第3話「森の王は腹ペコだった」
そこにいたのは、俺の常識を遥かに超えた巨大な存在だった。
月光を跳ね返すような銀色の体毛は、一つ一つの毛が絹糸のように細く、それでいて鋼のような強靭さを感じさせる。
その巨躯が動くたびに、しなやかな筋肉が皮膚の下で波打ち、森の木々が圧迫されているように見えた。
それは、ただの狼ではない。
立っているだけで周囲の空気が凍りつくような、神聖さと威厳を兼ね備えた「王」の風格を纏っていた。
俺は息を吸い込むことさえ忘れ、その金色の瞳に射すくめられていた。
足が震え、逃げようとしても筋肉が石のように固まって動かない。
これが、異世界の「死」というものか。
そう悟り、俺は無意識に、手元に残っていた最後の角煮の欠片を握りしめていた。
銀色の狼は、低く唸り声を上げることもなく、ゆっくりと俺の方へ歩み寄ってくる。
巨大な前足が地面を踏みしめるたびに、枯れ葉が重々しい音を立てる。
俺の目の前、わずか数メートルの距離で、その化け物は足を止めた。
見上げるような高さにある鼻先が、ヒクヒクと小刻みに動く。
その視線は、俺の顔ではなく、俺の手元にある空の器と、そこにわずかに残ったタレの香りに注がれていた。
『……ぬ。……ぬぅぅ……』
地鳴りのような響きが、狼の喉元から漏れ出る。
それは威嚇ではなく、どこか困惑し、切望しているような、不思議な音色だった。
狼は器に向かって鼻を近づけ、深く息を吸い込んだ。
そして、驚いたことに、その長い舌で器の底をぺろりと平らげたのだ。
その瞬間、狼の目が見開かれた。
金色の瞳がキラキラと輝き、巨大な尻尾が左右に大きく振られる。
その風圧だけで、俺の周りの枯れ葉が舞い上がった。
狼は俺の目を見つめ、今度は期待に満ちた、甘えたような鳴き声を上げた。
「クゥ……ゥン」
その声を聞いた瞬間、俺の緊張の糸がぷつりと切れた。
恐怖の対象だったはずの王が、今は腹を空かせた大型犬にしか見えない。
俺は苦笑交じりに、アイテムボックスへと意識を飛ばした。
「お前、これが食べたかったのか? 伝説の霊獣だか何だか知らないが、食い意地が張ってるのは共通なんだな」
俺はボックスの中にあった予備の食材を取り出した。
保存食として入れてあった、大量の豚肉の塊だ。
それをボックスの「自動加工」機能で、瞬時に巨大な鍋へと移し、醤油、酒、砂糖、ショウガ、そして隠し味のハチミツをたっぷりと加える。
魔力を熱に変換し、圧力をかけて一気に煮込む。
通常なら数時間かかる工程を、アイテムボックス内の特異な物理法則によって数秒で完結させた。
取り出したのは、湯気をもうもうと上げる、バケツほどもある特大サイズの角煮だ。
甘美な香りが、暗い森の奥まで一気に広がっていく。
俺がそれを地面に置くと、銀狼は迷うことなく頭を突っ込んだ。
ハフハフと熱さをこらえながら、巨大な肉塊を飲み込んでいく。
その食べっぷりは見ていて清々しいほどだった。
肉を噛みちぎるたびに、ジューシーな肉汁が四方に飛び散る。
狼は鼻を鳴らし、幸せそうに目を細めて、夢中で食事を続けた。
やがて、バケツほどの肉を全て平らげた狼は、満足そうに大きな、温かい息を吐き出した。
その息からは、ショウガの爽やかな香りが漂ってくる。
狼はゆっくりと俺に近づくと、その巨大な頭を俺の胸元に預けてきた。
ずしりとした重み。
そして、驚くほど柔らかく、温かい毛並みの感触が掌に伝わる。
指を沈ませると、極上の毛布に包まれているような心地よさがあった。
狼は心地よさそうに目を閉じ、俺に身を委ねている。
「フェリル……。お前の名前、これからはフェリルでいいか?」
俺がそうつぶやくと、狼は「分かっている」と言わんばかりに、一度だけ短く鳴いた。
どうやら、この森で一番強力な味方を得てしまったらしい。
俺はフェリルの首筋に顔を埋めた。
ひんやりとした夜の空気の中で、この生き物の体温だけが、確かな生命の鼓動を伝えてくる。
王宮で受けた屈辱も、未来への不安も、この圧倒的なもふもふの温もりの中に溶けて消えていくようだった。
俺は決めた。
この相棒と一緒に、誰も俺を縛れない、自由な場所を探しに行こう。
美味しい料理と、心地よい居場所。
それを手に入れるための商売を、ここから始めよう。
森の木々の隙間から、月が昇っていく。
銀色の毛並みを照らすその光は、俺たちの前途を祝福しているかのように、どこまでも優しく輝いていた。




