ビール片手に居酒屋で。 ~元カレ寝とった自称親友のざまぁで酒がうまい~
急性アルコール中毒が危険であることなど百も承知である。
私はその時死にたかったのだ。
ダンッと乱暴にジョッキを机へおいたが、雑然とした騒がしい居酒屋では誰も気にも止めない。
「もしかしてって思ってたら案の定だったわけ、そもそも私とのデートに何度も何度も偶然・・・偶然!あの女が居合わせるのがおかしいし、それを受け入れるアイツもおかしいじゃん。でも決定的っていうか、完全な浮気ではないと思ってたの。だって結婚の約束してたのよ。婚約者よ婚約者、それがまさか私からあの女へすげ替えるなんて!ふざけんなよ私の花の2年が!」
「うわぁ、婚約破棄ってやつだ。それ慰謝料ないの?」
「請求するの厳しいっぽいんだわコレ、両家の顔合わせって正式なのしてなくて・・・っていうかヤツの親父さん社長だから会ったことはあるし向こうも私のこと知ってるはずなんだけどさ?!ていうか同じ会社なのによくそんなことできたね?!やっぱ一発ぶん殴ってやればよかった!なんなの君は一人で生きていけるってなに?!生きていけるに決まってんだろ社会人じゃこっちは!」
「この揚げ出し豆腐めっちゃうまいね」
「でっしょ、私のイチオシだから!」
ここのだし巻き玉子も最高だから!とつきだしてやれば、わーいと嬉しそうに箸を向ける。かなり一方的に絡んでいる自覚はあるのだが、このご機嫌な犬のような笑顔についつい甘えてしまって、愚痴を吐き出させてもらっている。かなり面倒くさい酔っぱらいをしている自覚はあるのだが、実のところこの居酒屋で出会っただけの、初対面の青年であるから、後腐れがないというのが一番の理由かもしれない。
「ていうかその相手の女も同じ会社なんでしょ、気まずくない?」
「知らん!私は明日から針の筵だわ!」
「えぇ~ていうかお姉さんその男の何がよかったの」
アルコールで頭がふわふわしていて、はて目の前の青年に怒濤に話をしたが詳細情報はどこまで喋ったか、と考える。空になったジョッキは店員に渡しておかわりを頼み、一旦水を飲んだ。その間も青年は枝豆うめぇとちまちま食べていて、私の返事を特に急かす様子もない。その絶妙に無関心な、でも多少の興味を持ってくれている感じが丁度よくて、聞き上手だなと思う。
「・・・いいとこね、社長の息子だもの。顔や身なりがしっかりしてて育ちがいいのが一目でわかるし、物腰も柔らかかったわ。私と全然ちがったから好きになったのかしら」
「そこ疑問系なんだ」
「なぁにが良かったのかしらね!忘れちゃった」
頭のなかで初めて出会った元婚約者の彼を思い出して考えるも、どこか違う気がする。あえていうなら私を選んでもらえて浮かれていた、そんな感じだ。彼じゃないと、というより彼に選んでもらえた私は価値がある、というような・・・もしかしたらそんな私を彼は察してしまってあの女に乗り換えたのだろうか。そう思うとなんだか酔いが覚める。
「あんまり好きじゃなかったのかも・・・」
「じゃぁよかったじゃん、結婚する前で」
「そうねぇ~アイツに合わせて猫被ったままなんてどうせ破綻してたかぁ」
猫被ってたの、なんて笑って青年はグラスの底を軽く向けてきた。それに合わせて私もこつんとグラスを当てて今さらな乾杯をする。
「あー!なんか元気でてきた!ありがとうね、ここは奢っちゃる!」
「まじで?追加注文しちゃろ」
「串盛り合わせよろしく~」
もうすっかりモヤモヤとした蟠りは無くなり、あとはこの目の前の青年との会話を楽しもうと思えた。注文する横顔を改めてしっかりと見れば青年の見目は大変よく、これはモテるだろうなぁと思った。こんなお世辞にもきれいとは言いがたい居酒屋で、絡み酒の女と相席している青年とは思えない。お洒落なバーでキラキラした女の子を連れてそうだ。
「ていうか私ばっか話してるけど、あなたは何かないの」
「別にないなぁ、こういう居酒屋は初めてだし、お姉さんの一気飲みすげぇ~って思っただけ」
一杯目からしっかり見られていたのか。無茶な飲み方をする大学生ではあるまいし、と少し恥じた。だが青年は女のくせに、なんて視線ではなく朗らかに笑っていたものだから私も卑屈な部分を出さずに済む。女を捨てているわけではないが、酒を飲む女は男勝りと言われがちだ。そういう要素を排除したくて、元婚約者の前ではおしとやかにしていた。
「禁酒解禁だったのよ、そりゃ飲むわ~」
「被ってた猫はそれかぁ」
「そ、このたこわさも久しぶりなのよ」
さらに空にしたグラスを脇におき、届いた小鉢へ箸をつけた。刻まれたワサビはツンとしすぎなくて、弾力あるタコのうま味が引き立つ。白米が欲しくなるが、この居酒屋でご飯はおにぎり二つセットのものしかない。流石に多い。
「たこわさって何?」
「たことわさび!苦手じゃないなら食べて食べて」
今時たこわさを知らない人いるの?なんて煽りはしない。何故なら元婚約者も知らなかった。この青年もとんでもない金持ちの可能性がある。もしくはたこわさがメジャーじゃない地方出身とかだ。私は愚痴を吐き出してすっきりしたままに、青年へお酒もおつまみもおススメしていく。青年もわざわざ愚痴の話題を掘り下げるようなこともなく、興味津々で一口ずつ食べていく。大半を美味しい、と言うが酸っぱいのは苦手だとか一口で終えるものもあった。それもまた絶妙に相手が不愉快にならない断り方で、凄いなと感心する。
(こんな新人いたら最高だなぁ)
一瞬、覚えの悪い新人・・・元婚約者を寝取った女を思い出して嫌な気持ちになったが、グラスを呷って、忘れる。この楽しい気分を台無しにしたくない。眉間の皺をもみほぐす私に青年は首を傾げて、頭痛?と気遣ってくれた。そういう何気ない言葉が優しくて、私は鍛え上げた頬の筋肉で微笑んだ。
「ご馳走様でしたー!」
「いえいえ~、じゃぁ私はこっちだから」
「了解、駅まで送るよ。俺は徒歩」
「え、ありがとう。いいのに」
一応ね、と青年は笑った。押しつけがましくない様子は、私が警戒心を出したらすぐ引いてくれるだろうと解る。実のところこのまま酔わせてベッドインなんていう警戒もあったのだが、そんな様子はまったくない。流石にモテる男なのだろう、余裕のある態度に苦笑した。
お互いのんびりと横並びに歩く速度は一定で、酔いは赤ら顔ぐらいだ。呑み屋が並ぶ独特の喧噪を少し離れて駅が近くなってきたら、急に名残惜しくなってきた。
居酒屋に入店した時は最悪な気持ちのまま自棄になっていたので、そのままろくでもない男にひっかけられる可能性もあったはずだ。そう思えば青年に話を聞いてもらえて、すっきりした気持ちでいれる現在は幸運の極みだ。
ちらりと横顔をみれば、青年はこちらを見下ろして微笑んだ。綺麗な顔だ。私が見とれるようにぼんやりとしている間に、青年はじゃぁねと手を振って去っていった。
「名前も名乗ってないわ、お互い」
もったいないことしたなー、と私はぼやいた。恋愛はしばらく遠慮したい気持ちはまだ残っているが、それだけ青年と酒を飲むのは楽しくて良かったと思った。だが、これはこれで終わっておくのも一期一会で良いだろう。そう私は思い直して改札を通った。今は明日からの会社での身の振り方のほうが大事だ。
■
「吉岡~こっち」
給湯室の前で仲のいい同僚から手招きをされて、ついていけば難しい顔で睨まれた。彼女のこれは怒っているわけでない。なんといえばいいのか、という言葉を選ぶ様子で、私は仕方なくこちらから口火を切ってやった。
「別れたわよ」
「まじ?本気であの女に乗り換えたっての柳瀬坊ちゃん」
私の前では気を使って柳瀬マネージャーとか言ってたくせに、ぽろりと漏らされた坊ちゃん呼び、それが元婚約者への評価なのだろう。給湯室で何もせず突っ立っているのもなんだし、とコーヒーを入れた。同僚の宮は棚に凭れて腕を組み苛立っている様子だった。
「あの女馬鹿みたいに吹聴してるわよ」
「私が喋ってないのにこれだけ気ぃ遣われたら察するわ」
耳がはやいわぁ、とぼやく。宮が顔をひそめて舌打ちをする。その苛立ちの矛先は私でないことぐらいはわかる。既に同僚として長い付き合いだ。宮は実際どうなの、と詳しい説明を求めてきた。私は給湯室の入口をみて誰もいないことを確認してから小声で話をした。
「じゃぁ何、普通に寝取られたのアンタ」
「落ち込むこと言わないでくれる・・・。それでまんまと山本さんのことを守ってあげたくなっちゃったから別れてくれって言われたのよ」
「はぁ~、あのくそ強引な女に守る要素ある?見る目ねぇな坊ちゃん」
宮は渾身の変顔を披露してくれる。私はコーヒーを啜って黙り込んだ。端的に言えば私が隙だらけで寝取られたというのも間違いはない。デートに毎回割り込んでくるのを黙って許していたのも間違いだっただろう。そもそも元婚約者たる柳瀬は山本と二人で会っていたらしい傾向も、今思い出せば度々あった。それに気づかなかったのは鈍すぎる。
「どーりで、つまんない匂わせしてくるわけだわ」
「結局社内ではどんな噂になってるの」
「あの女がいろんな人間に〈奈緒ちゃんがもしかしたら落ち込んでミスしたりするかもしれないんですけど、それ私のせいなので責めないあげてください!〉ってしおらしい顔してわざとらしく広めてるわよ」
「・・・だからかよ、色んな人の視線感じるの」
げんなりとした顔で私は今日一日の好奇の視線を思い出す。大丈夫?とか要領を得ない声かけに首を傾げていたが、納得をする。宮がコーヒーをいれたカップで手を温めながら、皮肉気にあの女のお得意の手口よ、と言う。
「皆気になって話題を掘り下げるでしょ、そしたら恥ずかしそうに〈私、隆一さん・・・あ、柳瀬マネージャーとお付き合いを・・・〉っていうわけ。当然みんなあんたと坊ちゃんが付き合ってたことなんて公然の秘密だったじゃない」
