15章・縮地と刻底
――そうだ。俺は負けるわけにはいかない。
分かりきっていたことなんだ、そんなこと。何年も前から。
――何もかも守りたい。自分の身も、心も、誇りも、友も。
――何時の日からだろうか。何故だろうか。『壊す』ために戦っていた俺が、『守る』ために戦うようになったねは……。
――いや、何時だっていいし、どうだっていい。分からないなら、知る必要も無い。
――今、こうやって『守るべきもの』を思い出せたんだから――。
*
体が軽い。ついさっきまで自分の体じゃ無いみたいに重かった体が、腕が、足が、羽のように軽く感じる。
…いや、それだけじゃない。
体中の至る所から、力が溢れ出てくる。人であった頃には一度たりとも感じたことの無い感覚だ。
試しに、右手の刃を、横に一閃、振り抜けてみる……と。
――ヴォンッ!と、風を切る音――ついさっきまでの頼りない音とは比べものにならない、轟音とも言うべき風切り音が、目の前の空間で響く。
――いい感覚だ…。極限まで研ぎ澄まされている……。――今なら、誰にも負ける気がしない。
「――アンタ、俺のことがつまんない、って言ってたよな?」
「それが…なんや?」
俺とは逆に沢代は、さっきまでの威勢をすっかり失っているようだ。
「…悪かったな。言い訳がましいけど、今まで、体にあんまり力が入ってなかったんだよな。……けど、もうそれも終わりだ」
右手のトレンチナイフを左手に移し、利き手の右手を空いた状態にする。
「…何のつもりや?……本気でやらへん気か?」
「…まぁ、見てな」
…わざわざ武器を利き手じゃない方に持ったことは、一般においては頭がおかしいやつにしか見えないのだろう。
……それもあくまで、『武器』として使う場合の話だがな。
「…それじゃ………、遠慮無く行かせてもらうッ!!」
声を張り上げると同時に、体中を満たす力を、全て両足のつま先へと凝縮させる。
今まで以上に激しい力の奔流を制御し、その全てを、ただ一歩のために使い込む。
「――ッ!?」
――刹那、俺と沢代の間、10メートルほど離れていた距離は、一瞬にして零距離にまで詰まった。
その勢いのまま、右の拳を思い切り右頬にたたき付ける。
――『縮地』。武道の境地にたどり着いた者が行き着く歩法。……っつっても、祖父の技の見様見真似を、俺流にアレンジしただけの技だけどな。
「ぅぐッ……!?」
狙いが甘かったせいなのか、掠る程度に終わった打撃だったが、当たった、と言う事実に変わりはない。
よろめいた沢代の腹に膝を打ち込み、追い撃ちをかけると、その体はいとも易く後方へ倒れかかった。
続けて、左手に持ち替えたナイフのナックルガード部分で再び鼻頭を強打し、そのまま地面に押し倒し、零距離の正拳を叩き込もうとする。
だが流石に、こいつもやられっぱなしではなかった。空かさず俺の服の袖を掴み、腕力に任せて俺を投げ飛ばした。
反撃の予想はしていたため、受け身を取ることはできた。――が、投げ飛ばされた時に、ナイフを手放してしまった様だ。見渡した限りでは、影も形も見当たらない。切れかけの電球のせいで薄暗いから、視界自体狭くなってはいるのだが。
「あーらら、服が破けちまった。……この服、結構気に入ってたのによ……ツイてねぇな…」
「……服の心配より、自分の心配した方がえぇんやないか?」
沢代の顔に再び笑みが浮かぶ。その目は、俺の左手を見ているようだ。
「いくら今から本気でやるゆーても、最初の方のダメージは無くらなへんし、それに武器ももうない……万事休す…やで?」
「万事休す……五里霧中……八方塞がり……まぁ、なんとでも言い表せそうだけど……結局は、俺がもうアンタに勝てない、って言いたいんだろ?」
「…御察しの通りや。せやから、もうあきらめて大人しゅう――」
「――ばーーか。誰がこんなところで引き下がるかよ」
……確かに、丸腰と武器有りとじゃ、戦力に差があるかもしれない。
でも俺には『縮地』と……『アレ』がある。
俺のかつての二つ名……『黒帝』の由来となったもう一つの技。
俺がそれを奮っていた限り、かつての俺は負けたことがなかった。
「…この状況で勝つつもりかいな。強がりは止めた方がえぇで?」
「強がってるのは、あんたの方だろ?それすらも分からないほど、切羽詰まってるんじゃねぇのかよ?」
「――なら、確かめてみるかぁ!!?」
「…そうだな。――決着、つけようぜっ!!」
二人同時に走り出し、それぞれの最後の一撃を放つ体勢に移行する。
俺もやつも右利き。普通に殴り合うだけなら、体格が良く腕も長い沢代の方が有利に見える。殴り負けるのは、確実に俺だ。
……体力の残り具合から考えても、次の一撃を食らえば、間違いなく俺は力尽きる。
……と、なれば、この一撃は絶対に躱さなければならないし、絶対に当てなければならない。
――だからこそ、今は『アレ』に全てを賭けるしかない。
――負けられない……負けてたまるかッ!!
