第6話_亜梨沙、紙と鉛筆の作戦会議
4月12日、金曜日の午後。
喫茶「ハーバーライト」は、港沿いにある昔ながらの店だった。
メニューの更新は5年前で止まり、店内のBGMはカセットテープから流れている。
その店の一番奥、電源のない角テーブルに、真剣な顔で紙に何かを書き連ねている女性がいた。
亜梨沙である。
テーブルの上には、色分けされた付箋、電卓、そしてA4サイズのルーズリーフが綴られた紙台帳。
その横には、なぜか鉛筆削りが置いてある。
使っているのは、シャープペンではなく、鉛筆——しかも濃さ違いで数本用意されている。
「えーっと、予備費一万円、広報印刷で五千円……ドローン機材修理に……は、もうちょい後で考えるか」
彼女は鉛筆を持つ手を止めて、少しだけ唇を尖らせた。
数式アプリや表計算ソフトなどは使わない。スマホで電卓を叩くだけでも、どこか緊張する。
そんな時だった。カラン、と鈴の音。喫茶店の扉が開き、入ってきたのは樹だった。
「お、もう来てたんだ」
「30分前には」
「え、なんで?」
「鉛筆が滑るときって、思いついてる時だから。思いついたら止まらないの」
樹は空いた席に腰を下ろし、持っていた手提げバッグをテーブルに置く。中から出てきたのは、プリント資料と、理央がつくったチェックリストのコピー。
「……で、今日はお願いがあって」
「聞く前に答える。会計、引き受けるよ」
「え、なんでわかった?」
「予感。あと、樹が“お願いがある”って顔してた」
そう言って亜梨沙は、カップのミルクティーを一口すすった。
「それに、私がこういうの担当するって、最初から決まってたみたいなもんでしょ? 慎重すぎてめんどくさい性格、こういう時だけ便利らしいから」
「そんな言い方するなって。慎重なのは強みだよ」
「ありがとう。でもね、私はテクノロジーに弱い。みんながスマホでサクッと済ませること、私は10分かかる。だから、そのぶん抜けがないように見ていく」
そう言って、彼女はルーズリーフを1ページ破り、樹の方に差し出す。
そこには、既に「初期資金案」と題された費目が10項目ほど書き出されていた。
「まだ概算だけど、スタートラインの数字はここ。あとは各項目の担当が決まれば、細かく精査できる」
樹はその紙を両手で受け取ると、素直に頭を下げた。
「ありがとう、本当に助かる」
「礼はいらない。その代わり、予算超過したら真っ先に文句言うからね」
「見落としやすい項目はね、付箋に書くの」
そう言って、亜梨沙は黄色、青、ピンク、緑の付箋をそれぞれ1枚ずつ並べた。
「黄色は固定費。ピンクは変動費。青は不確定要素。緑は“未検討だけど後から響く可能性のあるもの”」
「……地味にすごいなそれ」
「でしょう? ちなみに付箋は紙だから、スマホより目につく。あと、ペンの走り方で自分の集中度もわかる」
彼女の口調はいたって淡々としていたが、そこには誇りのようなものがあった。
テクノロジーには疎い。それは事実だ。けれど、紙と鉛筆という「自分の武器」で戦ってきたのだ。
「でもさ、紙って劣化するし、データ共有には向かないよな?」
「うん。だから、それは誰かに任せる」
きっぱりと言ったその一言に、樹は思わず笑った。
「分担、ってやつだな」
「そう。得意な人がやる。私は慎重に組み立てて、間違いなく伝える。それだけ」
その言葉には、芯の強さがあった。
自分の弱点を認めたうえで、それを補う方法を知っている人間の声だった。
「じゃあ次の会議、資金構成について話す場面では、君に仕切ってもらっていい?」
「いいよ。その代わり、プロジェクター使わないで。紙芝居スタイルでいくから」
「わかった」
夕暮れが窓の外に落ちる頃、二人の前にあるテーブルには、緻密に計算された「未来」の設計図が形になりつつあった。
亜梨沙は鉛筆をナイフで削りながら、ぽつりと呟いた。
「……これ、本当に残せるかな。灯台」
「わからない。でも、こうして誰かが動き始めた時点で、可能性はゼロじゃなくなったと思ってる」
亜梨沙は、削った鉛筆の芯を見つめて頷いた。
「じゃあ、ゼロじゃない分、私は全部埋めるつもりで数字見てくから」
その姿は、決して派手ではない。
でも確実に、このチームの“地盤”になっていく存在だった。