さよならを、喉の奥に抱きしめて
空に太陽はなく、ただ「記憶の海」と呼ばれる銀色の星雲が、夜の帳をそっと撫でるように揺れている世界。
エリスがその異界で目を覚ましたとき、足元には透明な「硝子の草原」が広がっていました。一歩踏み出すたびに、足首のあたりで鈴が転がるような、繊細で涼やかな音が響きます。
彼女は自分の名前を呼ぼうとしました。けれど、唇から零れたのは声ではなく、小さな「青い蝶」でした。彼女の言葉から生まれた青い蝶は羽を震わせ、銀色の空へと吸い込まれて消えていきます。
「ここでは、言葉は重荷にしかならんよ」
振り返ると、影のない老人が古びた時計塔の前に立っていました。調律師・ゼプトです。彼はエリスの喉元を見つめ、静かに微笑みました。
「君の喉には、出し損ねた言葉が宝石の原石のように詰まっている。それを取り出し、磨き、空へ還してあげよう」
時計塔の中は、無数の歯車が噛み合う微かな音で満たされていました。
ゼプトはエリスを連れて、塔の最上階にあるテラスへと向かいます。そこには、銀の糸を垂らした長い釣竿が置かれていました。
「今夜は潮が良い。君の胸にある『重み』を、この海に投げ入れてごらん」
エリスはゼプトに促されるまま、硝子の針を銀色の星雲へと投げ入れました。
しばらくすると、糸が震え、手元に鋭い痛みが走ります。必死で引き上げた先についていたのは、魚ではなく、淡く発光する「記憶の欠片」でした。
それは、数年前の湿った午後の記憶。
病室のベッドで眠る母の、骨張った白い手。
エリスはあの時、「ごめんね」と言いたかった。けれど、幼いプライドと恐怖が喉を塞ぎ、最期までその言葉を飲み込んでしまったのです。
釣り上げられた記憶の結晶は、エリスの手の中で熱を持ち、心臓の鼓動に合わせて脈打ちました。
「それを私に預ければ、君の喉のつかえは取れる。痛みも消え、君はこの世界の住人のように、影を持たず軽やかに生きられるだろう」
ゼプトが、透き通った手を差し出します。
エリスはその結晶を見つめました。それはあまりに哀しく、けれど、彼女がこれまでの人生で抱えてきた唯一の、本当の「重み」でした。
(これは……捨ててはいけないものだ)
エリスは、差し出されたゼプトの手を拒みました。
彼女は結晶を、自分の胸の奥へと強く押し戻しました。宝石に変えて忘却するのではなく、その痛みを、自分の体温で溶かしながら抱えて生きていくことを選んだのです。
その瞬間、世界が震えました。
ゴーン――。
一度も鳴ったことのない時計塔の鐘が、重厚な音を立てて響き渡りました。硝子の草原が共鳴し、音楽のような振動が足裏から伝わってきます。
見ると、エリスの足元には、濃く、確かな「影」が伸びていました。
「……そうか。痛みこそが、君を君たらしめる重石だったのだな」
ゼプトの声が遠ざかっていきます。銀色の星雲が急激に眩しさを増し、エリスの視界を白く染め上げました。
次に目を開けたとき、鼻先をかすめたのは硝子の匂いではなく、湿った土と緑の香りでした。
現実の、深い霧が立ち込める樹海の中。
エリスは、自分の喉をそっと撫でました。そこにはもう、言葉を邪魔する異物感はありません。
彼女はゆっくりと息を吸い込み、震える唇を開きました。
「ただいま」
その声は青い蝶にはならず、確かな音となって、霧の向こうへと溶けていきました。