「態々いったんだ、まぁあの子は派遣だし、結婚秒読みなら気にしないか」
ため息がでる。公然の秘密だったのは、あまり大っぴらにして人事で今の部署から飛ばされることを私が恐れたからだ。今の時代そこまで過敏にならなくても、と柳瀬は笑ったが、内心で私は舌打ちしながら罵ったものだ。同じ職場で恋愛となると公私混同を避けるために距離を離そうとするのも、女である私のほうが左遷させやすいのも、今の時代であろうと珍しくない話だ。
残り少ないコーヒーを飲み干したあたりで、ふと入口に影が見えた。立ち聞きするには少し遠いので大丈夫だと思うが、口を噤んで宮へ視線をやれば、彼女はそのネイル新しいやつ?とどうでもいい話に変えた。私もすぐに乗っかり紅葉デザイン、と言えば入口にあった気配が近づいてきた。
「あ、あの!奈緒ちゃん」
「山本さん、どうしたの?」
おどおど、と効果音を付けたような落ち着かない様子で件の山本が声をかけてきた。昨日柳瀬の隣にいたときは随分と堂々としていただろう、とどこか白々しい視線を送ってしまう。こちらは黙って彼女の反応を待っているというのにちらちらと宮へ視線を送って中々話をしない。分かっていながら宮はツンとコーヒーを口にしていて、動く気はない。
「奈緒ちゃん、二人で話せる?」
「悪いけど、このコーヒー飲んだらすぐ打ち合わせなの」
「ちょっとでいいの、昨日のこともう少し・・・」
「それなら柳瀬さんも必要じゃない?」
「怒ってるんだよね?だから私への仕事量増やしたりしてるんだよね?」
「はぁ?」
予想外のことを言われて思わず愛想笑いが崩れた。宮も顔を上げて凝視している。山本は肩を震わせて小動物のような仕草で、上目使いに言った。
「隆一さんを好きになっちゃったのはごめんね、でも奈緒ちゃんがあんまり自慢するから・・・、それに隆一さんとても優しかったからつい色々相談しちゃって!隆一さんも奈緒ちゃんがあんまり構ってくれなくて寂しかったみたいだったから励ましてたの私」
「・・・・・?」
困惑する私に気づかず彼女は話続けて、途中はもはやただの浮気の自白に等しい経緯がぐだぐだと話された。
「だからね、誰も悪くないと思うの私。だから仕事で嫌がらせみたいなことはやめてほしくて・・・親友にこんなこと言いたくないの、ごめんね」
涙目をうるうるとさせて彼女は勝手に自己完結させて給湯室から去っていった。わずかな沈黙のあと、私は振り返って宮へ怪訝な表情を向けた。
「・・・私、頭悪いのかも。何言ってるかわからんかった」
「私もわからん、被害者ムーブしながら当てこすりするプロじゃんアイツ」
また訳の分からない噂が飛び交うかもしれないと二人でため息が出た。面倒極まりない。しかし仕事もあるので今晩吞みに行こう、と約束だけをして仕事へそれぞれ戻った。とりあえず山本が言った仕事を増やす嫌がらせについて確認しておこうとタスク管理用スケジューラーを開いたり周囲に話を聞いたりすると、私が以前引き継いだレポート作成の仕事をミスしまくっているらしい。その修正対応でタスクがいっぱいになって通常の他の仕事が押しているとか、そんな話らしい。それでどうして私の嫌がらせになるのか?とさらに疑問だったのだが、それは別グループの社員との雑談で解消された。
「あの子修正箇所のこと、そんなの教えられてないとか言ってたわよ」
「引継ぎ直後にしか使えない言い訳じゃん」
「でも本気で言ってそうよ~、そもそも教えられてなくてもわかるでしょって所だったからなぁ・・・ちょっと問題よねぇ」
のんびりとした口調ではあるが、中々悩ましく思っているらしい。山本が作成したレポートを元に色々と報告をしなければならない立場の社員だ、頭が痛い問題だろう。私というとどうやら山本から嫌がらせでわざとちゃんと業務を教えなかった奴、というレッテルを貼られているらしい。ため息しかでないが、それを信じている人間はそういなさそうなのが救いだ。
(と、思っていたのだが・・・)
宮と飲みに行こう!と約束をしたが、宮が30分ほど残業をすることになったため、ビル一階のスタバで時間をつぶしていると、勝手に隣に座った男がいた。他にいくらでも空いているのに誰だ、と視線を向ければ眉間に皺をよせた元婚約者様が手ぶらで座っていた。
「千鶴にパワハラをしてるってのは本当かい」
千鶴って誰だっけ、と一瞬考えた間で、本当なんだねと勝手に決めつけてきた。なんだこいつ、と呆気にとられる。
「給湯室でこそこそと千鶴の悪口を言って盛り上がっていたとか、彼女傷ついていたよ」
ようやく千鶴とは山本のことだな、と思い当たる。苦々しくこちらを見て、僕は悲しいとわざわざ宣言する顔は見慣れたイケメンだったが、ふと昨日会った青年のほうが好みだな、と思った。そうして、たった一日で目の前の元婚約者への執着のようなものが消えているのを自覚する。
「千鶴はお母様がご病気だというし、下の兄弟がまだ小さくて面倒をみなければいけなくて、苦労をしているんだ。それは君だって知っているだろう?なのに仕事で足を引っ張るような真似、やめてあげてくれ」
「いや、初耳だし。というか仕事で足引っ張ってるのは彼女よね」
「君は親友なんだろう?慮ろうという気持ちはないのか。彼女に惹かれてしまったのは僕だ、恨むなら僕を恨めばいい」
「話聞いてる?彼女の仕事は毎日のルーティン作業だから私が足を引っ張るとかないのよ」
あと彼女のタスク管理はどっちかというはお前の仕事だ、とまでは言わなかった。というか山本も言っていたけどいつの間に親友扱いになってるの?と気になる点が多すぎてツッコミが追い付かない。自分の設定が自分じゃないところで色々ついている気がする。気味の悪さに表情がゆがむ。せっかくのフラペチーノがまずくなる。
「柳瀬さん、私が公私混同しないことくらいわかってるでしょう」
「そうやって一方的に距離をとられて、僕が傷つかないと思っているのかい」
「いや、別れたのになれなれしいほうが最悪でしょ」
こんなに話の通じない男だったか?とため息が出そうだったが流石に堪えた。話は以上か?と思い、さっさとここから離れたくてフラペチーノを飲み切ることに必死になる。だが未だに動く気がない男に、居座るなら商品の一つでも買えや、と言いたい。
「君は、やっぱり強いな・・・」
憂い顔で呟かれた言葉に、まだ喋るのかよ、と思ったが黙った。宮は早急に残業を終わらせてスタバに来るべきだ。スマホを取り出して進捗を尋ねるメッセージを送る。無情にもごめんのスタンプだけがきた。
「僕のことを諦められなくても気丈に振る舞ってくれてる・・・わかるよ、僕はもうそんな君を慰めることはできないんだね」
ポエムか?私はなにを言えばいいんだ?それなりのアホ面を下げてしまっている自信がある。黙っていると彼はまるで自分が傷ついたといわんばかりの顔をして僕はもう千鶴を選んでしまった・・・とかすまない、とか勝手な謝罪をこぼして去っていった。
去ってくれたのは構わないが、奴の頭で私がどんな滑稽なヒロインを演じていたのかわからない。私も悪いところもあったのかも、とか昨日ちょっと自分の落ち度を考えた私を返して欲しい。無駄な時間すぎた。
(会社辞めてぇ~)
浮気した元婚約者が上司で浮気相手の女が同僚にいるって控えめにいって地獄。
私は宮がくるまで転職サイトを眺めて時間を潰した。
「あんた二日連続飲んでんの?今日は控えめにしときな」
「飲まないとやってられん、あの二人日本語通じなさすぎる」
「でも山本と高校一緒だったんでしょ?」
宮は一杯目でさっそく頬を赤くして、首を傾げた。山本と同じ高校だったことがそんなに広まっているのか、と私は口をへの字にして軟骨の唐揚げを噛み砕いた。今なら普通の骨も噛み砕ける。
「高校一緒っても別のグループだったし、クラス同じだったのも三年の時だけよ」
「でも来たときから親友だって言いふらしてたじゃんアイツ」
「あれが派遣でうちのグループに来たとき私気づかなかったレベルよ」
来た当初、顔はなんとなく見覚えはあったので山本がパッと顔を明るくして同じ高校だったよね?!と笑顔でなついてきたとき、曖昧に頷いた。周囲の人たちも偶然だね、と笑って受け入れてくれ、いい話題になったようだった。誰かと会話をするときに私の名前を出す度に同じ高校だった、から友人になり、いつの間にか親友という呼称へとエスカレートしていったようだ。それを私は周囲との嚙み合わない会話で気づき、結局訂正もできなかった。山本という子はなんでもオーバーに話をしてしまう子なのだと知った。
「あ~、じゃぁ教育係とか見当はずれだったじゃん」
「あれは実質後始末係」
罰ゲームと言える。顔見知りのほうがいいでしょ、と押し付けられた教育係、最初の三か月はほぼつきっきりであったし、仕事も私の受け持っている事務仕事を引き継いだ。それがまぁ大変だったわけだが、柳瀬は何故か健気に頑張っている、という評価だった。仕事を教えている間の雑談にやたら柳瀬について聞かれたことから考えても、最初から狙っていたと考えるべきだろう。そうぼやく私に宮は何を今更、と呆れた顔をした。
「あの子が柳瀬マネージャーを狙ってたのなんて皆知ってたわよ。あからさま過ぎて岩城チーフがアンタのこと漏らしたんだから」
「そこからかぁ~!なんで知ってんだコイツって思ったのよ」
ある日突然柳瀬さんとお付き合いしてるって本当?と突撃された時は驚いて肯定してしまった。岩城チーフは人がいいので釘を刺すつもりで言ってくれたのだろうが、逆効果になったのだろう、その日以来熱心におススメデートスポットを教えてくれたりデート日を探られたりとした。
