トイレ
千佳は夫である亮の実家に行くのがいつも憂鬱だった。
夫の実家は宮崎県にある。夫の実家に行くといつも皆が温かく千佳を迎えてくれた。義両親も、二人の子供を持つ義妹夫婦も、皆が千佳に優しかった。
しかし、千佳にはこの夫の実家で唯一、どうしても耐えられないことがあった。
それは、家のトイレだった。
数年前、初めて亮の実家を訪れたときのこと。最初のうちは緊張していた千佳も、温かい歓迎と美味しい地酒のおかげで、すっかりリラックスしていた。元々トイレが近い千佳は、普段よりも多めにお酒を口にしたこともあり、深夜、尿意で目を覚ました。
隣では、千佳以上に酒を飲んだ亮が、幸せそうに寝息を立てている。起こすのは忍びなく、千佳は音を立てないようにそっと部屋を出た。
漆黒の闇に包まれた廊下を、壁伝いに進む。トイレは廊下の突き当りにある。ドアを開け、明かりをつける。そこは一坪もないほどの狭い空間で、便座に座ると、手を伸ばせば入口のドアに触れられるほどだった。
用を足し終え、ほっと一息ついた千佳が立ち上がろうとした、その時だった。
背後から、凍えるような視線を感じた。
便座の後ろの壁には、上部に換気用の小窓がある。曇りガラスがはめ込まれたその窓は、夜の闇を鈍く透かすだけで、その向こうの様子ははっきりと見えないはずだった。だが、千佳はそこに何か「影」があるのを感じた。
何だろうと目を凝らす。次第に、その影に歪んだ輪郭が浮かび上がっていく。千佳は息をのんだ。それは、窓ガラスにへばりつくように押し付けられた、人の顔の輪郭だった。
額、目、鼻、そして歪んだ口。それが誰の顔なのかは分からない。ただ、ガラス越しにもわかるその表情は、千佳の恐怖を嘲笑うように口角が吊り上がっていた。
「ひ……っ」
声にならない悲鳴が喉の奥で詰まった。千佳は素早くズボンを上げると、トイレのドアノブに手を伸ばし、乱暴に開けて外へと飛び出した。そのままの勢いで部屋に戻り、亮の隣の布団に潜り込む。心臓がうるさく鳴り響いている。
亮を起こして話そうか。でも、こんな時間に起こして「幽霊を見た」と話したら、困らせてしまうだろう。そう思い直して、千佳は一晩中眠れないまま、朝日を待った。
翌朝、亮に起こされて目を覚ます。時計を見ると、もう十時を回っていた。
「いつまで寝てるんだよ」
亮は苦笑いしている。千佳は謝りながら、昨夜の出来事を亮に話した。亮は黙って話を聞いていたが、話し終えると千佳の手を引いて部屋を出た。
「とりあえず、ついて来て」
亮に言われるまま、千佳は玄関で靴を履き、外へ出た。家の裏に回ると、そこは隣家に面していて、亮の実家と隣家の間には、人の背丈ほどの高さのブロック塀が立っている。そのブロック塀に面するように、あのトイレの小窓があった。
「あれがトイレの窓だ。見ての通り、ブロック塀があるから人が入れるわけがない」
亮は淡々とそう告げた。千佳はただ頷くしかなかった。確かに、どう考えても人が入り込める隙間はない。あの顔は、一体何だったのか。亮は千佳の顔をじっと見つめ、ため息をついた。
「疲れてたんだよ。それに、寝ぼけてたんだろ。どうせ」
その言葉は、まるで千佳が見たものを無かったことにしろ、と強要しているかのようだった。千佳はそれ以上何も言えず、亮に続いて家の中に戻った。
その日の午後、亮は地元の友人と会うため、一人で出かけていった。千佳は暇を持て余し、義妹の伽耶に誘われて一緒に買い物に行くことになった。
車を走らせてしばらくして、伽耶が尋ねてきた。
「お兄ちゃんと、朝から家の裏で何をしていたの?」
千佳は戸惑った。亮が何も言うなと口止めしたわけではないが、この話を他人にすることにためらいがあった。しかし、うまく誤魔化す言葉も見つからず、千佳は正直に昨夜の出来事を話した。
千佳の話を聞き終えた伽耶は、ハンドルを握ったまま、ふっと口元を緩めた。
「やっぱり」
千佳は伽耶のその言葉に、胸の鼓動が速くなるのを感じた。
「やっぱりって、何か知っているの?」
伽耶はまっすぐ前を見て、あっけらかんと言った。
「あのトイレ、出るのよ」
「出るって、何が?」
「幽霊よ」
伽耶の話はこうだった。夜中に女性がトイレに入ると、小窓から覗き込む幽霊が出る。しかも、それが覗くのは女性だけだという。
「いやらしい幽霊よね」
伽耶はそう言って、笑った。その笑いが千佳には恐ろしく感じられた。
「怖くないの?」
千佳が絞り出すように尋ねると、伽耶は笑いながら言った。
「慣れちゃったのよ。この家に引っ越してきたばかりの頃は、私や母は怖がっていたけど、男どもに話しても誰も信じないし、『そんなものはいない』って言い張るし。それに、夜中に覗くだけで、それ以上のことは何もしないって分かったから」
千佳は、笑いながら話す伽耶の表情に、寒気を感じた。恐怖を異常なまでに軽んじるその感覚が、千佳には理解できなかった。
「じゃあ、亮も知っていたの?」
千佳が尋ねると、伽耶は少し口ごもった後、正直に話した。
「お兄ちゃんは、自分が見たことがないから、今でも信じていないのよ。だから、千佳さんが来る前に『余計なことは言うな』って口止めされてた」
千佳は、自分が孤立無援であることを思い知らされた。自分が見たものが幻覚ではなかったこと、しかし、その恐怖をこの家で共有できる人間はいないこと。亮は千佳の精神的な苦痛を「気のせい」として片付け、伽耶は幽霊の存在を受け入れながらも「覗くだけだから大丈夫」と平然としている。そのどちらの反応も、千佳にとっては恐怖でしかなかった。
だから千佳は亮の実家に行くのがいつも憂鬱だった。