第1話_灯台の影で始まる再会
春の風が、まだ肌寒さを含んで市庁舎の屋上を撫でていった。潮の匂いが遠くから運ばれ、ビル風に混じって樹の顔をかすめる。彼は金属製の手すりにもたれ、南の海を睨むように見つめていた。
その先、海へ突き出した崖の上に、ぽつんと立つ古びた白い灯台がある。辰巳岬灯台。潮崎市の海の玄関口を照らし続けた、いわば“町の目”だ。
樹の手には一枚の市内部資料コピーが握られていた。そこには、「令和18年3月、老朽化による撤去予定」と赤文字で記されている。
ため息が漏れた。
——やっぱり、本当に壊す気なんだ。
彼は灯台の存在が自分にとってどれほど重い意味を持っていたか、今さらながらに痛感していた。
中学時代。放送部で仲間たちと録った番組を、あの灯台の下に持ち寄って聴いた日々。
「町を照らす拠点を作ろう」
当時の言葉が、波音のように蘇る。照れくさくも、確かに誓った約束だった。
「やるか……俺にできるか分かんないけど」
小さく呟いた声が、風に吸い込まれていく。
——でも、やるしかない。もう一度、あの場所に光をともすために。
その日、樹は業務を終えると、その足で市立図書館へと向かった。夕暮れの街を抜け、商店街を経由して図書館の前に着いた頃には、街灯が点り始めていた。
図書館の玄関前、石造りの低い壁に寄りかかっていた女性がひとり、スマホを見つめている。
すらりとした立ち姿、ダークグレーのジャケットにデニムの組み合わせ。よく見れば、相変わらず髪は一切無駄がなくまとめられていた。
樹は声をかけた。
「……理央」
女性が顔を上げた。
冷静さを湛えた瞳に、ほんのわずかな警戒が宿る。
「久しぶりね、五年ぶりくらいかしら」
「正確には六年。卒業して以来、かな」
「あなたが突然来なくなったから、てっきり忘れられたかと」
「……忘れてなかったよ。ずっと気になってた。でも、会わせる顔がなかった」
「その割に今日はいきなりね」
理央は表情を変えずに言ったが、その指先はスマホをしまい、壁から身体を起こした。
樹は言葉を探しつつ、核心に入った。
「実は、灯台を残したいと思ってる。できれば、図書館兼地域スペースに再生したいんだ」
理央の眉がわずかに動いた。
「は?」
「本気だよ。市は来年春に取り壊す予定で、でもまだ決定じゃない。提案書を出せば議会で検討の余地がある。だから、俺は準備したい。仲間を集めて、計画を練って、灯台を残すための……」
「待って」
理央が鋭く割って入れた。
「あなた、構想だけで走り出したわけ?」
「……正直、そうかも」
「費用、許可、施工……全部の見通しもないのに?」
「全部これから考える。だから、手伝ってほしい」
彼女は呆れたようにため息をつき、腕を組んだ。
「何もなかった六年間を埋めようとしてるの?」
「それもある。でも……」
「でも?」
「俺、もう一度ちゃんとやり直したいんだ。自分の言葉に責任を持って。あの時言った『拠点を作ろう』って言葉、嘘にしたくない。だから、まず最初に君に相談した」
理央の目に、微かに揺れるものが走った。
「……明日、夜空いてる?」
「え?」
「ワンルーム、狭いけど机はある。持ってる資料、全部持ってきて。ひとまず、チェックするから」
樹は思わず笑みをこぼした。
「ありがとう」
「まだ何もしてない。これからが地獄かもよ?」
その言葉はまっすぐで、少しだけあたたかかった。
図書館前の石畳に、二人の影が静かに伸びていた。
樹は鞄の中から書類を数枚取り出した。市の内部資料、灯台の保存歴史、そして拙いながらも自分で書いた再生計画のメモ。
理央はそれを受け取ると、ぱらぱらと目を通した。
一枚、また一枚と彼女の眉間に皺が寄っていく。
「まず、計画書。体裁が整ってない。項目の粒度がバラバラ。あと、ターゲット層の設定が甘い。どの世代に、どんな価値を提供するかが不明確」
「……はい」
「許認可プロセスも未記載。文化財指定の有無も調べてないし、そもそも耐震基準を満たしてるかどうかも把握してないでしょ」
「はい……」
樹は思わず頭をかいた。
理央の指摘は容赦なかったが、それが妙に心地よい。
きちんと「評価されている」感覚。
真正面から、夢想ではなく計画として扱ってくれている。
「……でも、悪くないわ」
その一言に、樹の背筋が伸びた。
「本当に?」
「悪いのは計画じゃなくて、詰めの甘さと資料の粗さ。つまり、修正は可能ってこと」
理央は小さく頷くと、書類を重ねて彼に返した。
「明日、19時。地図アプリで“潮崎第三マンション”って検索して。部屋番号は301。ノックは三回までよ、四回目は出ないから」
「了解。三回まで、な」
理央は小さく笑った。
その微笑が、どこか中学時代の面影を引き寄せてくる。
「あの頃と同じと思わないことね。私は今、結構忙しいの」
「分かってる。無理はさせない」
「いや、むしろ無理させるんでしょ? 灯台を残すなんて、全力で走らないと無理な話よ」
彼女は、振り返らずに言った。
その背中が、夕闇に溶けていく。
樹は、静かに拳を握った。
——第一歩は、確かに踏み出した。
あの灯台の光が、再び灯るその日へ向けて。
【終】