「・・・こいつからなら奪えるって判断されたと思うとすごく腹立つ」
握りしめた箸がみしっと音を立てた。割りばしでよかった。深呼吸をしてビールを飲み切り、タブレットで追加を注文する。宮に控えめにしろと言われたので今日はこれで最後だ。狭い机いっぱいに皿は広がっているがどれも小さくて、物足りないなと思った。おつまみの容量であるし二人で分けるとさらに少ない。だが宮は小食であるのでこれで満足なのだろう。
(解散後にラーメンいくか・・・)
「そういやアンタの愚痴に付き合ってくれた好青年くん、まじで誰かわかんないの」
「相手ジャージだよ、特定とか無理だって」
婚約破棄というイベントがあったもののあまり荒れていない私を不審に思った宮により、昨日居酒屋でたまたま出会った青年については全て吐かされた。大変好青年だったが、連絡先は交換し忘れたと言えば勿体ないとのお言葉をいただいた。
「ていうか暫くイケメンに夢はみれんわ」
大きなため息とともにそう宣言すれば、それもそうかと宮は頷いた。ここでしつこくしないのがこの友人の良いところだ。宮はすぐに最近の上司の面白エピソードを披露してくれた。
ほどほどの時間で店を出るが、周囲の酔っ払いたちは金曜日だからか、二軒目!と騒いでいる。私はその空気に乗りたいところだが、予定調和を愛する宮は当初の予定通りにこのまま解散。どうせ月曜日にまた会うのだから、と名残惜しむような仕草も見せずにサクッと駅へ向かった。
私は駅へは向かわず、物足りない胃袋を抱えて近くのラーメン屋へ入った。なんでもよかったので有名店でもなんでもない、普通のチェーン店だ。最近は不味いラーメンというものが本当にない。大体どこでもある程度美味しいので、ありがたいものだ。
「あら」
「お?」
券売機の前で並んでいる青年が一人、思わず声を出してしまった。それに反応して振り返った青年は、ちょうど昨日みた顔だった。
■
「じゃぁ自称親友は狙った男をきっちり落としてるんすね、そんないい女なんですか?」
「男の好みには合ってるんじゃないの?守りたくなる系とか」
お互い一人だったため、敢えて離れる理由もなく青年と並んでラーメンを注文した。悩んだ末にビールを頼まずにいれば、今日は飲みじゃないんだ?と聞かれて先ほどまで飲んでいたことを話し、そこからは昨日の愚痴の経過報告のようになった。青年は相槌を打ちつつも、頼んだとんこつラーメンを啜る。
「でもそういう子は落としたらすぐ次の獲物探しそうだよな」
「確かに。考えると凄腕の狩人よね」
狙ったハイスぺ男を確実にゲットしているんだから、私には理解できない高等技術が山本にはあるのかも、と少し感心した。全然羨ましくないけど、と言えば青年は俺もちょっとなぁ~と笑った。レンゲでスープを啜っては美味い美味いと呟き、本当に美味しそうに食べる姿だ。共鳴するように私もいつもよりラーメンが美味しく感じた。といっても私は醤油ラーメンなのだけど。
「・・・あいつも適当に捨てられるんじゃないかと考えると楽しくなってきたわ」
「悪い顔してる~」
青年にそう笑われて、私もノリよく悪役のような笑いが止まらなくなる。
ご馳走様でした、と丁寧に手を合わせた青年に、私は喋ってばっかだったと急いで残った麺を啜った。だが青年はのんびりと水を飲んで一息ついている。
「美味しかった、俺ラーメンはじめて食べた」
驚いて青年の横顔を凝視してしまう。まじで?と言う私に不快感はなかったようで、驚かれるのには慣れているのかもしれない。
「貴方くらいの男って友達とラーメンかハンバーガーみたいにならないの?」
「ハンバーガー!あれも食べてみたい」
「どのレベル?アメリカンな本格派?マックでモスな感じ?」
「どっちも!」
「マックでモスなほうは駅にいっぱいあるじゃん」
思っていた以上に世間知らずの坊ちゃんの可能性が出てきたな、と素直な青年になんだか心配になってきた。そもそもこのラーメン屋でも券売機で戸惑っていた様子だった。駅のマックでモスな店に関しても、人が多いからなぁと苦笑いしているので、店のシステムに不安があるのだろう。
(気遣いとチャレンジ精神・・・!)
やっぱこの子いい子だわ、と私は感動に震えた。今から一緒に行こうか!と誘いたいところがラーメンに追加でハンバーガーは厳しい。それにそういう店は同年代の友人とかと行くのが一番楽しいだろう。初めてのマックを思い出しながら、一人で勝手に頷いた。
元婚約者たる柳瀬もまともにファストフードを食べたことない男だったが、あからさまな嫌悪は出さないものの極自然に低俗な食べ物として扱うタイプの人間であった。それは坊ちゃん仕草の一つだと思っていたが、この青年を見ていると偏見だったなと反省する。
「よし、ごちそうさまでした!」
ぱんっと手を合わせて、わざわざ待っていてくれた青年へ礼を言う。青年は緩くいいよ~と笑った。外へ出ればもうずいぶん人が掃けていて、遅くなってしまった、と終電の時間を確認する。
「二日連続で愚痴聞かせて悪いわね」
「なんで?楽しかったぜ」
じゃーねー、とひらひら手を振って去っていく青年はよく見れば高そうなスニーカーでジャージもブランドものだ。やはり誰かに騙されたりカツアゲされたりするのではないかと勝手に心配になるが、余計なお世話だろう。
彼は来た道を戻った。黙って私を駅まで送ってくれたのだと気づいて、面映ゆくなった。
「あっ・・・まーた連絡先忘れた!」
■
また憂鬱な朝がやってきた。いつもは単純に仕事だるいという感想程度だが、今は違う。山本や柳瀬という面倒な二人と顔を合わせたくないという気持ちである。これは本当に如何ともしがたい。人事異動が期待できる時期でもないし、どうしても業務内容的に関わらざるをえない。私は私の仕事をするだけだ、と完結できればいいのだが、柳瀬など上司である。
今週いっぱいスマホで常に転職サイトが開きっぱなしだったのもさもありなん。だが何故私が辞めてやらねばならん?という意地のようなものもある。
「結局再会した好青年くんは名前すらゲットならずかぁ」
「聞き上手なのよ、つい話すぎちゃう」
「恋愛はしばらく遠慮したいとかいって連絡先はほしいのね」
「普通に飲み友達になりたいの~」
昼休憩にて小さなお弁当をつつきながら話す最近の話題はラーメン屋で再会した好青年くんのことが多い。宮があえてその話題をだしがちなのは、少しでも楽しい話題が欲しいのだと思う。
職場の空気がどことなく悪い。原因ははっきりしている。私、とはいいたくない。だが山本と私がギクシャクしているのはもちろん、柳瀬が妙に山本を優遇するものだから周囲が山本を煙たがる傾向になってきている。そして周囲が山本を煙たがればさらに柳瀬が庇い、という悪循環。
「さっきも柳瀬の坊ちゃんがあんたを見てたかんね」
「はぁ~絶対また意味わかんないこと言われる」
「でしょうね、今週ずっと焦れてたもの」
柳瀬から伺うような視線がついて回り、声をかけられそうになるのを避けに避け、一人になる隙を殺して頑張っていたが本日金曜日、流石に厳しい。宮は会議で本社へ行きそのまま直帰予定なので少なくとも帰り際は一人になってしまう。
ちらちらと時間を気にしながら、大きく深呼吸をして私は腹をくくった。今日は絶対飲みに行こう、と決めた。
「奈緒、少し時間いいかい」
「吉岡です、柳瀬マネージャー」
間髪入れずに言えば、柳瀬は沈黙した。いつもの爽やかな笑顔はない。ついてこい、と無言で指示をしてこちらに合わせることもなくさっさと先を言ってしまう。上司だ、仕方がない、と渋々ついていき、小さなミーティングルームへ入る。
「千鶴のことだ」
「はぁ」
間抜けな返事になる。いきなり業務に関係ないところからきたな、と鼻白む。
「君が何かいったのか?皆何か誤解している」
「私との婚約破棄を誤解というんですか」
「その、浮気だとかそういうことじゃ」
「“あれ”は浮気現場ではなかったと?」
柳瀬は何か言いたげながら黙り込んだ。私が突き付けられた婚約破棄は、きっと彼にとっても予想外のタイミングだった。おそらく彼はただの浮気で、婚約自体はなぁなぁで済ますつもりだったのではないだろうか。もしくは、もっと山本との関係がまとまってからか。
私がそう思う原因は、どうにも山本に誘導されて柳瀬と山本の逢瀬を見せつけられたと感じているからだ。会議時間が過ぎても戻ってこない二人を探して、うっかり見た二人のキスシーン。問い詰めても柳瀬は浮気じゃないとかキスも初めてだったとか、だが山本へ気持ちが傾いてしまっているのは申し訳ない、そんな言い訳をたくさんして別れを突き付けられた。今思うとこっちの台詞だぶん殴るぞという気持ちだ。
「とにかく、周囲のアタりがきつい。君からフォローしてやってくれ」
「は?何故私が、貴方の仕事でしょう」
「僕が千鶴を贔屓するわけにはいかないだろう」
「贔屓じゃなくて周囲との調整は必要でしょう」
どの口がいうのだか、そもそも山本が積極的に婚約の話を吹聴しているのだからそちらを注意すべきだろう、とイラッとしたままに言えば、いつか正式に社長夫人になるのだから隠しておけない、などという。一企業の社長夫人などほとんどの社員が知らないはずだ、そんなどうでもいいことを隠しておけないと。
「すぐにお披露目はする、そこで皆認めてくれるはずだ」
「・・・はぁ」
私の存在はなかったことにするってことですね、と嫌味が口から出そうだったが、適当な相槌を返す。柳瀬への未練だと思われるのは癪だった。
「後か先かだ、君も耐えてくれ」
「・・・」
「とにかく周囲の誤解をといて彼女を守ってくれればいい。・・・親友だろ」
