かむな様
足裏に感じる遠浅の砂がじくじくと滲むような冷たさに、ふと顔を上げる。取り立てて暖かい日でもないが、上からの日差しと砂の照り返しは、目が少し痛いくらいだ。波音は海風に遮られ、ほとんど耳に届かない。いや、もしかしたら音に慣れ過ぎてしまって、脳が認識しなくなっているだけかもしれない。
春とは言えまだ肌寒いせいか、浜には俺と潮田以外の人影は殆ど見当たらない。潮干狩りにはまだちょっと早かっただろうか。俺の左手の網には、やや小ぶりな浅蜊と蛤が四分の一ほど入っている。
地元民も殆ど近寄らないって言ってたけど、本当だったんだな。浜への立ち入りも海産物の持ち帰りも禁止されてないらしいのに。
「ほら、この前言っただろ? これだよ!」
潮田が喜色満面で、重ねた両手を差し出した。
手を開くと、そこには立派な鋏を揃えた寄居虫が一匹、触覚のような短く突き出た目を蠢かせていた。
仕事後にちょっと時間をくれと潮田に声を掛けられ、面食らった。ぶっちゃけ、同期ってだけで仲が良いと言うほどの付き合いも無かったからだ。面倒だと思ったが、まだ本調子じゃないのか、青白い顔で仕事の進捗を知りたいと言われれば、まあ、気持ちは分からなくもない。そんな訳で、潮田の奢りでカフェに寄る事になった。
「迷惑かけてごめん」
「おー、気にすんな。お前が居なくても全然仕事回るわ」
俺の軽口に、潮田が微笑む。まあ実際、俺等はまだ、重要な仕事を独りで受け持ってる訳でもない。だからこそ声を掛けられたのが不思議だった。そもそも、何故、俺なんだろう。案の定、仕事のことなんてすぐに話が尽きて、雑談が始まった。趣味の話や互いの出身地の話になり、そこで初めて、潮田が海の近くで育ったことを知った。
「うちの近くは遠浅でさ、潮干狩りができるんだ。ちょっと先までは漁協がしっかりしてるからね、うちの方まで人が来ないから穴場なんだ」
「残念、俺、あんまり貝類って得意じゃねえんだわ。海老、蟹は好きなんだけど」
俺の言葉に、潮田が首を傾げる。
「寄居虫は?」
「え? 寄居虫って食えるの?」
潮田が勢いよく頷く。
「最高だよ。僕は味噌汁が好きだけど、味付けしないで食べても美味いんだ。シュリンプカクテルみたいに盛り付けるとややオシャレ飯、みたいな?」
ちょっと興味が湧いた……潮田に。
こいつ、こんな普通に、いや寧ろ普通よりも喋るキャラだったんだ。勝手に、もっと陰気な感じだと思ってたわ。背が低めなせいか、何時も顔を俯かせていたせいか、正直言って真面に顔を見た記憶が無い。まあ俺は背がデカくてちょい厳つめだから、大抵の人は最初目を合わせてくれないんだよな。こう見えて喧嘩の一つもしたことない、読書が趣味のバリバリ文系人間なんだけど。
結局、思いの外気が合った俺等は、次の週の休みに、潮田の運転で潮干狩りという渋めのアクティビティにチャレンジすることになったのだ。
「おい」
潮田が捕まえた寄居虫を覗き込んでいると、背後から声を掛けられた。驚いて振り返ると、真後ろにいかにも地元民っぽい中年の男が立っていた。
ぎょろっとした目のおっさんは塩辛声で、
「~~だ? かむな様 ●●なし〇〇△で□~な? かむな様の……」
訛りなのかおっさんの活舌の問題なのか、何を言ってるのかさっぱり分からないが、「かむな様」という単語だけは何とか聞き取れた。
戸惑う俺を余所に潮田が、
「△△△の□〇●は●○○な」
おっさんと話し出した。あーこれ、訛りなのか。俺の地元から県二つ跨いだだけで、こんな聞き取れないもんなんだな。
やけに真剣な顔をした潮田の言葉に、おっさんが時折頷く。もしかして、おっさんは漁協の人とかなのかもしれない。潮田も知らない間に潮干狩り禁止になったとか、いかにもありそうに思えた。
ここに来たのは、言ったらただの暇つぶしだ。貝を戻せってことならそれでも構わない。潮田にも前に言ったが、食べるのが面倒だし、貝類ってそんなに好きじゃないんだ。面倒になる前に謝るか。
すいません、と詫びて網を逆さにしようとした俺に、おっさんは首を振って笑った。
「持ち帰っていいんですか?」
「別に問題ないよ。ただ、大事に食べてくれってさ」
