18章・余裕と因子
燃えさかる炎が、ついに階段ヘの道をもかき消した。
俺の背丈ほどの火が上がっているわけではないにしろ、火とは、その形を取った部分に触れなければよいと言うわけではない。当然、その数十センチほど上までは加熱範囲であるのだから、ひとっ飛びに越えるのも難しい。
なにせ、今は俺も疲労困憊状態だ。可能性があったとしても、飛べないし、飛びたくもない。
――これが『背水の陣』ってやつかな、とふと思ってしまう。
――だが同時に、決死の覚悟で戦うのと、死ぬのがわかってて戦うのは違う、これじゃただの『死にたがり』、『自殺願望者』だ、と心の中で悟っている自分もいる。
どちらにせよ、もう後には退けない。ここで背中を見せれば、その瞬間に俺の命は失われるだろう。
ならいっそ、華麗に討ち死にする方が、無念に苦しむ必要もないというものだ。
――あいつの……シルヴィアの期待に応えられないってのは、少し悔しいかも、だけどな。
*
炎が開けた空間を、数歩踏み込み一気に跳躍する。
足にもガタが来ている以上、『縮地』も乱雑には使えない。元々俺と道化の間に開けていた10メートル程の空間を一気に飛ぶのは、ただ走るだけでも辛い。ましてや、一瞬であっても、全体重を片足に掛ける様な無茶技の縮地であっては、キツイを通り越して不可能だ。ほぼ最大飛距離である10メートル台を飛ぼうものなら、体力が満タンでもない限り無理というものである。
――だからと言って、縮地を全く機能させないわけではない。
短距離だけのひとっ飛び――一瞬だけの縮地ならば、大した負担にもならない。
一瞬だけの負担にわずかに顔をしかめるが、それでも飛ぶのを止めない。
満身創痍、疲労困憊の俺に勝機が残されているなら、相手が油断している、この一瞬しか残されていないのだから。
「──セァッッ!!」
銀の刃──『串刺し公』を握る右手に、にありったけの力を込め、その全てを刺突の推進力へと変換してうち出す。
刻底の音速の域には程遠いが、それでも、ヒト一人を骸に変えるには十分すぎる威力・殺傷力があるはずだ。
たとえ感染者だったとしても、そう簡単に耐えられるようなものではない。
さすがにこいつなら、ヤツも反応は──
「──…せぇ」
真っ赤に着色されたピエロの唇が、わずかに震える。
何を言っているのかは聞き取れなかったが、その唇の動きを目がとらえた瞬間、俺の脳裏に何かがよぎる。
──確かに俺は、昔は…ヒトだった頃は負け無しだった。だからといって、自分の実力に溺れているわけでもない。
──なのに、なぜコイツは何の反応も示さない?
寧ろ、その表情には……余裕が浮かんでいるようにも見えた。
「──おせぇってんだよぉ!!」
「!?」
甘かった。
ヤツが俺の技を、速さを見切れないなどということを、なぜ考えなかった。
考えて見ろ。コイツはあの『切り裂きジャック』の部下、そして俺と同じ『感染者』だ。
──俺より長い間『感染者』でいた奴が、俺より弱いなんてどうして言い切れる?
──否。言い切れるはずがない。
今、こうして俺の突進をククリ刀で受け止められている状況を見て、そう思わない者がいるはずがない。
「なっ……!!」
俺は言葉を失った。
ありったけの力を込めた一撃が。唯一といってもいい俺の勝機が。こんなにあっさりと止められてしまうなんて。
「……ちったァマシになったかと思ったけどよォ……やっぱダメだなァ、新人はよォ」
ヤツの右手――すなわち、俺のナイフを防いでいない方の手をユラリと動かす。
その手はズボンの中へ突っ込まれ、何かを掴み取った後、直ぐに抜き取られる。
這い出てきたのは……二本目のククリ刀。
「しめェだァ。とっとと死にやがれェ!!」
振り上げたソレを、俺の顔面めがけて振り下ろす。
「――っつおッ!?」
間一髪、両断される寸前に身を後ろに引き、後退する。
前髪の先っぽと瞼の上を少し切られたが、大した傷じゃない。
「はァん……まだまだ逃げ回れる程度のエネルギーは残ってるみてェじゃねえかよォ」
ペロリ、と刃先に付いた俺の血痕を舐めとる。
ぞわり、と抑圧されていた恐怖心が背筋を撫でる。
「いいぜェ……オレにテメェが釣り合わねェんだったらァ……まァ、精々逃げ回って楽しませろやァ!!」
二本のククリ刀が両翼から一斉に牙を向く。
火の手に退路を防がれた俺には、満足にヤツの攻撃を回避するようなスペースは残されていない。
後ろも横も、上も下もダメなら……残された道は――
「……覚悟を決めるしかねぇ……かよっ!!」
もう一度、前に踏み出す足に体重を掛ける。
縮地は、もう使えない。足にガタが来ている以上、無理をすれば歩きさえままならなくなる。
…だが……まだ手が尽きたわけではない。
渾身の一撃──すなわち力押しでは意味がない。なら、どうすればいいだろうか?