その時に沸いた感情は、憎悪といっていい。頭が真っ白になったと表現すべきか、沸騰するようなと言えばいいのかわからない。ただその後どんな返事をしたのか覚えていない。まるで待っていたかのような山本の挨拶を無視して打刻をした記憶はある。大人気なかっただろうかというチンケな後悔が自分は小心者だと思った。
(あいつ、あんな男だったのか・・・)
顔だろうか金持ちだろうが、余裕のある人間は付き合いやすいと思っていたし、好きだった気持ちは本物だったはずなのにな、とぐるぐると思考しながらがむしゃらに動かしていた足を止める。
「・・・どこだここ」
よく行く居酒屋へ足を動かしていたはずだが、通り過ぎたようだった。雑然とした立ち飲み屋などが並ぶ場所ではなく、一本奥の筋に来てしまったらしい。Uターンするのもなんだか間抜けで、気分転換に新規開拓をするか、と気持ちを切り替えた。
ネオンの看板が小奇麗で目に留まった。たまにはバーもいいだろう。賑やかな居酒屋にいっては悪酔いするぐらい飲んでしまう自信がある。自制心を保つためにも慣れないお洒落バーで緊張しているほうがいい。
地下への階段を下りて、重たいドアを押し開ければ、柔らかなダウンライトと心地よい音量でジャズが流れている。店員を呼ぶ大声もなければ厨房の音もしない。ここでうるさく愚痴を垂れ流すなんて行為は無粋に思えた。バー初心者の意見だが。
店員が来るのを待つ間、店内をぐるっと見回せばカウンター席に三人ほど固まっているのが見えた。座っているのと立っているのとで、なんだか立ち話をしている、と思わず視線がいったが、座っている方が見覚えのある後ろ姿で瞠目する。そんな偶然ある?という気持ちだ。視線に気づいたのか振り向いた青年は、目が合い私と同様に驚いた様子を見せた。だがすぐに笑顔になり、手を振られる。
「お姉さんやっときたー!」
その台詞と、彼を取り囲む女性二人の怪訝そうな視線に察しがついて、私は彼らに近づいた。女性二人は怖気づくように肩を寄せ合い、ぎこちない愛想笑いで私を警戒する。そんな二人を気にせず私は青年にお待たせ、と笑い、青年も安堵したように答えた。
「じゃ、悪いけど」
そういうだけで、女性二人はなんともいえない表情でお会計へ向かった。そんな二人を見送り、私は青年の隣へ座った。彼と顔を見合わせると、少しの沈黙のあと小さくお礼を言われた。
「ナンパ?」
「たぶん、ずっと話しかけられてて面倒だった」
解りやすく誘われる前だったようだ。ただ喋りたかったのか、誘うタイミングを探っていたのに私が来てしまったのか、どちらにしても彼は少し疲れたようにため息を吐いた。持っていたシャンパングラスを仰いで酒を飲み切った。トマトジュースではない透き通った赤色に、何かフルーツ系のカクテルかなと推測する。
「私は何にしよっかなぁ」
「お姉さんビールばっか飲んでる印象ある」
「こういうバーはあんま来ないからさぁ、あなたは・・・」
はた、と青年の顔を見つめてしまう。三回目だ。偶然が三回。夢見がちでなくても、縁があるなと思ってしまう。
「そろそろ名前ぐらい聞いていいかしら?好青年君」
「俺好青年くんって呼ばれてたのか・・・いいよお姉さん」
「私は吉岡奈緒、好きに呼んで」
「俺は常喜寿人」
つねき、ひさと・・・と口の中で繰り返す。珍しい苗字だ。青年は寿人でいいよ、と笑うので遠慮なくそう呼ぶことにした。ちょうどバーテンダーが注文を伺いに来たので、適当にビールベースのカクテルを頼んだ。
「奈緒ちゃんでいい?吉岡さんがいい?」
「歳の話してる?別に気にしないわよ」
「じゃ奈緒ちゃんで。はい、連絡先」
あっさりと出されたスマホに少し拍子抜けする。私から切り出すとして、どう説得しようかと思っていたところだ。過去二回スルーされたので嫌がられる可能性はあった。私は寿人くんも二人で飲むのを楽しんでくれていたのかな、と嬉しくなった。
「え、大学生?!年下だとは思ってたけど・・・」
「単位はあと必修だけだから、今暇なんだよな」
金曜日だというのに控えめな客入りで落ち着いた空間が保たれたバー。この空間で以前と同じような愚痴を垂れ流すのはあんまりだな、とそちらへ話題を流さずせっかくなので寿人くんのことを聞いた。
「そういえば奈緒ちゃんって柳瀬屋第一に勤めてる?」
「え」
名刺も渡してないのに唐突に務めている社名を上げられ、何故身バレした、と背中がひゅっと寒くなった。だが驚愕の顔に寿人くんはごめんごめんと軽く謝り、ストーカーとかじゃないから!と手をひらひらと振った。その困り顔は大体なんでも許してしまいそうになる愛嬌があって、ずるい顔だなと頭の端のほうで思った。
「変な意味じゃなくてさ、俺奈緒ちゃんのこと実は知ってた」
「会ったことあった?」
「ないない、一方的。俺の親父の会社に来てたのみた」
「常喜・・・常喜ホールディングス?!」
私の声は店内に響いたと思う。すぐに口を覆ったが、一瞬シンと静まり返った。申し訳なくて肩身が狭くなる。気恥ずかしさをごまかすためにグラスを空にして、改めて寿人くんの顔を見れば、笑いをこらえて震えていた。そんなに笑うか?と軽く肩を小突くと、話を続けてくれる。
「俺、親父のコネでバイトやっててさ、たまたまロビーにいたときに菓子折りもって頭下げに来てる人がいてさ、それが奈緒ちゃんだった記憶ある」
私は、常喜ホールディングスに頭下げに行く、のワードだけで頭を抱えた。ただの中堅である私が謝罪に赴かなくてはいけない事態なんてそうそうない。身に覚えはしっかりとある。新人のミスではあるものの私のチェックも甘かったという経緯だ。幸いリカバリー可能で大きな損失はなかったものの取引先を大いに巻き込んでしまった、そういう謝罪の場だった。
「真っ青な顔した新人と、真面目な顔してる奈緒ちゃん、格好いいなって思ったんだよな」
「ミスして謝罪してる姿よ?」
「そう、新人くんをきっちり庇ってる姿。ちょっと羨ましかった」
私は首を傾げたが、バカにされているわけでもないので変に否定はしなかった。だがどことなく居たたまれなくて、手慰みにピスタチオの殻を割ることに集中した。塩気が効いていて美味しい。
「ね、今の会社居心地悪いんだったよね」
「・・・えぇ、まぁそうね」
今日なぜ飲みに来たかを思い出して眉間に皺がよる。舌打ちをしたい気分だったが、またなんかあったんだ、と寿人くんが笑ったのに釣られて笑い返した。最悪よ、聞いてくれる?と言えば彼はバーテンダーに追加注文をしながら、気になってた、と耳を傾けてくれた。その軽い調子のおかげで私もあまりヒートアップせず笑い話にして今日の出来事を話せた。
「へぇ、その元婚約者公私混同しまくってんなぁ」
「やっぱそう思う?大体別に無視してるとかじゃないのよ。仕事の話は皆ちゃんとしてるのに、冷たくされてるとかって全部彼女の主観でしかないし」
私にはどうしようもない。頬杖をついて溜息を吐く。寿人くんは同情したような表情になっていたが、言葉を選ぶように視線をうろつかせた。しかし結局特に言えることがなかったのだろう、頼んだサラミ盛り合わせの皿を美味しいよ、と寄こしてきた。それが面白くて私は殊更にサラミを褒めた。実際とても美味しかった。
「あ、親父の会社採用枠あるよ、傘下の会社もいっぱいあるし。受けたら?」
「そうしよっかな」
ただ闇雲に転職サイトを見ているよりも、そちらの方がいいかもしれない。寿人くんはそんな会社辞めれば、という軽い提案だったろうが、あいにく私は真剣だ。突っ込んでどんな採用情報があるか聞いてくる私に、寿人くんは少々悪い顔をして、口きいたげようか?と言ってきたが、私はなけなしのプライドで断った。
「年下に世話されるつもりはないわ」
軽いデコピンを一つ食らわせれば、寿人くんは子供のように目を丸くして、面映ゆそうにした。こんなお洒落なバーで慣れたようにグラスを傾けている癖に、なんだかギャップが大きい。その日もたわいない話をして、今度マックでモスなハンバーガーを食べに行くという色気もなにもない約束をして解散をした。帰路の電車で通知が鳴り、スマホをみれば交換したメッセージアプリへ気を付けてね!という謎のゆるキャラスタンプが届いていた。寿人くんの好みなんだろうか、と口元が緩むのがわかる。
とりあえず、有難うとまたねの二つのスタンプを送った。
■
朗報・採用決定
嬉しくて真っ先に寿人くんへ簡潔にメッセージを送信。有給を使用した本日、現在午後三時。返信はまだこないだろう、と母親にも連絡をした。転職をしたら引っ越す可能性があったので一応の報告だ。そして宮にも報告する。宮も転職を迷っていたので、後押しになるかもしれない。
職場は相変わらずの苦行ではあるが、業務に影響が出ない程度に山本も柳瀬も無視をして可能な限り定時退社をしている。仕事内容は嫌いではなかったが、ここ最近の肩がこる状況には辟易としていたので、今はこれで解放されるという清々しさでいっぱいだ。ぐっと伸びをして肩をまわす。
実は別の会社の面接後だったため、現在の恰好はスーツだ。いつもはオフィスカジュアルのため、面接用にと久しぶりに引っ張り出したのは新社会人の時のリクルートスーツで、まったくもって着なれないし、肩がこる。正直このスーツも着ていた期間は短く、着こなせている自信はない。自覚はないが、かなり不格好なのではないかと疑っている。そんな恰好でよく大手企業への面接に行ったものだ。まぁ採用だったので無問題。
ぽん、と通知が鳴る。
おめでとう!のスタンプと、先輩だな、というメッセージ。
既にバイトをしている寿人くんが先輩なのか、将来的に親の会社へ就職するだろうから私が先輩という意味だろうか?尋ねてみたら後者の意味のようだった。