潮田の言葉に、おっさんは笑ったままじっとこちらを見ている。なんだろう……言葉がよく分からなかったこともあって、ちょっと気味悪いな。
「な、そろそろ帰ろうぜ」
「うん」
俺と潮田はオッサンに会釈し、駐車場に向かった。
車に積んだクーラーボックスの中に用意した、砂抜き用の入れ物に採って来たばかりの貝と寄居虫を入れる。こうしておくと、家に帰ってすぐに調理できるんだそうだ。流石に手慣れてるんだな。この後は潮田のアパートに寄って、シーフードパーティの予定だ。
「俺、あんま料理できないぞ」
「大丈夫、今日は僕が作るから。悪いけど途中で白ワインだけ買ってよ。料理にもちょっと使いたいし、安いのでいいからさ」
潮田、お前好い奴だな。文句も言わずに運転してくれて、飯作ってくれて……お前が女なら惚れてるわ。
途中トイレ休憩に寄ったコンビニで白ワインとちょっとしたつまみを買って、一路、潮田のアパートへ。
「うん、良い感じに砂抜きが済んでるな」
部屋に着くなり、潮田はクーラーボックスから今日の戦利品を取り出し、早速調理を始めた。手伝いを申し出たら「いいから、あっちで飲んでなよ」と冷えた缶ビールを押し付けられた。まだ冷蔵庫に入ってるから適当にやってて、と言われ、喉が渇いていたし殆ど一気飲みし、二本目を冷蔵庫から取り出す。
そう言えば、浜で会ったおっさんは何て言ってたんだろう。潮田に訊ねると、
「ああ、随分大きな兄さんだな、だってさ。かむな様も喜ぶだろうって」
「かむな様って、なんだ?」
……なんか、覚えがある言葉な気もするんだけど思い出せない。
「かむな様は神様だよ。あの辺りの海を見そなわしてくださってるんだ」
「へー」
なんで神様が俺がデカいことを喜ぶんだろう……ま、いっか。酔いが回って来たのか、考えるのが面倒臭くなってきた……ちょっと眠い……。
「おーい、そろそろ起きろって」
居眠りしている内に、飯が出来上がったらしい。ミニテーブルに浅利のパスタとサラダ、蛤のワイン蒸しなんかが並んでいる。
「? なんだこれ?」
小鉢に入れられた、半透明のぷるりとした生っぽい謎の何かに目に留まる。
「僕が見つけたの、見せたじゃん」
潮田が見つけたって……寄居虫か!
「寄居虫って刺身で喰えるの!?」
「海老だって蟹だって、新鮮なら刺身で食べるでしょ?」
そりゃそうだけど……言われるまま軽く塩を振って、恐る恐る口に入れてみて驚いた。
美味い。こんな美味い刺身を初めて喰った。気付けば小鉢を独りで空にしてしまった。
「悪い、全部喰っちゃった」
「ああ、元々君に食べて貰う心算だったから。僕はこの前食べたばっかりだし」
微笑んだ潮田が傾ぐ。
ゴトンッ
あれ? 傾いでいたのは潮田じゃなかったのか。気付けば俺は床に倒れていた。酔ってるのか、身体が上手く動かせない。みりみりと本能的に嫌な音がする。
天井で埋まった視界に、潮田の顔が入り込む。
「居心地はどう?」
「悪くない。まず、この大きさがありがたい」
俺の口が勝手に答える。
「でしょ?」
潮田のしたり顔に、俺はパニックだった。何を言ってるんだ? どうして身体が言う事をきかない? 視線で潮田に縋ると、
「まだ分かんない? 『かむな』って『ごうな』のことだよ」
そう笑った潮田の口から、砂浜で見た短い触覚のような目と分厚い鋏が僅かに覗いた……ああ、覚えがある筈だ。ごうなは寄居虫の古語だ。
「兄さんがさ、もっと大きい殻を探してたんだ。丁度いいかなと思って君を連れて行ったら、一目で気に入ってくれて安心したよ。地元の民も喜んでくれたし、僕も鼻が高い……ねえ、聞こえてる?」
みりみり
みりみりみりみりみりみり
みりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみりみり…………
身体の奥から響く音で、潮田の声が聴こえない。俺の身体が潮田に何か答えたようだが、それもよく分からない。思考が段々ぼやけてくる。
ただ、変にふわふわとした途切れ途切れの意識で、俺の身体はコイツの殻になるんだなという事だけははっきりと理解できた。




