第5話_祐介の深夜ランニング
4月11日、木曜日。午前2時。
潮崎市を流れる天神川の河川敷は、街灯の灯りさえ届かぬほどの闇に包まれていた。
だが、その中を一定のリズムで足音が刻んでいく。
スニーカーがアスファルトを踏み、呼吸が小さく吐かれる。
祐介は、いつものように夜のコースを走っていた。
長距離ではない。5キロの周回。
けれど、この静寂の中を走ることが、彼にとっては日々の儀式だった。
「……今日も、変化なし」
独り言のように呟き、ペースを少しだけ上げる。
自分を変える——それが祐介のここ数年のテーマだった。
変わらなきゃいけないと思ったのは、大学時代のある失敗がきっかけだったが、それはもう誰にも話していない。
ただ、変わるには行動しかないと信じていた。
体を鍛え、日課を続け、職場でも冷静に立ち回る。
でも、それはあくまで“自分の中”の改革だった。
——誰かと何かを成し遂げる、なんてことはもうないと思ってた。
今夜のスマホ通知を見るまでは。
ランニングを終え、橋のたもとに設置された木製ベンチに腰を下ろす。
水筒の水を一口。冷たい空気が喉に染みる。
そして、スマホを取り出し、再生ボタンを押す。
亮汰の動画。灯台を背景に跳ぶ姿。腹から落ちる間抜けな構図。
でもその裏に透ける“真剣さ”に、祐介は妙な既視感を覚えた。
「……樹、マジなのか」
動画の最後に映るメッセージ。
“君の記憶に、この光を”
祐介は、顔をしかめて笑った。
「安っぽいコピー……だけど、なぜか刺さるな」
ポケットの奥に手を突っ込むと、もう一枚の紙片を取り出した。
それは、灯台解体の予定を記した市報のコピー。
3日前、市役所の掲示板から剥がれていたそれを、何となく拾ってポケットに突っ込んでいた。
今思えば、あの時から何か引っかかっていたのかもしれない。
彼はスマホを開き、樹のメッセージに返信を打つ。
【久しぶり。走ってたら腹減った。明日、何か食いながら話すか】
打ち終えると、即座に送信ボタンを押す。
返信が来るかどうかは分からない。だが、自分から動くことに意味がある。
それが「変わる」ということだと、祐介はもう知っていた。
翌日の夕方、祐介は潮崎市内の定食屋「すずらん亭」で樹と向かい合っていた。
古びたのれんと、座敷のある店内。メニューはカツ煮定食とサバ味噌定食の二択だけ。
「選ぶ時間を省けて合理的だろ?」と語ったのは、他でもない祐介だった。
「で、工程の話って?」
カツ煮をつつきながら、祐介は淡々と問う。
樹は持参した資料を差し出す。だが、紙はしわくちゃ、構成はバラバラ、内容も手探り感が強い。
「……こりゃひどい」
「自覚はある。理央にもフルボッコされた」
「当然だな」
だが、祐介はすぐにペンとメモ帳を取り出し、残っていたご飯をかきこんで箸を置くと、無言で書き始めた。
1. 仲間集め(4月中旬まで)
2. 灯台の現状調査(4月下旬)
3. 資金計画・許認可の整理(5月中旬)
4. 市への提案書(6月初旬)
「こんな感じでマイルストーンを組め。細部は俺がExcelで作る」
「お、おお……助かる」
「手伝うとは言ってない。これは自分の挑戦の一環だ」
祐介は目線を上げることなく、はっきり言い切った。
「俺は“変わりたい”って思って、こういう行動してる。だから協力というより、乗っかる。わかるか?」
「……わかる気がする」
「で、俺が乗るなら、今後の工程は俺に投げろ。感情で走るな、数字で走れ。突発対応はしても突貫工事はしない。俺は冷静に進める」
その言葉はどこまでも実務的で、だがどこか熱を含んでいた。
冷静沈着であろうとする彼の中にも、静かに燃える炎があるのだと樹は感じた。
「変わろうとしてる人間がいるなら、俺もちゃんとやらないとな」
そう返すと、祐介はようやく小さく笑った。
「そうそう。それでこそ、あの頃の“放送部長”だろ」
夜、祐介は再び天神川沿いを走っていた。
呼吸は整い、リズムは安定している。
けれど今日は、心の中にひとつ、新しいステップが刻まれていた。
——これは、ただのランニングじゃない。未来へ向けた助走だ。