本社でバイトっていっても俺はロビーのカフェ店員だから!と返ってきて、そういえば一階ロビーに二店舗ほどカフェが入っていた。どちらかにいたのだろう。どちらもお洒落で容姿端麗な店員しかいない印象だった。似合うだろうなエプロン、とあの犬のような笑顔と差し出されるコーヒーを脳裏に描いた。
(寿人くん狙いの女性客とか多そう・・・)
このあとの自由時間をどうするかな、と考えながらウィンドウショッピングをしていると、再び通知。彼もこの後時間が空いているとのこと落ち合うこととなった。どこへ行きたいか彼のリクエストがあるならそこにしようと思ったが、今は思いつかないようだった。
(だいぶ行ったしな、牛丼チェーンやら回転ずしやら)
好奇心いっぱいに楽しんでくれるせいで、ついついこちらから色々お店を教えたくなってしまうし、面白がってこれは知っているか?と聞いてしまう。教えたがりな面倒な人だと思われたくなくて何度か私が勝手に連れまわしてないか?と確認したりするも、そんな気遣いを吹き飛ばす無邪気な様子につい絆されてしまう。
「燻製ビール!燻製のチーズ!全部燻製だ」
「どれでも美味しいわよ」
おススメの燻製料理専門の居酒屋へ連れてきて、予想通りに楽しそうにメニューを見る寿人くんに私は満足気に頷く。届いた料理にカメラを向ける姿に、私もたまには撮っとくか?とおざなりに写真を撮ってみる。その流れで彼にもカメラを向ければ慣れたようにポーズを取ってくれる。料理の写真は随時ポコポコ送信されてきて、その見栄えのする写真には感心する。
「写真撮るの上手ねぇ」
「感想がおばあちゃんみたいになってるじゃん」
そう笑われて、おススメのカメラアプリを教えてもらい、しばし盛り上がる。なんとも若いやり取りだと思った。年齢差だけならせいぜい三歳ぐらいだと思うが、現役の大学生とはやはり空気感も生活文化が違うなと感じてしまう。
「そういえば、いつから?」
「実はまだ退職のこと言ってないから再来月にしてもらった」
「それいうのって元婚約者?」
「そう、引き止められないとは思うけど・・・ま、次が決まってるから問答無用でやめるわ」
一頻りはしゃいだタイミングで切り出された転職について。良い報告ができることが嬉しくて背筋をぐっと伸ばして胸を張る。寿人くんも笑って祝いの言葉とともにうやうやしくビールグラスを掲げてきたので、私も真似をする。
「祝杯ですな」
「かんぱーい!最高の気分よ!」
かつん、とグラスを軽くぶつけて、実は二杯目なのだが、まるで最初の一杯目のように飲んだ。冷たくて、少しだけ燻製の香ばしさが鼻に抜ける。このテンションのまま飲みすぎて醜態を晒さないようにしなければ、と思うも嬉しいのは誤魔化せない。
「そういえば寿人くんはもう内定だと思っていいの?」
先輩、と言っていたし、最近の就職活動は随分早い時期から行うとも聞いた。だが正直インターンシップなどあまり詳しくないので、首を傾げて尋ねる。それを聞いた寿人くんは、おつくりに舌鼓を打ちながら、あ~と気の抜けた声を出した。すぐに肯定が返って来るかと思ったが、微妙な返事だ。
「一応、なーんも言わなければ本社にそのまんま入れる」
「あら不満そう。コネなのが嫌ってこと?」
「いや、使えるものは使う派だけど」
「じゃぁ何かしら、他の仕事に就きたいとか」
打てば響く寿人くんにしては長考がある。あまり深掘りしないほうがいい話題だろうか?と誤魔化すように燻製クリームチーズを口へ放り込んだ。適当に私の地獄の就職活動戦記を話してやろうと思ったところで、寿人くんは子供が眠いのをぐずるように唸って机へ懐いた。
「どうしたの、酔った?」
「他の仕事に就きたいってのもないんだよなぁ~」
「お?」
「別に不満はないけど、このまま既定路線でいいのかなぁって」
悩んでいます、と拗ねたように口をとがらせて上目遣いに見てくる。いつも私が話すことを真摯に聞いてくれる彼の悩みだ、しっかりと応えたい。適切なアドバイスがしたくていくつか深掘りした質問をする。
「跡取り息子っていう立場に特に不満はないんだけどさ」
「その年齢で不満ないのは逆に凄いけどね」
「そうか?何か苦労したことないし有難いなぁって思ってる」
特に照れるとかの反応ではなく、自分が恵まれている立場だという自負がある言葉だった。いい子だ、と改めて思った。反抗期あったのかな、と見つめれば気まずそうに視線をそらされる。顔色は素面状態から変わりない。彼は何を飲んでも真っ赤になることはなかった。
「でも割と親の指示に従ってきたっていうか・・・このまま敷かれたレールのまま会社継いでいいのかなぁって、ずっと迷ってる」
「それは時期としても正しい悩みでは?」
「そうかな、そうかも」
彼は少し安堵するように頬を緩ませた。大学生で就職について強く意識する時期だ、今の内にしっかり悩んでおくべきだろう。その流れで何かしたいことがあるのかと聞いたら、ないという。ないから悩んでいる、という状態なのだろう。
「一人で飲み歩いていたのもそのせい?」
「そう、遅れてきた反抗期じゃないけど、見聞広めておこうかと」
私は色々と納得をした。何かアドバイスをしたいと思考を巡らせたものの、何を言えばいいんだ?と頭に浮かぶ無難でふわふわした言葉を伝えるかどうか迷って、却下した。
「寿人くん色々チャレンジしてるし真剣に考えてるし、私が何か言う必要なくない?」
「・・・俺、迷走してない?」
「いい悩み方してると思う。これでやりたいことが見つかれば万々歳だし、とりあえず跡継ぎルートでも悪くないでしょう」
周囲に流されていてはいけないと、自分で何かを判断しようと思い立つ時点でえらいと私は思う。そう伝えれば寿人くんは考えまとめるように少しだけ沈黙をして、どこか難しい顔に笑みを浮かべた。
「ありがとう、間違ってないよって言われるのって安心する」
有益なアドバイスができたわけではないが、わずかでも彼のためになったならば嬉しかった。本当ならば人生の先輩としてズバッと格好いい格言の一つでも彼の心に刺さるものがあればよかったのだが、あいにくそんな言葉は持ち合わせていない。私は私の範囲で物を言うしかない。
よかった、と私は楽しくなってビールのおかわりをした。
聞き役に回ってくれがちな寿人くんが悩みを打ち明けてくれたことは、距離が縮まった気がして嬉しい。転職先が決まったことも嬉しい。お酒も料理も美味しくて、何の不満もない。浮かれた私を現実に叩きつけたのは退職届を出す日だった。
「・・・は?嫌ですけど」
「君が来ないと彼女が気に病む、それぐらいわかるだろう」
「だから私にそれ関係あるんですか?」
顔がチベットスナギツネになっているのがわかる。私は今不細工だ。柳瀬を呼び出す前に呼び出され、渡されたのは招待状。どうやら先日言っていたお披露目会のようだった。ドレスコードが必須らしいパーティに、結婚式じゃないんですよね、と確認する。結婚式は来年の予定だと言われた。なんだそれ、前座か?私とはそんなことしなかったくせに、全然結婚式の予定もたてなかったくせに、と不満がつらつらと顔を出す。だが全部飲み込んで仕方なく招待状を受け取り、代わりのように退職届を出した。
「引継ぎ含めて来月いっぱいで退職いたします」
「な・・・そんな急に!どういうことだ!」
「次の会社もう決まってますのでよろしくお願いいたしますね」
そう言い放って席を立つ。柳瀬は大声で私を呼び止めたが会議があるので、と部屋を出た。追ってはこなかったがあとで声をかけられるかメールが届くだろう。どちらでもいい。辞めるのは決定事項だ。有給を全て消化はできないかもしれないが、構わない。
引継ぎ先は誰にお願いしようか、とか取引先への挨拶のタイミングだとかで頭をいっぱいにしながら、辞めると宣言した爽快感に浸った。だが山本と柳瀬が面倒を起こさないといいなという一抹の不安が拭えなかった。
「・・・え、そんなの私ら貰ってないけど」
「っていうかぁ、奈緒ちゃんを呼ぶとか空気読めてなさすぎ」
「それ上司は貰ってたっぽいなぁ」
退職の件はまだ黙っているように言われたが、そんなもの仲のいい女子メンバーには関係ない。当然私が転職活動をしていることも、浮気から婚約破棄のコンボを食らったことも知っているメンバーだ。宮以外は別の部署の人間で、ほとんどは同期という繋がり。そのメンバーに婚約者お披露目会とやらの招待状の話をすれば、以上の反応。嫌な予感がした。
「たぶん平社員には配ってないでしょ」
「ちょっと待って、百合先輩から返信きた!」
百合先輩というのは去年あたりにエリアマネージャーか何かに昇進した人で、元々私や宮の先輩だった。どうやら招待状について聞いてくれたらしい。スマホを私たちの真ん中へ持ってきて皆で百合先輩からのメッセージを読む。
「えーと・・・私には届いてないけど上司はパーティのスーツに悩んでたよ~、たぶん本社の上層部とかばっかが集まるパーティだから奈緒ちゃんが呼ばれたなら上司の同伴とかじゃないと目立つんじゃないかな、気を付けてって言っといてってさ」
「吉岡が浮くのを山本さん狙ってるじゃん~」
パスタをひたすらフォークで巻きつけながら私は無表情で沈黙した。今口を開けば罵倒しかでてこない気がする。一つのスマホを囲んでいる皆は口々に幸せなのを見せつけるのが目的かも、晒上げるつもりかも、とか推測をしている。下品なほど口いっぱいにパスタを頬張ればネギとオリーブオイルの美味しい香りと味で引き攣った心が少し緩む。無心で咀嚼をして美味しさだけに集中する。落ち着いた辺りでようやく口を開いた。
「アイツより目立つドレス着ていこうかしら」
「いいじゃん、それ!結婚式じゃないなら純白ドレスとかでもマナー違反じゃないよ!」
「あんたに似合うカクテルドレス探したげる~」
「ついでにパーソナルカラー診断行かない?」