──決まったこと。ならば手数で──速さで勝負するしかない。
「ッヒャァ!!」
極太のククリ刀が、再び俺の眼前を擦過する。流石に、ヤツも俺と同じ『感染者』だけあって、速度も威力も、人間のソレとは段違いだ。
今度はその刃を躱すような真似はせず、代わりに右手のナイフを突き上げる。
切るためなどではない。ヤツのナイフの軌道を逸らすためだ。
振り上げたトレンチナイフの刃に、ヤツのククリ刀が滑り込むように触れる。刃同士は激しく擦り合い、紅の火花を散らす。
やがてククリ刀は滑り落ち、宙を切った。その瞬間、ヤツの体勢も大きく崩れていく。
「……ここ、だッ!」
隙が生まれた。ここで畳み掛けなければ、勝機をみすみす逃すようなものだ。
「……っらぁ!!」
ナイフで袈裟切りに一太刀。ヒュン、と風を切る音と共に、刃が弧を描く。
当然、奴も簡単にはやられまいと抵抗はしてくる。まだ何の力も加わっていない左のククリ刀で、斬撃の威力を減衰させようとしてくる。
お互いの刃が弾かれ、手が後ろ手に引かれる。
ヤツは反動で体勢を立て直そうとしたが、俺はそれを待ってやれるほど優しくはない。
「うぉおおおお!!」
再び距離を詰め、右手に力を込める。
突き出したナイフはまたも弾かれたが、ここで攻撃の手を止めるわけにはいかない。
斬り、突き、払い、蹴り、掌底、ありとあらゆる方法で、ひたすらに攻める。
「……っちっ!!」
3つの金属同士が、互いに撃ち合い、高らかに音を奏でる。
決定打にはならないが、時たま俺の一撃がヤツの体の一部を掠め、傷を与えていく。
だがそれは逆もまた然り。ヤツの反撃の一部は、俺の鼻先を掠め、腕を引っかき、その傷を増やしていく。
それでもまだ、今は俺の猛攻から抜け出すことはかなわず、何とか傷を負うことを避けている、といった感じだ。
――長期戦はマズイ。俺の体力も、そろそろ限界に近い。
「っりゃぁ!!」
思い切り、右手のナイフを切り上げる。
……ただし、今までとは違う『ヤツのククリ刀』に向かって、だ。
「――ッツ!?」
今までと全く違う動きを混ぜ込んだおかげか、ジョン=ゲイシーの反応が一瞬だけ遅れた。
その隙を逃す俺ではない。ククリ刀の刀身目がけて斬り払いの一撃をお見舞いし、多大な衝撃と負荷を与える。
剣は持ち主の手からスルリと抜けると、そのまま慣性に従って弧を描き、炎の海の中へと消えていった。
「――もらったッ!!」
空いた左の手の平で、そのまま追撃。俺の体も未だ物理的法則に従ったまま前方に飛ばされ続けていたので、そのエネルギーをも吸収して、掌底を打ち出す力へと変える。
ヤツの腹に、手の平が食い込む。
衝撃は、今度こそ届いた。
口の端から血が流れ、頬をつたる。白く塗っていた顔に、血の紅がにじむ。
その瞬間、俺は勝ちを確信した。
──だが、ヤツは倒れなかった。
一撃の下に葬り去る、ほどの威力が出ていないのは分かっている。分かっているのだ。
だが、それでも、致命傷とまではいかなくても、一時的に意識を奪えた、その手応えはあったはずだ。
なのに……なぜ?なぜコイツは倒れない?
