだ後、ハッとなって顔を起こした。
「…もしかして…だが、この一件――」
――そう、俺とシルヴィアの…二人の話に共通していたこと……それは『タイミング』だった。
俺がアイツに服を預けたのは、風呂に入る直前。そしてシルヴィアが鏡士郎に会ったのは、洗面所の扉の前(と推測できる)。更に言えば、シルヴィアが風呂に入ってきたのはその直後。
……と、すれば、即ちこの一件は――
「「――鏡士郎の所為かっ!!」」
さっきまでの口論がまるで嘘のように息ピッタリに声を揃えて叫んだ俺とシルヴィア。叫びざまに立ち上がり、真っすぐに廊下に繋がる扉目指して進みだす動作までシンクロする。
そして、俺達が同時にドアノブに手を掛けようとする寸前、扉が廊下側に開かれる。
中に入ってきたのは勿論、この状況を楽しみ尽くしていると思われる外道執事、菊岡 鏡士郎。
トレイの上に二つのティーカップと、鞘に納まったナイフの様なものを乗せ、何事もなかったかのようにしている。一つ壁の向こうなのだから、俺とシルヴィアの騒ぎ声は聞こえていたはずなのだが、反応が何も無いと余計に腹が立つ。
「失礼します、お嬢様。お茶と、お申しつけなさったモノを持って参りまし――」
「鏡士郎ッ!!遼から全てを聞いたぞ!…ようするに、全部お前の所為ではないかッ!!」
鏡士郎が何かを言い終える前に、シルヴィアが思い切り突っ掛かっていく。
手足をぶんぶん回しながら、顔を真っ赤にして殴り掛かろうとしているが、鏡士郎は笑顔のままトレイを持ってない左手で頭を押さえ受け止めている。
いつもこんな茶番をやっているのか、鏡士郎はかなり手慣れた手つきで目の前の小猛牛をいなしているし……その小猛牛ことシルヴィアは、鏡士郎より短い腕をグルグル回して、届かない距離を必死に埋めようとしている。
…おい主人。それでいいのかよ。
ムキッ!!となって回転速度を増した腕で更に攻撃を仕掛けようとしているが……無駄。幾ら腕を速く回しても、鏡士郎の腕の長さを超えることなんて出来ないからな。…というか、いい加減学習しろよ。物投げるとか押さえてる腕を殴るとかしないと、鏡士郎に一矢報いることなんて夢のまた夢だぞ。
アハハッ、とこの状況を楽しんでいるように笑いながら、鏡士郎はトレイを机の上に置き、そのまま話し出す。
「…お嬢様がドラケリアの屋敷の外に出られてから、まだほんの一年ほどしか経っておりませんので……一つ、異性の方と触れ合う機会を持つのも、良い経験となるのではと思いまして……。差し出がましいことをしました、申し訳ありません、お嬢様」
…その言葉を、笑みを浮かべたまま言うものだから、こいつからはまるで反省してる様子が伺えない。
――しかも、その言葉の中にあったのは全部シルヴィアに対する謝罪のみ。俺に対しては、『少しも』どころか『全く』謝罪の意志を示していない。…というかたぶん、こいつは俺に謝る気が無い。一番の被害者はどう考えても俺であるはずなのに。
…そろそろ見ているだけの立場にも耐え切れなくなって、シルヴィア同様直接攻撃を仕掛けに行ってやろうと思って、立ち上がろうとした瞬間――
「鏡士郎!お前は一つ、とぉっても、大切なことを忘れている!」
――シルヴィアが、俺と鏡士郎の間に(元々そこにいたのだが)割って入って、仁王立ちになり腕を組んで立つ。
――さっきの…会った直後の妖艶な第一印象からは、想像の斜め上を行くほどの甚大なキャラのズレっぷりだが、そこはあえてツッコまないようにしておく。
シルヴィアがなにを言おうとしているのかは分からないが、何か強い意志を感じる…気がした……はずなのだが……。
「――だ、男女のお付き合いはッ……まっ、まず…、手を繋ぐことから始めるのが定石であろうがッ!!!」
「ツッコむ所そこじゃねーーだろうがッ!!!てか、どれだけ初心なんだよ、お前ッ!!今時そんなことから始める奴なんてほとんどいねーよッ!!!」
頬を染めながらもの凄くレベルの低いことを言うシルヴィアに、柄にも無く思い切りツッコミを入れてしまった。
多分、本人は真面目も真面目、大真面目に言ったのだろう。顔がどんどん紅潮していってるし。
――けれど、あくまで人間の常識の中にいる俺にとってその姿は、異性との接触がまるでない箱入り娘、未経験の処女にしか見えない。
――が、ここでまた、俺の想像を絶する出来事が起こってしまった。
「――申し訳ありません、お嬢様。私は……間違えておりました、そんな簡単なことすら………」
「うむ。分かればいいのだ、分かれば」
…鏡士郎が、素直に謝りやがった。深々と頭を下げながら、慇懃無礼に。
ふざけているのか大真面目なのかは、頭を下げているため表情が読めないから分からないが、形だけなら非常に丁寧な謝り方だ。…けど――
「…謝る所も、そこじゃねぇだろ」
――呟かずには、いられなかった。
――――――――――――
鏡士郎が淹れたお茶を啜りながら、漸く落ち着きを取り戻したシルヴィアは再び優雅に振る舞う。