皆は楽しそうに、とびきり綺麗になって出席してやろう作戦、などと言ってアドバイスをくれた。この際だから、と皆で気になっていたエステに行こう、ネイルに行こう、ドレスを着ようとここぞとばかりに私を着せ替え人形のように遊ぶ気らしい。それは私も望むところなので、絶対婚約破棄された惨めな女になんてなるもんかと気合をいれた。
「そういえばさ、このお披露目会他社もくんの?」
招待状を眺めていた宮が盛り上がる私たちに一つ疑問の声を上げた。それは気になる、と私も頷いた。皆も同意して、来週誰かに聞いてみよっか、なんて言っていたが、社交的な何人かがその場でメッセージを送っていた。
「百合先輩から他社も来るって」
「秋子ちゃん情報だけど取引先の社長クラス呼んでるみたい」
「まじ?ただの跡取り息子の彼女紹介するだけなのに」
宮が信じられん、と引き攣った顔をした。ドン引きといったところである。私も相当苦い顔をしている。本社のお偉いさんだけでなく他社のお偉いさんまで集まる盛大なパーティ、しかも会場は高級有名ホテル、そんな中に一人で出席するとなると流石に尻込みする。欠席してもいいがそれで逃げたと思われるのも悔しくて、縋るように皆をみる。先ほどまでの冗談のノリだった着せ替え人形扱いも、真剣に協力する姿勢になった。
「全面協力してあげる、とりあえず美容院行こう」
「磨き上げてやりましょ、行きつけのエステ予約してあげる」
「山本にドヤ顔させたくないから私も手伝う」
「でも会場誰も知り合いいないのは辛くない?」
それはそう、と頷く。ドラマなんかでよくあるパートナー付きというのも招待状を見る限りなさそうだ。会社繋がりの会であるし、そもそも日本である。この招待状一枚で何人は入れますって注意書きはない、と言えば遊園地のチケットじゃねぇよ、と笑われた。
女子会であったのであまりお酒を飲んで管を巻くようなことはなかったが、私を磨き上げる計画に盛り上がった。正直山本への不満や鬱憤が私にぶつかってきたような形だが、私に損はないのでいいだろう。しかし山本は何をやったらこんなに嫌われるのだろうと思った。
「ねぇ吉岡、彼は行かないの」
「え?」
「好青年くんよ、常喜ホールディングスの子だったんでしょ」
「彼自身に招待状はいかないと思うけど・・・聞いてみる!」
二人きりになった帰路で宮に尋ねられたことに、納得してすぐにメッセージを送った。すぐに既読がつき、よくわからないスタンプが一つついたがその後返信はない。宮と確認してくれているのかもね、なんて言って別れ、帰宅したタイミングでちょうど通知がなった。すぐに既読つけたらプレッシャーかな、と思いつつもやはり気になって確認する。
「父さん宛に来てる、面白そうな話なら明日ファミレスで聞こう!・・・ファミレス?」
なんでファミレス?と思って詳しく聞けば猫型配膳ロボットなるものの噂を聞きつけて気になっているらしい。あとファミレスは大学の友人と一回入ってみたことがあるだけで、別のファミレスも入ってみたいとのことだった。私はちょうどいいか、と思い明日ファミレスでご飯にしようと約束を取り付けた。
そして次の日、ファミレス前にいる寿人くんと落ち合った。
入店すぐに猫の配膳ロボを見つけて嬉しそうにしているのが五歳の子供のようだ。わざわざキッチンから遠くの席へ座った。カラフルなメニューを全部みて楽しそうに悩んでいたので、私は先に無難なミートパスタを頼む。最近のファミレスはレベルが高いので美味しいのだが、やっぱりチープさのある美味しさだ。逆にそれが記憶に残ってまた食べたくなる。
「招待状の件だけど、父さん行く気ないみたいだよ」
行かせたほうがいい?と言ってくれたが、そういうことではないのだ。私は簡単に事情を説明していく。婚約のお披露目っていうことは知っているらしい。寿人くんのお父様から聞いたそうで、もちろん忙しい社長がそんなくだらないパーティーに出席するつもりはないとのことで、それはそうだと私も納得した。ただ私はできれば代わりに寿人くん自身が出席してくれればちょっと心強いという意味を込めて話をした。
「それで、まぁ欠席してやるのも癪だからね、同僚の勧めでどうせ浮くならとびきり綺麗になって主役食ってやれって言われて・・・それは私が頑張るとこなんだけど。ちょっと強欲なこというと一緒にいてくれたら心強いなぁ~と・・・」
とっても綺麗になった(予定)私の隣にイケメンが!ってなれば柳瀬に未練があるわけでもないし惨めでもない、そんな目的で出来ればパーティーで一緒にいてほしいとは、まるっきりアクセサリー扱いだ。話しておいて流石に気分が悪いかもしれない、と私の言葉は尻すぼみになっていく。
「あ~やっぱなし!ごめん!」
「なんで?いいじゃん」
罪悪感に耐えきれずに取り消そうとバタバタ手も頭も振り乱したが顔をあげて寿人くんをみれば、わくわくと秘密基地を前にしたような顔をしていた。瞬きをして二度見するも変わらない。気分を害した様子はない。むしろ楽しそうだ。
「悪巧みって感じがする!ちょっと俺気合い入れて高級スーツ着ていくな!」
成金みたいな分かりやすい高級車用意する?送迎もするよ、運転手いるから!なんて庶民の発想では厳しい提案を次々としてくれる。勢いに押されて私は、おぉぅなんて意味をなさない合いの手をいれるばかりだ。
「・・・え、いいの?その、あんまり性格のいい目的ではないんだけど」
「何が悪いかわからん、だって奈緒ちゃんは自分磨きするだけで、暴力振るうわけじゃないだろ」
「まぁ、・・・それは、そう」
気持ち的には柳瀬も山本もひっぱたいてやりたいところだが、現実はそうもいかない。だからこそ、向こうがパーティーに呼んで機会をくれているのだからちょっと相手の思惑をはずしてやろうとするのは間違ってはいないだろう。山本は私に幸福を見せつけたくて、柳瀬は浮気ではなく円満な婚約だと周囲にアピールしたいのだと思われるが、そうはさせるものか。
「見返してやろうって前向きでいいと思うし、俺、奈緒ちゃんがコロコロ表情変えていろんな話するの結構好き」
怒って発散するのもすぐ切り替えられるのも凄いと言う。さらっと、色気を感じさせずに笑う寿人くんに、胸にたまったどす黒い靄のようなものが溶けていく。柳瀬や山本への理不尽さや不満が消えて、どうでもいいものとして消化されていくのがわかった。凄いのは寿人くんだ、と思ったが、私は素直にありがとう、とお礼が言えた。
「俺があんまりそういうの得意じゃないからさ」
「そんなことないよ、寿人くんには助けられてる」
いつも聞いてくれてありがとう、と言えば珍しい照れた顔をして、それをごまかすようにして、席に到着した猫型配膳ロボットにはしゃいだ。名札ついてる!喜ぶ寿人くんをよそにパスタのセットだった小さいサラダをつついた。寿人くんは男子の食欲を発揮して、追加注文のためにメニューを楽しそうに捲る。
「そういえば、せっかくだしドレスは俺に選ばせてよ」
「え、まぁいいけど。あんまり高いのはちょっと」
「そこは俺が出すし、レンタルならいいでしょ」
まぁ着る機会もない高いドレスなんて不要だしレンタルなら、と私は頷く。そもそもこの手のパーティーに相応しいドレスがどういったものがいいかもわからなかったのだ。ちなみに意固地にならずにうなずいていてよかったと思ったのは当日彼のスーツと私のドレスがさりげなくセットのコーディネートになっていることに気づいた時だった。
「ていうかその狩人みたいな女ってどこかのご令嬢とかじゃないんだろ?なんで婚約発表すんだろ・・・」
(狩人みたいな女・・・)
最初の愚痴で個人名をださなかったせいで寿人くんは今も柳瀬と山本の認識が曖昧だ。山本は浮気相手、イケメンハンター的な覚え方をしている。
「・・・え、もしかして山本ってすごいお嬢様だったり?」
「聞いたことないなぁ、山本千鶴とか」
う~んと唸りだした寿人くんに、柳瀬のやつは何も考えてないと思うよ、と注釈をいれる。お披露目を急いだのはおそらく社内で針のむしろ状態である山本を婚約者としてみんなに認めてもらうためであって、それ以上の意図はないと思う。それくらいあの男は単純である、と断言する。そしてなんとかしてほしいと甘えたのは山本だと思われる。
「元婚約者の奈緒ちゃんまで呼ぶんだろ?無神経なのもそうだけど、そもそもパーティーで自社の人間が多いなら他社にまで浮気とか元婚約者を捨てたとか不名誉な噂広まるじゃん」
「・・・え、もしかしてあいつら自分で首しめてる?」
「ように見える。上流階級のゴシップは広まるのはやいぞ~」
情報戦だからな、と寿人くんはなんてことない顔でジュースを飲んでいた。微妙な色のそれはドリンクバーで楽しく混ぜ合わせたものだ。それほど悪い味ではないそうだ。
「はぁ~上流階級ってやっぱり色々あるのねぇ」
「それなりにね、まぁその元婚約者がどんだけいい男か知らないけどさ、そいつより値打ちありそうな風に装うから期待してて!」
そんなことをファミレスで、猫型配膳ロボットに喜んでいる男が言うものだから、可笑しくなってしまう。
「すでにそのままで寿人くんのがいい男よ」
「そう?まぁ俺も奈緒ちゃんがいい女だってことは知ってるよ」
「あらどういうとこかしら」
特に期待せずにそう聞いた。寿人くんはいくつか数えるように指を折って、決まったのか人差し指をたてた。
「ビール飲んで美味しいおつまみ食べてる顔が一番かわいいとか!」
直射日光を浴びた気分だった。思わず目をすがめてしまう。変な顔をしてそうだ。
「・・・それは、アイツも知らない点ね。猫被ってたもの」
じゃぁ俺だけ特別、と笑う寿人くん、敵わないな、と私は天を仰いだ。
■
