第2話_理央のチェックリスト
4月8日、火曜の夜。
潮崎第三マンションの三階、部屋番号301の前で、樹は一度深呼吸をした。
外廊下の照明が、天井から白々しく照らしている。
インターホンは押さない。約束通り、ノック三回。
トン、トン、トン。
数秒の沈黙ののち、内側から電子ロックの解除音。
ドアが音もなく開き、理央が顔を出す。
メイクはうっすら、シャツの袖は肘までまくり、髪は後ろで一つに結ばれていた。部屋着のままというわけでもないが、明らかに「作業する気満々」の装いだった。
「入って」
靴を脱いで中に入ると、すぐ右手のダイニングには書類を並べるためのスペースが作られていた。
ダイニングテーブルの上には、文具類が整然と並んでいる。ボールペンにシャープペン、三色マーカー、蛍光ペン、付箋、ホッチキス、クリップ、そして裁断バサミまで。まるで学校の家庭科準備日だ。
「ここ、使っていい?」
「どうぞ」
樹はバッグから該当資料を取り出し、理央の前に並べていった。印刷した市の資料、自作の計画案、灯台の現況写真、以前の放送部の台本コピーまで。
理央はそれを一瞥した後、赤ペンを手に取り、躊躇なく書き込みを始める。
「まず、スケジュール感。撤去予定が来年三月ってことは、逆算すると申請や施工は今年中に終えなきゃ無理」
「うん、そこは意識してた」
「でも、具体的には“いつ何を終わらせるか”がどこにも書いてない。せめて月単位でマイルストーンを立てて」
ペンの走る音が小気味良く続く。
理央はひとつの項目に目を通すと、必ず赤ペンで何かを加えたり消したりする。その手つきに迷いはない。
「あと、これ。“市民に開かれた場を目指す”って書いてあるけど、実態がぼんやりしてる。どの世代を想定してる? 高齢者? 小学生? 働き盛り?」
「いや、それは全世代……」
「それは駄目。“みんなのため”は“誰のためでもない”と同じ。ターゲットの輪郭が曖昧だと、計画もふわふわする」
理央は赤ペンを止め、ちらりと樹の顔を見た。
「……ついてこれてる?」
「うん……いや、ちょっと息切れしてるけど、ちゃんと受け止めてる」
樹の返事に、理央は小さく頷いた。
その後も指摘は続いた。法的手続きの見落とし、費用試算の曖昧さ、施工可能業者リストの未作成……。
テーブルの上に、修正だらけの資料が積み上がっていく。
「いい? これは夢じゃなくて、計画。現実にするには数字と段取りが必要なの。情熱だけで動いたら、すぐに破綻する」
理央は、厳しくも真っ直ぐな目をしていた。
樹はその視線に頷いた。自分がどれほど甘かったか、いま改めて思い知らされた気がした。
けれど、不思議と心は折れていなかった。むしろ、背中を押される感覚があった。
理央の部屋には、壁掛け時計の秒針の音が静かに響いていた。
赤ペンのキャップを閉める音が合図のように、ついに理央の手が止まった。
「……はい、ここまで」
テーブルの上には、赤字だらけになった書類の山と、ふせんがぴっしり貼られたチェックリスト。
費用概算、必要手続き、市議会提出用の概要案、施工時期候補、市民説明会の必要性など、理央の頭の中にある“やるべきこと”がすべて書き出されていた。
「これ、今日だけで?」
「仕事終わってからの三時間よ。ちょっと肩凝った」
「……すごいな。というか、ありがとう」
樹の声は、自然に低くなった。
無理して元気を出すでもなく、照れるでもなく、ただ正直に感謝の気持ちを言った。
理央はそんな彼を横目で見ながら、紅茶のカップを手に取る。
「言っておくけど、これは始まりにすぎないからね。こっちは“チェックリストの目次”よ」
「……つまり、ここからが本番だと」
「そう。修正して、肉付けして、期限決めて、タスクごとに分担して」
理央は紅茶を一口飲んで、静かに微笑んだ。
「そして、間違いなくあなたは何度もヘコむわ」
「先に言ってくれるなよ……」
二人はわずかに笑った。
時間は深夜零時を回っていた。
理央が立ち上がり、玄関まで歩く。
「今日はもう帰って。次は、チェックリストの1番と2番、つまり“費用”と“許可関係”。週末までに下調べしておいて」
「了解。あのさ……もし、できたらでいいんだけど」
靴を履きながら、樹は後ろを振り返らずに言った。
「今度、昔の録音……あの放送部のやつ、また一緒に聴けたらいいなって」
沈黙。
振り返ると、理央は玄関のドアに手を添えたまま、すこし目を伏せていた。
「……その話は、灯台が残ったらね」
「うん」
ドアが閉まり、夜の廊下に出る。
潮風の気配はもう感じられなかったが、空気は冷たく澄んでいた。
樹は深呼吸をひとつして、階段を下りる。
今夜、理央と向き合ったことで、自分が一人ではないと初めて実感できた。
まだ何も進んでいない。計画は穴だらけで、費用も、許可も、施工の見通しすらない。
——それでも、「始まった」。確かに。
【終】