鏡士郎も鏡士郎で、何事もなかったかのようにシルヴィアの後ろに控えている。
唯一、俺だけが居心地の悪さを感じていた。
――ま、そりゃ当然だろ。
机の上にドカッと、銀の鞘に納まったナイフを、思い切り差し出されていたら、な。
「…これは何だよ?」
「そんなこと聞くまでも無いだろう?見たままの、ナイフだ。正式に言えば、このナイフはトレンチナイフ、と言ってな。第一次世界対戦時に、狭い塹壕の中での白兵戦用に作られた近接武器で――」「そういうことを聞いてるんじゃねぇ。なんでこれを持って来て、俺の目の前の机の上に置き、いかにも『取ってください』と言わんばかりにしていることの理由を尋ねているんだよ」
「…あぁ、そのことか。それならもっと単純な話、君にそれを受け取ってもらいたいからそこに置いたまでのことだ。…まぁ、護身用、とでも思ってほしい」
「護身用……?」
もう一度、机の上のナイフの方を見つめ直す。
刃渡りは18cmほど。ナイフにしては大振りだ…と思われる。
鞘の周りには革のベルトが巻き付けられており、恐らく携帯や秘匿も可能にしているのだろう。
黒色の柄にはナックルガードとグリップが備えられており、とても握りやすい。実用性重視であることは、まず間違いない。
刃を抜くと、刃のすみからすみまで、目映く輝く銀一色に彩られており、無駄な装飾が一切無い、シンプルな作りをしているのが分かる。
極めつけは、純粋な銀刃が仄かに帯びた、紫色の輝きだ。普通の銀ならば、有り得ない発光現象だが……。
「その剣は、我がドラケリア家に伝わるもの。吸血鬼の苦手とする『紫外線』を纏うよう、我等が持つ魔術と鍛冶能力の全てをもって打たれた、吸血鬼殺しのための剣、『串刺し公』だ」
「『串刺し公』……これ、お前の家の家宝、なんだろ?そんなに大切なもの…俺なんかに預けてもいいのか?」
だが、シルヴィアは躊躇うことなく、あっさりと返事を返してきた。
「構わないよ。私も鏡士郎も、その剣を戦闘で使うことはないし……何より、まだ吸血鬼同士の戦いに不慣れな君には、少しでもアドバンテージがあった方がいいだろうしね」
「……そうか……なら、有り難く受け取っておく」
「そうしてくれると助かる。――君には、まだ死んでもらいたくないしね」
俺の返事に満足した笑みを浮かべたシルヴィアは、飲み干した紅茶のカップを鏡士郎に預け立ち上がり、部屋の外へと出るため、扉の方へと歩みだす。
「――さて、そろそろ…我々吸血鬼にとっての『昼寝』の時間のようだ。…今日は色々なことがあったから、少し疲れてしまった。私はそろそろ、床に着くことにするよ」
時刻は3時をすでに回っている。ここに来てから、もう三時間も経ったと考えるべきなのか……あれだけのことがありながら、まだ三時間しか経っていないと考えるべきなのか…短いようで、とても、とても長い時間だった。
そう俺に思わせる核となった少女は、扉を少しだけ開き、再びこちらを見据えて来る。
…威厳と風格を兼ね備えた、厳しくもどこか優しい眼差し…。
その強い意志を秘めた美しき紅の眼に、俺は自然と引き寄せられていく。
――いったいどれだけの時が流れただろうか――
見つめ合う一瞬が、何分にも何時間にも…いや、永遠に等しいとすら感じられた。
それほどまでに、俺は彼女の眼に引き寄せられているみたいだった。
「――また会おう、遼」
「あぁ。…またな」
交わす言葉は、それ以上必要なかった。
何も言わずとも、見つめ合う瞳から、自ずと意志は伝え合うことは出来た。
――『死なないでくれ』という小さな願いと、『絶対死なない』という小さな決意。
それを交わしただけで、十分だった。
――――――――――――
「…さて、もうそろそろ俺も帰るとしようかな」
風呂から出た後から今まで借りていた服を返し、高速乾燥機で乾かされた私服に着替え、最初にこの場所に入ってきたとき通った扉をくぐろうと相変わらず不気味で装飾華美な巨大扉を押し開けようとする。
「お待ちください、神谷君」
扉の取っ手を握り、思い切り押し開けようとした瞬間に、背後から声がかかる。
振り向かずともすぐに判断できる。菊岡 鏡士郎だ。
「…まだ俺に何か用があるのか?」
振り向かないままに、質問を投げ掛ける。
忘れ物の用事でも、シルヴィアからの伝言でもないだろう。ほとんど手ぶらの状態でここに来たわけだし、シルヴィアは既にベッドの中で寝ているはず…なのだが……。
「…貴方に一つだけ、忠告をしておきたいのです」
「…忠告?」
「はい。……単刀直入に言わせてもらいます。神谷君、貴方には――」
慇懃無礼な態度な中にも、微かな威圧感。さっきまでの柔らかな雰囲気など微塵も感じさせない。
…だが、俺が驚愕したのは、そこだけではない。…彼は、従者としてあるまじき発言を――
「――この事件に、これ以上関わらないで頂きたいのです」
――今、俺の目の前でしたのだった。