パーティ当日、寿人くんに指定された場所へ行けば、あれよあれよと髪の毛がセットされ化粧がされドレスを着用させられた。立っているだけで入れ替わり立ち替わり百貨店の化粧品コーナーにいそうなお姉さま方がお手伝いをしてくれる。私は子犬のように震えているだけでいつのまにかお姫様のような完璧なパーティドレス姿となっていた。
ぼんやり鏡をみていて、誰だこれ、と考えて頬に触れる。間抜けな顔、私だ。
ファンデーションが取れるので触らないでください。はい。なんてやり取りをして、靴はしんどくないか、サイズは大丈夫かなんて確認に赤べこのようになるだけで二時間は経った。
前日までエステや脱毛やダイエットなど色々頑張っていてよかった。色々微妙な状態でこの綺麗なお姉さんたちに世話を焼かれていたら憤死してしまうところだった。そんな風に今更戦々恐々としていれば、いつの間にか高そうなノンアルコールカクテルとともに一人待機状態となった。お姉さんたちはドレスに合うコンパクトポーチ一つを置いてどこかへ消えた。
ようやく落ち着いて部屋を見回し、撮影セットのようだなと思う。それは私の恰好を含めだ。私のパーティードレスの想像など、結婚式によく見る程度のものだった。スカート丈だってミディアムぐらいだと思っていたが、実際私が今着用しているのは超ロング。裾が気になって仕方がない状態だ。だが肩回りのレース以外シンプルなので、レッドカーペットの女優のような大げささはなく、着こなせれば目立つし美しいし、場違いではないだろう。先ほど鏡で全身を見たとき、とても脚が長く見えた。浮かれて写真を撮ってもらったぐらいだ。
「おお、やっぱり似合う」
寿人くんの声がして、ようやく来たかと振り返り驚いてしまった。私がこうしてドレスアップしているなら、当然寿人くんもドレスアップしているのは当然だった。
ジャージにTシャツ、大したお洒落はしていないのにシンプルで格好いいとわかるモデル体型も、好青年くんと称するぐらいに爽やかなイケメンも理解していたつもりだった。だがそういった人間がいざ着飾ると、すごい破壊力をもつものだ。
「わぁ」
「どう、格好いい?」
「年上に見える」
「えっ老けて見える?!失敗した?!」
わわわわ、と慌てる姿に、ようやく寿人くんだ!と思えた。いつもはふわふわとした髪の毛がきっちり纏められ後ろに流しているのも、かっちりとしたスーツで体格がよく見えるのも、どうにも外国人のモデルのようで一瞬気圧された。
「違う違う、貫禄があるっていうのかな、とにかく格好いいよ」
「え、よかったぁ~奈緒ちゃんも理想通り、綺麗だ」
「ありがとう、プロに化粧してもらうって最高ね」
「だよなぁ~俺もちょっと化粧されたけど凄い」
確かによく見れば、少しばかり眉毛や唇などに化粧が施されているようだ。肌がきれいなのは自前のようだから凄い。確認のために一歩近づいたが意外と身長差があることに気づいて、何か急にこそばゆい気持ちになった。
「芸能人みたい、隣にたつの私で大丈夫?」
「心配しないで、ばっちりお似合いになるようにコーディネートしたつもり」
「楽しそうで何より。結構こういうの好きなタイプ?」
「奈緒ちゃんの恋人役だろ?ここで決めないと」
はた、と瞠目して寿人くんをみた。恋人役をしてくれと頼んだだろうか、と思ったが、惨めにならぬよう隣にいて欲しいと言われれば、実質そうなるか、と思い直した。そう考えると中々ひどい頼み事をしてしまった気がする。だが、彼は楽しそうにスーツとドレスの色合いについて、そして今から乗り込む車について説明してくれる。ちなみに庶民にもわかりやすい長い車らしく、私は一生に一度の機会だなと唸った。
「・・・よろしく、ね」
「緊張してる?」
「招待状とか色々頭から飛んでいくぐらい」
「それってパーティだと逆にリラックスできるかも」
そう笑った寿人くんは、長い脚を組んでまさしくリラックスしている様子。黙ってしまうといつもと違う様相に、まとっているオーラさえ別人に見えた。正直言って柳瀬などより余程いい男に思えたが、それは贔屓目だろうか。
「寿人くんのやたら絵になる姿みてたら自信でてきた」
「わぁ、俺ってお得~」
山本が本気で柳瀬のことが好きだとしても、寿人くんをみればいい男っぷりに少しばかり私に嫉妬するのではないかという、そんなゲスな自信であることは黙っていよう。
■
白いテーブルの前で招待状を出して、受付を待っている間に扉の向こうをのぞき込む。開かれた扉を境にカーペットもシャンデリアの灯りも変わる。だが、高いホテルのバイキングに行ったときなんか、こんな感じだった気がするなぁと思うと、急に肩から力が抜けた。
おや、と気の抜けた私に気づいた寿人くんが小さく笑う。もしかして間抜けな顔になっていたのかもしれない。キリッと表情に力をいれた。《いい女》であることを見せつけるのだ。頑張ろう。しかし、並べられた料理の机が奥にあるのが気になって仕方なくなってきた。
寿人くんにエスコートされながら入場すると、暫くしてから波紋が広がるようにざわめきが広がる。澄ました顔をしているものの内心では何事かと焦って私は横目に寿人くんを窺うが、彼は平静なものだ。いつもが笑う柴犬なら今はドーベルマンのごとく、とくだらないことを考える。
(狙い通りあの人格好いい~とかのざわめきならいいんだけど)
なんだあの非常識な女というざわめきなら心が死んでしまうな、と手が震える。貰ったウェルカムドリンクが揺れていることに寿人くんが耐え切れず笑ったものだから、近づいてきた人に気づかなかった。
「なんかスケール違うやつらがきたなぁ~って思ったら奈緒ちゃんじゃん」
「百合先輩!」
やぁ、と軽い挨拶をしてきたのは人伝いながらこのパーティについて色々教えてくれていた百合先輩だった。招待状はもらってないという話だったが、何故いるのだろう。そしてタイトなドレスが彼女のスタイルの良さを引き立ててて、思わず見惚れてしまう。
「私の上司が一人だと不安だからついてきてっていうから同伴」
「それありだったんですか」
「言ってみたら案外行けた。なんかアンタ面白そうなことになってるって聞いたし」
「野次馬じゃん」
そういいつつも私が一人で浮いてしまっていたら一緒にいてくれるつもりだったのだろう。気にしてくれたことにお礼を言いたい気持ちだったが、それを素直に受け取る人ではない。
「それで?隣のいい男紹介してくんないの」
「常喜ホールディングス社長の代理で出席しました。常喜寿人、奈緒ちゃんの恋人です」
「お、まじかぁすごいじゃない」
驚いた顔をする百合先輩に慌ててレンタル彼氏みたいなもんです、と言いたかったが寿人くんに制止された。仕方なく話を合わせて談笑していたが、百合先輩が上司に呼ばれて別れる際に、こっそりと気をつけなよ~と耳打ちしてきた。何が?と首を傾げていると、寿人くんは訳知り顔だ。
「たぶん記者が潜り込んでるんじゃないか」
「記者・・・?なんで?」
「大企業のゴシップはそれなりにスクープになる」
私は思わず上流階級こわぁ、と小さく漏らした。渋い顔を晒さないように誤魔化すようにグラスを傾けた。だが、そういえば乾杯用のドリンクだとしたら口を付けたらまずいかもしれない。そもそもパーティって始まっているのかもよくわからない。
「別に飲んでもいいよ、必要だったらウェイターに頼んで注いでもらえばいいし」
「う、ごめんね。慣れない・・・」
「たぶん主催の挨拶だけで何かほかにイベントあるわけじゃなさそう」
寿人くんは軽く会場内の設備をみて、催しがあるとかそういうことではなさそうと言う。何をみているかわからないが、そうなんだ、と私は落ち着かない気持ちのまま主催の挨拶とやらをまった。
照明が暗くなり、壇上にスポットライトが当たる。社長の姿が出てきて挨拶をして、その息子として柳瀬隆一が紹介される。そして彼の隣に山本がドレス姿で立っていた。紹介されて綺麗なカーテシーを披露する。彼女のドレスは派手なカラードレスで、それ自体はかわいらしかったが、この場には大げさに見えて、これって本当に結婚式じゃないよね?と疑ってしまう。
思わず周囲をチラチラ見れば、何人かはなんだコレっていう顔をしてやる気のない拍手をしている。見上げれば寿人くんもどことなく拍子抜けのような顔をしていて、少し安心した。私がおかしいわけではないらしい。どことなくグダグダして見えるのも、おそらくは急にお披露目が決まったからだろう。きっとそうだ。
「ライブキッチンによるステーキなど各種料理もご用意しております、どうぞお楽しみください」
これが同窓会とかなら芸人とか呼んで余興をしたりするんじゃないだろうか。そういうものもないからか、挨拶は豪華な料理をおススメしていた。確かに美味しそうだし、あまり長居をする気もなかったし、思っていたより簡素なパーティでいいだろう。
「よかった~てっきりダンスでもさせられるかと思ってた」
「いや、俺もダンスとかできないけど?」
ここにいるおじさん社員たちも当然できないだろうから、杞憂もいいところであった。壇上の柳瀬と山本は招待客たちに並んで挨拶して回っているようだったが、割って入って喧嘩を売りに行くのもなんだ、と私はデザートのコーナーへ寿人くんを引っ張っていった。
「浮気なんだって」
人の波を縫って通りすぎる時に聞こえた会話に反応してしまう。聞き耳を立てると、わりとあちこちでそんな会話がされているのに気づく。寿人くんの懸念通り、社内の噂を他社に面白おかしく流している人が割といるのだろう。ちらちらと私にも視線が刺さる。
「大丈夫」
「え?」
「さっきの人、あんなに綺麗な子と婚約破棄するなんて信じられないって言ってたよ」