「……ゲハっ……やってくれるじゃねぇかよぉ……まさかオレ様が押され返しちまうなんてなぁ」
驚愕の顔から怒りの顔に。口から血を吐いて、なお俺を憤怒の眼差しで睨みつける。
ジョン=ゲイシーの戦意は、まるで衰えなどしていない。
――むしろ今までが『お遊び』だったように、ヤツの闘志が、憎悪が、殺意が、その質を増していく。
「やめだぁ……もう、テメェとの遊びも終了だぁ」
「……なんだと?」
後ろによろめきつつも、ジョン=ゲイシーはまだ倒れない。
……「やめとけ、もうお前の負けだ」とでも普段の俺なら言うのだろう。この状況で敵が吐く負け惜しみなど、俺の『刻底』がすぐにでも黙らせていた。
……だが、この時ばかりは、そんなことを言ってやる余裕などなかった。
コイツはまだ本気を出していないのではないか?本当はまだ奥の手があるのではないか?……そんなことばかりが頭の中をめぐる。
――俺は、『恐怖』しているのか、この男に?
今までの『喧嘩』で、これほどの恐怖を感じることなんてなかった。脳裏を過ぎるのは『退屈』と『虚しさ』。当然だ、勝つのが分かりきっている勝負など、恐怖どころか、興奮も殺意も湧くはずがない。
生まれて初めて傷を付けられたからか?相手の力が測れないからか?それとも、死ぬのが怖いからか?
――どれであろうと、関係ない。俺の中にわずかでも惑いがある以上、それは臆しているという事実に変わりないのだから。
――だとしても、だ。
「――退けないよな、今更」
決めたのだ。あの気高き吸血鬼の少女に出会った時から。あの雨の日の夜、『生きたい』と彼女に、初めて自らの弱みをぶつけた時から。
……あれ?俺とシルヴィアが初めて出会ったのって……?
――なんだよ、俺とアイツの初対面は、別に昨日じゃなかったってわけかよ。
何故忘れてたのか、気になるといえば気になるのだが、今はそんなことはどうでもいい。
ようやく思い出せた。俺が彼女の言葉に、存在に『畏怖』していた理由を。
……命を救われた。昨日も、一週間前のあの夜も。
つまり俺は、一度は捨てられかけた命を『2回』も拾い直したわけだ。
――なら、もう失うものなど、何もない。
「人生2回分と釣り合うかどうかは分かんねぇけど……応えてやるよ、我が主。アンタの期待と、できれば願いを、な」
震えが、徐々に収まっていく。ナイフを持つ手に、再び力を込める。握り締めて、その切っ先を主に仇名す者へと向ける。
「……ハァん、まだやれるってかぁ。てっきりビビって逃げ出すかと思ってたぜぇ」
腹部を押さえてはいるが、ヤツは決して虚勢を張っているわけではない。他でもない俺の直感がそう告げている。
――それでも退かず、代わりに足を一歩、踏みしめた。
「誰が逃げるかよ。ようやく同じぐらいにHPも消耗してきたんだ。これからがボス戦、第2ラウンドだろ?」
「……威勢だけはいいじゃねぇかよぉ。いいじゃねぇかぁ、そうやって虚勢でも何でも吐いてもらわねぇとなぁ。……楽しめねぇからよぉ!!」
炎が、唸りを上げて燃え盛る。
何気なくそれを見ていた――いや、もはや気にも求めていなかったその『炎』に、異変が生じていることに気づいた。
――炎が……脈動している?
