番外編「銀狼の至福と秘密の晩餐」
夜の静寂が、サトウ商会の迎賓館を優しく包み込んでいた。
昼間の喧騒が嘘のように消え去り、聞こえてくるのは、庭園の木々が風に揺れる微かなざわめきと、遠くで鳴く夜鳥の低い声だけだ。
フェリルは、特別に誂えられた巨大な寝床の上で、手足を伸ばしてくつろいでいた。
その場所は、毛足の長い絨毯が幾重にも敷き詰められ、まるで雲の上にいるような柔らかさだった。
だが、フェリルが一番気に入っているのは、この贅沢な設えではない。
部屋の隅にある小さなキッチンで、大好きな主人が自分のためだけに料理をしている、その「気配」だった。
包丁がまな板を叩く、トントントンという軽快な音。
鍋の中で何かがじっくりと煮込まれ、コトコトと音を立てるたびに、部屋の中に芳醇な香りが満ちていく。
「クゥ……ン」
フェリルは鼻をヒクヒクと動かし、期待に胸を膨らませた。
今回の香りは、以前に食べた「角煮」よりも、さらに濃厚で、かつ爽やかなスパイスの香りが混ざっている。
主人はときおり、味見をしながら満足そうに頷いている。
その背中から漂う穏やかな感情が、フェリルの心にも伝わり、彼を深い幸福感で満たしていった。
かつて、この森で孤独な王として君臨していた頃、フェリルにとって「食べる」とは、ただ生命を維持するための作業でしかなかった。
冷たい肉を食らい、渇いた喉を潤す。
そこに喜びや安らぎなどという概念は存在しなかった。
だが、あの日、森の中で出会ったこの奇妙な人間は、フェリルの世界を根底から変えてしまったのだ。
「お待たせ、フェリル。今日は特別に、東方の最高級の肉を、数種類の果実と赤ワインで煮込んでみたんだ。名付けて『フェリル特製・極上シチュー』だ」
ケンイチが、自分の身体ほどもある巨大な銀色の器を運んできた。
器の中には、深い褐色をしたスープに浸かった、拳よりも大きな肉の塊がゴロゴロと入っている。
表面には、彩り鮮やかな緑のハーブが散らされ、そこから立ち上る湯気は、嗅ぐだけで魂が震えるほどの誘惑を伴っていた。
フェリルは行儀よく座り直し、ケンイチが「よし」と言うのを待った。
「さあ、召し上がれ」
その合図と共に、フェリルは夢中で食らいついた。
肉を口に含んだ瞬間、驚くほどの柔らかさで組織が解け、中から溢れ出した肉汁が舌の上で爆発した。
果実の甘みとワインの渋みが肉の旨味を極限まで引き立て、飲み込むのが惜しいほどの多幸感が全身を駆け巡る。
『……ぬぅぅん……』
フェリルは歓喜のあまり、喉の奥を鳴らした。
熱々のスープを飲み干し、骨の周りの一番美味しい部分まで綺麗に平らげる。
最後の一滴までなめ取ったとき、胃のあたりからじんわりとした温かさが広がり、心までがふんわりと軽くなったような気がした。
食後の余韻に浸っていると、ケンイチが隣に座り、フェリルの首筋の辺りを優しく撫で始めた。
「美味しいか? フェリル。お前がいてくれたから、俺はここまで来れたんだ。感謝してるよ」
その手のひらの温かさは、どんな極上の料理よりもフェリルを安心させた。
自分をただの怪物としてではなく、一人のパートナーとして、家族として見てくれる存在。
フェリルはケンイチの肩に頭を預け、大きな瞳を細めた。
窓の外では満月が輝き、銀色の毛並みを優しく照らしている。
明日もまた、この愛すべき主人と共に、新しい味と冒険を探しに行く。
そう思うだけで、フェリルの心は、満腹の腹と同じくらい、幸福でパンパンに膨らんでいた。