囁くような声で言われて、そこで自分が縋るように彼の手を握っていたことに気づく。ふっと息を吐いて力を抜く、どうやら緊張していたらしい。安心させるように小さく微笑んで、寿人くんは私への誉め言葉を拾って面白おかしく伝えてくれる。
「山本千鶴って子はどこかの企業のご令嬢だったか?」
「いや、知らんなぁ・・・社員としても会ったことないが」
「吉岡くんと付き合ってるんじゃなかったのか?彼女なら知ってるぞ」
「おお、彼女には仕事で世話になった」
美味しそうなケーキをいくつか載せた皿をもって移動すればそんな声も耳に入った。私が馬鹿にされている印象は今のところなく、安心する。
美味しい料理などを堪能できればよかったが常喜社長代理だと知れば寿人くんのもとにも挨拶をしに来る人が増えて、気が抜けなくなってきた。寿人くんはいちいち恋人です、と紹介するので、私は内心で大丈夫なのか冷や汗をかいていた。
「ちょっと、いいの?私のこと紹介しちゃって」
「いいの、いいの、そっちのが自然でしょ」
何回目かの挨拶で、これで今回限りの恋人役です、本物の彼女できました!ってまた紹介するようなことになれば、柳瀬や山本の二の舞にならないだろうか、と心配が擡げる。焦って尋ねるが、寿人くんはどこ吹く風で楽しそうにしている。
そんな時に声をかけてきたのは、言うなれば本命。
「えっと、奈緒ちゃん?」
「山本さん、招待ありがとう」
「え、びっくりしちゃった・・・、凄い気合入ってるね!いつもはお化粧も全然なのに」
「えぇ、こんな大きなパーティだから頑張っちゃった」
振り返ればそこには大きく膨らんだスカートのシルエット、頭にも花冠だか何かよくわからないものをつけた山本がいた。駆け寄ってきたのか、柳瀬はまだ後ろのほうで誰かに挨拶をしている。置いてくるなよ。
口を開けばイライラさせてくれる女だが、今日はそうは思わない。私のほうが勝っている、とどこかで優越感に浸れて精神的余裕がある。性格が悪いというなら言えばいい、殴ってないだけマシだろう。
「それより、そっちの人は?お友達ですか」
「あぁ、彼は・・・」
「柳瀬さんが来られてからでいい?一回で済ませたいし」
山本の興味は隣の寿人くんに移ったらしい。頬を上気させ上目遣いにチラチラ見ている。呼んでおいて私のことはどうでもいいらしい。それはそれで腹立たしい。
山本に呼ばれて足早にやってきた柳瀬はどこか疲労感がにじみ出ている。私をみて目を丸くさせている。まさか私が素直にくると思わなくて、という驚きならば面白い。招待状を渡したのお前だろ。
「奈緒・・・吉岡さん、よく来た」
「えぇ、せっかくのご招待ですから」
「隆一さん、こちら吉岡さんのお友達をご存じですか?」
「え?いや・・・失礼、君は」
周囲の視線が一斉にこちらに刺さるのがわかる。話題の中心がここに集まっているのだからさもありなん。
気まずそうな柳瀬をよぎるように彼へしなだれかかり山本は寿人の紹介を促した。彼の腕へ絡みながらも視線を寿人へ寄こしているのが、どうにも薄気味悪い。
「常喜ホールディングス社長の代理で出席しました。常喜寿人と申します」
「あの常喜ホールディングス?!いつもお世話になっております。すみません、私は・・・」
「えぇっすごぉい、私も常喜ホールディングスは名前聞いたことあります!」
柳瀬が名刺とともに挨拶をしようというタイミングで割り込むような山本の声に私はなんと言ったらいいかわからなかった。この空気の読めなさはひどい。会社でも天然扱いで通っていたが、もしかしてあれでも自重していたのだろうか。
寿人くんはいちいち返事もしていないのに、山本は次々きゃっきゃっと楽しそうに質問をした。その中には私との関係はなんなのか、という探りを入れるような聞き方が多い。
「お友達ではなく、恋人です」
寿人くんが笑顔で訂正する。その笑顔は隣でみていた私でもわかるぐらいには、威圧的で初めて見る笑顔だった。とても友好的とはいえない、それは流石にわかったのか山本もずっと喋っていた口を閉じた。それにホッとしたように見えたのは柳瀬のほうだった。気を取り直すように、では次の挨拶へ行くので、と山本の肩へ手をやり移動を促していた。
だが、山本は動こうとしない。むしろ肩を怒らせて私を睨んできた。
「・・・やっぱり隆一さんのこと全然愛してなかったのね、別れてすぐに別の男の人に乗り換えるなんて、見損なったわ」
「は?何言って・・・」
「寿人さんっていうんですか?気を付けたほうがいいですよ、奈緒ちゃんって昔から嘘つきなんです」
脳内でバールのようなものを振り上げている自分が一瞬浮かんだ。何か言わなくては、と思ったがこんな時に限って何も思い浮かばない。ただ、嘘つきなんて不名誉なレッテル貼らせてたまるか。
「俺に嘘ついたことないですよ、彼女」
私が抗議の声をあげるよりも前に、寿人くんが前に出てくれた。怒った様子はみせず、しかし真剣な表情ではっきりと否定した。その言葉に、山本は不満そうな表情をした。ぶすくれたような、子供みたいな顔だ。
「でも・・・!柳瀬さんと付き合ってたのにあなたと会ってたってことでしょう?」
「お言葉ですけど、彼と出会ったのはあなた方に婚約破棄された後よ」
「隆一さんから常喜の跡取り息子?そんな都合のいい話ある?!」
「化け猫剥がれてるわよ、婚約者様がドン引きだわ」
そういえば山本はハッと柳瀬へと振り返った。その柳瀬がどこか茫然としているのに気づいて、慌てて髪の毛を整えて言い訳をした。その言い訳は何故か寿人くんにまで向かう。何かその場を収める返事が欲しいのか、チラチラと私のことまで見てくるのが不快だった。
「あの、ごめんなさい。つい、これ以上誰も不幸になってほしくなくて。でもやっぱり駄目なことは駄目って言わないと奈緒ちゃんのためにもならないし、えっと寿人さん?どんな出会い方だったかわからないけど奈緒ちゃんお金持ちなのを知って・・・」
「まさか。俺が傷ついてる彼女につけいったんですよ」
「え?」
その驚いた声は私か山本か、どちらが漏らしたのか。ぐだぐだと要領の得ない山本の言葉を断ち切るように言った。
「婚約者に浮気されて別れたって泣いてる彼女を俺が慰めました」
その言葉は私の身に覚えのない内容だが、山本の話を全て否定するものだ。私も当然という態度でいなければ、と背筋をのばした。
「お二人とも、婚約おめでとう。そして奈緒ちゃんを自由にしてくれてありがとう」
笑っている声なのに、寿人くんの隣にいるのは圧倒されるようで、なんだか怖くなった。そして、おそらく正面に立っている二人もそうだ。二人とも額に汗が浮いて、血の気の引いた顔をしている。周囲は気づけばざわめきもなく、異様に静かだった。
「今日はそれだけ言いに来たんだ」
じゃぁ、行こう。そう言って寿人くんは私の背中を押した。目的は済んだ。長居は無用だろう。並んだ美味しそうな料理はほとんど食べられなかったが、まぁいいか。二人で居酒屋の焼き鳥でも食べたほうが余程美味しいはずだ。
そうそう、と私は振り返っていまだに突っ立ったままの二人へ微笑んだ。私もこれだけは言おうと思って来たのだった。
「悪いけど、私いまとっても幸せなの」
じゃぁね、と背を向けた。もうこれでなんの未練もない。
その後、奈緒と寿人が去った会場では残された二人がぎくしゃくとした様子で茫然としており、暫くして口喧嘩をし始めたものだから、柳瀬の社長が慌てて終息させた。結構な醜聞となり、ゴシップ記者が喜んで記事を書いたらしい。
■
「最高の気分~!かんぱーい!」
「乾杯~どうする?着替えのためにホテル取ってるけどこのままバーでも行く?」
「バーにする?!着替えて居酒屋行く?!」
「テンション高い、もう酔ってる?」
リムジン内には冷蔵庫がついており、グラスとシャンパンがあるとなれば飲むしかあるまい。祝杯としてグラスを掲げた。テンションが高いのは自覚していた。柳瀬と山本のあの唖然とした顔を思い出すとおつまみがなくてもいくらでもお酒が美味しい。
「・・・ありがとね、嬉しかった」
「こちらこそ、面白い経験した」
「その、全部だけど。特に山本の言うこと信じないでくれて、本当に」
「あれは、言ってること意味不明だったのもある・・・ていうかさ、弱みにつけこんだりとかは違うけどさ、本心だよ。あの日出会えたのはあの男と別れたからじゃん」
それもそうか、と私はシャンパンを飲む。とても美味しい。高いんだろうな、と値段を予想してしまうが、それよりも寿人くんの立場が気になった。社長代理として来ていたのに取引先である柳瀬たちに喧嘩を売るような真似をさせてしまった。
「・・・でも、あんな言い方して大丈夫?恋人って紹介してた私が噂の元婚約者とか・・・上流階級はゴシップ記事がって言ってたじゃん」
「じゃぁさ、恋人役継続でいい?」
いつの間にか詰められた距離に驚いた。グラスを持つ反対の手が優しく握られて、のぞき込むようにこちらの反応を伺う。流石にここまでされて、何もわからないフリはできない。
「恋人役でいいの?」
そういえば、愛くるしい子犬のような瞳をそらして、渋い顔をした。スーツを決めた格好いい寿人くんもいいけれど、気まずそうにしている年相応の見慣れた寿人くんも、可愛いのだ。
「・・・お酒入ってないときにもっかい言い直す・・・」
「うん、待ってるね」
悔しそうに仕切り直しをすると宣言した。失敗したと思ってほしくないのだけれど、恋人役という言葉のままは嫌であるし、ここで私が告白しかえすのもなんだか決まりが悪い。
「ファミレスでジャージ姿の寿人くんに告白されるのも、素敵じゃない?」
私がそういえば、寿人くんは目を丸くしてから、柔らかく笑った。
次会う時に何もなければ、私から愛の告白をしてやろう。
ビール片手に、居酒屋で。
ざまぁって難しいねぇ