「なんだ……一体、何が起こって……?」
「……オレの『因子能力』はよぉ……こういう『火気のある所』じゃねぇと使いもんにならねぇってのが欠点なんだよなぁ」
「ファク……ター……?」
それが、この炎の異常な揺れの原因なのか?名前しか情報のない俺には、それくらいの憶測しかできない。
「ンだよ、知らねぇのかぁ?……まぁ、感染者になって一週間かそこらじゃ、まだ因子が体を戦闘向きに作り替え直したばかりってところだから、仕方ねぇかもしれねぇけどなぁ」
戸惑う俺とは逆に、ジョン=ゲイシーの顔には余裕の笑みが浮かんでいる。炎が、ヤツの闘争心と威圧を表すかのようにうねっているように見える。
――いや、違う。本当に動いているのだ。ヤツを中心とした、同心円状の輪を描くように、炎が波打ち、揺れてうごめいている。
「敵に塩を贈るつもりはねぇがぁ……まぁ、冥土の土産だとでも思って聞けやぁ」
あふれ出る余裕から来るのか、ヤツは武器を構えることすら怠っている。
俺の本能が、ヤツを殺すなら油断している今だ、今やらなければ生き残れはしない、と訴えかけてくる。だが同時に、『因子能力』とは何なのか、そのことへの好奇心と興味が湧いているのも、また事実だ。
「『因子能力』ってのはなぁ、人智を越えた存在──すなわち吸血鬼、そしてその因子を継ぐ感染者にだけ発現する……まぁ、魔法みてぇなもんだぁ。
昔っから吸血鬼は色々な術を使えるなんて言われてたろぉ?鏡に映らないとか、金縛りをかけたり、催眠術をしたり……とかなぁ。ソイツこそが、『因子能力』の招待っつーわけだぁ。
だけど、吸血鬼全員が全く同じ術を使えるわけじゃねぇ。コイツに関しては、個性やら何やらが作用して、個体毎に全く違う術が発現すんだよなぁ。例えば、オレとテメェんとこのお嬢様、テメェとテッド、この4人の間にも、全く違う能力が現れるってわけだぁ」
「…ご丁寧に、どーも」
「心配はいらねぇよぉ。……どーせ、テメェはここで死ぬんだからなぁ!!」
炎の勢いが激しさを増す。紅く輝くソレは収束していき、ヤツの右手に残ったククリ刀を軸とした螺旋を描く。
「焼き尽くせぇ……『灼熱龍の顎』ぅ!!」
その炎が撃ち出されるなど、誰が考えようか。
龍の形を成した炎……まさに『灼熱龍』とも言えるソレが、獲物を追い求めんが如く俺に食らいついてくる。
「うぁっ…ちっ……!!」
回避し損ね、その牙が俺の左手を捉える。
溶鉱炉に手を突っ込んだかのような感覚が走る。焦げ臭い、何かが溶けているような、そんな感覚だ。
左手の表面の皮がドロリと溶け始め、その下の筋繊維に直接熱が加わる。焼く、焦げるの過程を完全にとばかした、その『溶かす』行為。
「ぐっ……くそっ!消えろ!」
火を消そう振り払おうとしても、その火は俺にかみついた牙を決して離そうとしない。
「無駄だっつーのぉ!『火炎大道芸』はオレの意志によってのみコントロールできる!それ以前に、因子能力の力は同じ術にしか消すことはできねぇんだよぉ!!」
「──やったら、コイツなら消せるっちゅーわけやな?」
声高らかに笑うジョン=ゲイシーの背後から、人影が現れる。
俺もジョンも、同様に驚いていた。
ジョンは火を放ち、このビルに人が近づかない状況を作り出し、そして俺は、誰も巻き込まないように沢代にシルヴィアを連れて行かせたというのに。
……いや、驚くより先に、やるべきことがある。
「おいアンタっ!!ここは危険だから、早く逃げ──」
「少し黙っとれや、ドアホ」
「……は?いきなりなに──」
「姉御がどんだけ心配しとったんか、分からへんのか?カノジョがこのビルまであんさんを追っかけてきとる理由、考えれへんのか?──みんな、カミやんに死んで欲しくないんや!なのに一人でカッコつけて死ぬなんて、ダサいにもほどがあるで!!」
謎の闖入者が、右手の先から光を放っているのがわかった。炎に包まれた赤の光などではない、周りの赤が霞んでしまうほどに明るく、濃く、眩い緑色だ。
「……『鎌鼬』ッ!!」
男の発声の瞬間、炎が、割れた。
俺とその男の前までの道が、まるで吹き消されたかのように開けていた。――否、これも違う。吹き消された『ような』じゃない。『本当に』吹き消されたのだ。
「……待たせたな、カミやん。助けに来たで」
そう……彼――沢代 在人の、『風を操る』因子能力によって。