「――縮地ッ!!」
一歩目の踏み込みの寸前、再び踏み出す右足に力を込め、爆発的な速さを生み出す。
その勢いを殺さないまま最後の一撃を放つ様に、腕を後ろ手に構える。
「――――ッらあああぁぁっ!!!」
握り拳は作らない。掌底――指を丸め、手の平の付け根での攻撃を使う。そうでなければ、縮地の勢いで手首を傷つけかねないからだ。
「――ックッ!!?」
沢代のメリケンサック付きの拳、確かに当たればただじゃ済まない(さっきは何回が殴られたけど)だろうが、それも、予備動作が無ければ差ほど驚異にはならない。
俺が縮地で一気に距離を詰めたことにより、タイミングがズレたのだろう。拳を後ろに引ききる前の体勢であった。
そんな状態で出されたパンチなど、例え感染者のものであるとたとしても、避けるのは容易い。
顔面に向かっていた拳を最小限の動きで躱し、頬に掠る程度に抑え、そのまま突っ切る。
鉄に掠った跡から僅かに血が散るが、少々の痛みなど、気にしている暇など無い。
沢代も甘くは無い。ここでやらなければ、次はタイミングを合わされ、返り討ちにされるだけだ。
折角できた、最後のチャンスなんだ。
――これで、決めてやるッ!!
「―――『刻………底ッ!!!」
掌底を、がら空きになった沢代の腹にぶち込む。
縮地で限界まで高められた運動エネルギーを、僅かにも殺さず掌底に注ぎ込み、放つ……。
『刻底』……。躱せるはずがないし、躱させるつもりもない。
こいつは、俺が人の身であった時から磨いてきた、ただ一つの技。
人間に………いや、例え吸血鬼や感染者であったとしても、仕留めそこなうつもりはない。
「――ぐッ…!!」
咄嗟に踏ん張った沢代も、呆気なく吹き飛ばされ、壁に打ち付けられた。
防御の構えもとらずに、まともに刻底を喰らったのだ。縮地が作り出したGの大きさに堪えられるはずがない。
壁にヒビが入り、凄まじい激突音が鳴り響く。体は壁に埋まっている。
先ほど俺が壁にたたき付けられた時以上の衝撃が、やつの体を襲ったに違いない。
やがて壁から体がズレ落ち、地面に倒れ込む様な音がした。
気を失ってるのだろうか、土煙の中からはい出て来る様子が微塵にも感じられない。
「終わった…か……?」 正直、満身創痍と言うほかならない。
刻底は、体のバネを全開に使って打ち出す技だ。一発打つだけでも、消耗する体力は半端じゃない。
幾ら感染者の体とはいえ、使うエネルギー量は変わり無い。元から消耗しているならば、なおさらだ。
――だが、もう立ち上がって来ない以上、体力も必要無――
「――いやぁ……驚いたわ。まさかここまでやるなんなんてなぁ。ワイも、まだまだ勉強不足やな」
「……なッ!?」
……もう二度と聞きたくなかった、ヤツの声が再び響く。
土煙の中に一つのシルエットが浮かび上がり、やがてそれは、人の形をとり――
「――せやけど、あんさんも勉強不足やで。感染者の耐久力がどれくらいのもんか、これでよー分かったやろ?」
「……沢…代……在人……ッ!」
体中に傷を追い、頭からは血を流してはいるが、沢代自体には、まだまだ余裕が有りそうだった。
――そして、俺が追わせた手傷さえも、しばらくすると瘡蓋が出来上がり、剥がれ落ち、跡形も無く修復されてしまう。
やつの体力がどれだけ残っているのかは見た目には判断出来ないが、その見た目だけならば、まだ幾らでも戦えてもおかしくは無い。
――やべぇな。
――でも、ここで諦めたら、恐らく俺も死ぬ。……だったら、いっそのこと――。
「――最後まで……醜く足掻いてやるッッ!!!」
「――えぇで……まだまだ、勝負はこれからやッ!!!」
棒きれの様になってしまった足を、脊髄に働き掛け無理矢理動かして、再び駆ける。
足がコレでは、縮地は……もう使えない。当然、刻底も打てはしない。
ならもう残った選択肢は――『殴る』…だけ、だな。
――でも、その選択が出来るなら、諦めないで戦える。
だったら戦う。足掻いてやる。それが、俺の『選択』だ。
――だが、この戦いは、あまりにも呆気ない形で、終幕を迎えた。
俺と沢代が、体と体が、拳と拳が肉薄し、今にもぶつかり合う――その瞬間。
ヒュッ、と、俺のものとも沢代のものとも違う、何かの風切り音が響き…、それが俺と沢代の目の前――目測で、30センチメートルの隙間を通り抜けていった。
一瞬チラッと見えただけではあったが――間違いなく、アレはナイフの類――マンゴーシュ。それも、真っ黒に塗装された、オーダーメイドのものだ。
俺も沢代も、その投げられたマンゴーシュに反応してしまい、体の動きを完全に停止させてしまう。
――誰だッ!!俺達の真剣勝負に水を差す奴はッ!!
どうやら沢代も似たようなことを考えているらしい。
一瞬動きが同調して、ナイフが飛んできた方向を同時に見遣り――そこで俺達の同調も、戦意も途切れた。 ……一応補足するなら、同調が途切れたのは、俺が驚愕に、沢代が恐怖に顔を歪めたこと。戦意が無くなったのは、俺が安堵に、沢代が戦慄に包まれたからであろう。
「在人。私は君に、あくまで彼に稽古をつけてやって欲しいと頼んだはずだ。――それが、何故本気の殺し合いになっているのか、そこのところの説明をしてもらっても、構わないかな?」
階段の側の暗がり、そこからゆっくりとこちらに向かう、もう一つの人影。
女性のものであるが、どこか凛々しい声だけでも、大体誰なのかは察しがつくが――姿を現されると、改めて驚いてしまう。 暗がりの中では、その色が闇に同調してしまうほどの、漆黒に染まった、ゴシック調のドレス。
そして、それとは対照的に、僅かに見える真っ白な肌。それよりも更に白い、純白のロングヘア。そして、無彩色の中で唯一、ルビーの如く深紅に輝く、二つの目。
こんな特徴を持った少女など、俺の知り合いには一人しかいない。
――シルヴィア=ヴラート=ドラケリア、その人が、今この場に現れたのだった。